追憶のオランダ(68)砂地で傾く建物

傾いているので有名なのは何といってもイタリアのピサの斜塔であろうが、オランダでも同様に傾いた古い建物があちこちで見られる。それも高い建物で、教会の尖塔などが多い。かのフェルメールが葬られているデルフトの旧教会の尖塔(写真左)、北部のレーウワーデンの教会も見事に傾いて立っている。この教会は16世紀半ば、建設中から傾き始め、その後補正しながら立てたものの、最後に取り付けるはずであったゴシック式の高い尖塔は取り付けられることなく未完成で終わっている(写真右)。このように高い建物が傾くのは明らかに地盤が弱い砂地だからだ。また、傾いているのは教会だけでなく、アムステルダムの中心地にある16-17世紀に建てられた建物はよくみると微妙に傾いているように見える。実際は左右の建物同士でお互いにもたれ合っている感じもする。それとは別に、建物はよく見ると僅かではあるが正面手前の方に前のめりになっているように見える。しかし、これは真っ直ぐ建てたものが前に傾いたわけではなく、建築当初からそのように建てられているものらしいのだ。なぜ、そうしたのか?それは最上階の部分に大きなフックが付いた梁(はり)の一部のようなものがつきだしており(写真下)、それとも関係している。それぞれの建物は大体が5-6階と高いものが多いが高さの割には建物の間口が狭く、内部の階段などは非常に狭く作られている。上の階に階段を使って家財道具などの大きなものを運び上げるにはあまり適していない。そこで、荷物を梁に付けられた大きなフックにロープをかけて上まで引き上げ、そして正面に面した窓から室内に入れるように考案されているとのこと。そのため荷物が正面の壁に直接ぶち当たらないようにわずかに前に建物自体を傾けて建てているのである。このことを知らずに、オランダの古い建物は随分傾いているなあと思ったものだ。知ってしまえば、なるほどという話。

シンゴ旅日記ジャカルタ編(11)  散歩しながら考える(イヌとネコと)の巻

散歩しながら考えるの巻 イヌとネコと (2018年3月記) 早朝散歩で出会う動物はまずイヌです。 イヌを連れて散歩する人たちと出会います。 イスラム教ではイヌは忌み嫌われる動物ですから、イヌを飼っている家は中国系の人か外国人が大半だと思います。 中にはインドネシア人のメイドさんが朝の散歩をさせているところも見かけます。 そして首輪のない野良犬にも出会います。まだ夜が明け切れない薄暗い時に、野良犬が近づいてくると怖いです。というのは、私は狂犬病の予防接種を受けていないからです。 会社でスタッフにイヌとネコの鳴き声をインドネシア語で何というのか聞いてみました。 イヌはグッ、グッ(guk-guk)で、ネコはメオン、メオン(meong-meong)と鳴くそうです。 お国が変わると動物の鳴き声も変わるもんですね。   イヌの次にはネコを見かけます。 普通は家の玄関先に座っていたり、家から道路に出てきた時に出会います。 でも、一度、草地を走り抜けるネコを見かけたことがあります。 まるでヒョウかチーターのような走り方でした。 それもそのはずで動物分類では、ネコもライオンもトラもヒョウも種は別々ですが、その上の科はネコなのです。ネコがライオン科でなく、ライオンがネコ科なのです。 イヌもネコももともとは肉食の野生動物です。でも、その狩猟方法が違うのです。 イヌは追跡型で、草原を走り抜ける長い足を持ち、相手が息を切らして休むところを狙います。 でも、イヌは木には登れません。 一方、ネコは待ち伏せ型で、木に登って獲物がやってくるのを待ちます。 ネコが木に登ることができるのは、小さな鎖骨があり抱きつくことができるからです。   イヌとネコどちらがヒトとの関わりが長いかというとイヌの方なのです。 世界の歴史からみるとイヌはヒトの狩猟時代から獲物を追う猟犬や番犬として付き合ってきました。 しかし、ネコはヒトが農耕時代に入ってからの付き合いなのです。 ヒトが穀物を貯蔵するようになり、ネズミの被害から穀物を守るためにネコが飼われ始めたようです。日本では中国から経典を持ち帰るときに船内で大切な経典をネズミにかじられないようにとネコが船に持ち込まれ、それが日本に入って来たようです。 日本の歴史で書物にネコが現われるのは885年の宇多天皇(第59代、867年~931年)の日記に先の天皇の光孝天皇(第58代、830年~887年)から中国産のネコをもらった時の描写があります。   ネコよりもイヌの方が先に人間と関わった証拠として、漢字が示しています。 「けものへん」の犭が犬という字形からできていて、ネコの漢字『猫』にけものへんが使われているからです。 今年の干支は戌年です。でもなぜ十二支にネコがいないのでしょうか。 神様  動物たちよ、お前たちは喧嘩ばかりしているのでリーダーを決めることにするぞ。 正月に一番最初に私のところに挨拶に来たものをリーダーとする。 そして、翌年からはその来た順番に入れ替わりとする。 ネコ    ネズミさん、ごめん、今、ボク寝てたんで、神様が何と言ったか教えてください なんか、神様は元旦の朝に集まれっていったんだよね。 ネズミ  違うよ、ネコさん、元旦はゆっくりしてください、その代わりに二日の日に集まれっておっしゃ たんだよ ネコ  そうか、二日の朝か、じゃあ元日はゆっくり寝ていよう となったわけです。 そして、なぜ小さなネズミが一等になったかというと、ウシさんが「ボクは足が遅いから大晦日から出かけることにしよう」と言うのを聞いたネズミが広いウシの背中にこっそりと乗り込み、その上で寝て行ったのです。 そして神様の家の前に着くと、さっと起き上がって「ありがとうウシさん」と言って牛の背中から下りて一番乗りしたからなのです。 二日に神様の所へ行ったネコの後日談です。 ネコ     あけましておめでとうございます。 今日は誰もまだ来ていません、私が一番乗りですね。 神様     たわけたことを申すでない、来いと言ったのは昨日の元旦のことじゃ。 何を寝ぼけたことを言っておるのじゃ。顔を洗って出直して来い ということとなり、ネコはいつも顔を手で洗うようになり、そして、自分をだましたネズミを追っかけるようになったのです。 でも、ネコさん、安心してください。十二支には国によって動物の入れ替わりがあり、ネコさんの入る国もあるのですよ。 それらはチベット、タイ、ベトナムで、ウサギさんの代わりにネコさんが入っているのです。 良かったですね。ネコさん。 また、ほかの国ではイノシシがブタになったり、トラがヒョウになったりします。 なお、十二支の動物にはそれぞれ縁起の意味があります。 十二支 動物 縁起 十二支 動物 縁起 子 ねずみ 子孫繁栄、財 午 うま 健康、ほがらかさ 丑 うし 誠実さ 未 ひつじ 豊作、人情 寅 とら 決断力、物事の始まり 申 さる 日和、柔軟さ 卯 うさぎ 家内安全、温厚さ 酉 とり 収穫、世話好き 辰 たつ 生命活動、正義感、信頼 戌 いぬ 安産、努力 巳 へび 情熱、追求心 亥 いのしし 無病息災、勇気 でも、十二支の漢字をみても動物とは関係ありませんよね。 十二支は本来は動物ではありませんでした。 もともとは12年で天を一周する木星の天の位置を示すための「年」の数詞だったのです。 それが月日や時間、方角に使用されるようになったのです。 方角では北東の「ウシトラ」、南東の「タツミ」、南西の「ヒツジサル」、北西の「イヌイ」が漢字の艮、巽、坤、乾となりました。   私は散歩中に一回だけウサギを見たことがあります。 野生ではありません、飼いウサギだったのですが、よその家の庭の草を食べていました。 イヌ、ネコ、ウサギ以外では、朝や夕方に飛びかう鳥たちです。 きっと、巣で待つ小鳥たちにエサを与えるために飛び交う小さな虫をとらえているのでしょうね。 それを見ると私は子供の頃のテンカラ釣りを思いだします。 夏の夕立が来そうな時は面に羽根のある小さな虫たちが飛び交うのです。 […]

シンゴ旅日記インド編(90)ワテは運転手 謝るは負けの巻

ワテは運転手 謝るは負けの巻 ワテは会社の運転手でんねん。 ご主人は日本人の社長さんですわ。 前の日本人の社長さんに二年、そして今の社長さんには二年以上仕えてまんのや。 前の社長さんは、奥さんと二人でインドに来てはりましたんやで。 今の社長さんは単身赴任ちゅうやつですわ。 そんで、前の社長さんが住んではったアパートに入りはったんで、3LDKに女中部屋がついてる広いアパートに一人で住んではるんですわ。 今の社長さんの奥さん、一回もインドに来てはらへんのやわ。きっと、ワテんとこみたいに、夫婦仲が悪いんとちゃうかなあって思ってましたんや。そんで、ある時な、社長さんに、奥さんはインドにいつ来(き)はるんですかってお聞きしたことがあるんでっせ。 そうしましたらな、社長さん、言わはったんでっせ。 『前に駐在していたタイも、単身赴任でした。タイは奥さんがいない方が良いんですよ。 でも、インドはそれとは違う意味で、奥さんを連れて来ない方が良いのです。』 ワテな、それが、どういう意味か今でもようわかりまへんのや。 この社長さんな、インドのもんを何でも食べはるんですわ。 前の社長さんは、奥さんがこさえた日本食の弁当を会社に持って来はって食べてはりましたわ。 でも、今の社長さんな、プネに来はってから毎日昼飯はインド食ですねんわ。 と、言うてもな、ここでは日本のレストランはオー・ホテルの中にある『原宿』だけですんや。 チェンナイやバンガロールなんかと違(ちご)うて日本食の弁当なんかありまへんのや。 最初の頃はワテがお店からもらってきたメニューをお見せして、チャーハンやカレーや、おかずやちゅうて注文して食べてはりましたけど、そのうちに毎日チキンカレーかベジ・ブリヤニになりましたわ。 ブリヤニって何かってですか、何ちゅうのかなあ、お米料理ですわ。 中華のチャーハンでものうて、イタリア料理のリゾットでものうて、そうそう日本の釜飯ちゅうか、炊き込みご飯みたいなもんですわ。 えっ、料理のことぎょうさん知っとるやないかってですか? ワテ、こう見えても、料理得意なんでっせ。 前に社長さんのお家で人が集まらはった時に、インド料理を作ってあげたこともあるんでっせ。 そういえば、最近、社長さんはインド料理を作ってくれっていいませんな。 あの時に買(こ)うといた香辛料のパウダーはまだあるんやろか。もう封切ってから一年以上たっとるさかい、賞味期限が切れとるはずやわ。 今度社長さんに聞いてみたろ。 そやそや、その社長さんのランチのことやった。 社長さんな、毎日続けてインド料理ばっか食べてましたんや。 ようも飽きんと毎日食べてはったと思いますわ。 そやからビスネスマンのことを日本では商人(あきんど)といいますんかいな。 去年来(き)はった若い日本人のスタッフ二人も社長さんの真似して毎日インド料理を食べてはったんでっせ。最初はタリーとかダルカレーとかばっかりでしたけどな。最近では中華料理まがいの店を見つけて、そこから中華料理を取って、三人で分けて食べてはりますわ。 うちの社長さんな、いつもは冗談ばっかり言ってはるけど、時々、カッーとなりはるんですわ。 たとえばですか、そうやなあ、そうそう、うちの会社な、去年から現地法人化されたんやて。 その前は駐在員事務所ちゅうステータスやったんやて。 そんで、この前な、庶務担当が駐在員事務所を閉鎖する続きで、銀行へ追加で提出する書類の作成で間違いをしましたんや。 ワテな、事務所におるときは、二人の近くに座ってますのやけど、お仕事は関係あらへんからね、何のことやら、てんで、わからへんかったんですわ。 社長さんが書類にサインする前に言わはったんですわ。 『何ですか、これは、少し、おかしいのと違いますか。 私がサインする書類ばかりでなく、会計士が提出する書類も、うちのレターヘッドになっていますよ。それに、そのレターヘッドが駐在員事務所のものでなく、今の法人会社のものですよ。 前のレターヘッドで作り直しなさい。』って言わはったんですわ。 庶務担当な、その時、社長の方を見んと、パソコンを見つめてじっーと黙ってたんですわ。 いつもやったら、ようけ言い訳する奴なんですわ。でも、その時は、自分が悪いってことが、バレバレやさかい、言い訳が出来んかったんでしゃろな。 そして、ちょっとしてから、社長さんに言われた通りに、書類を作り直して、印刷して、何も口利かんで、そぅーっと社長さんの机の上に置いたんです。 そしたら、社長さんが、『あのね、私に書類を出す前には、しっかりと確認をしなさいね。今回は何を間違えたのか、わかりましたか?そして、間違っていたら、すみませんと言わなければいけませんよ。』て、ちょっと強い口調で庶務担当を叱りはったんですわ。 そんでも、庶務担当は、またじっーと黙ってパソコンを見つめたまんまでしたねん。 ワテ、インド人でしゃろ。庶務担当の気持ちは全部分かりますわ。 そんなん、自分がミスしても、謝ったら負けでんがな。絶対に謝ったらアカンのでっせ。 庶務担当な、黙っておったんで、社長さんな、アップセットしてシャウトしだしましたんや。 『おいおい、誰にも間違いはあります。しかし、間違ったらすみませんと謝るのが普通ですよ。 そう思いませんか』て言うて説教口調になりましたんや。 これ標準語で言うと、怒っているように見えませんね。 関西人やったら『おい、わりゃ、どこ見てけつかるねん。ちょっと、わいの話し聞かんかい。 そんなん、間違いなんか、誰でもするがな。そやけどな、間違えとったら、カンニンやって謝るやろ。そんなん、当たり前やんけ。ワレ、どついたろか、いてまうで。』 て、言うんやろか。でも、怒鳴る時は何でか、河内弁がちょびっと入ってしまいまんな。 そんで、会社が終わって、ワテが社長さんをアパートに送る時のことですわ。 その時は、いつも一緒に帰る日本人スタッフ二人は出張に行っておって、おらんかったんですわ。社長さん、独り言のように、でも、ワテに聞くかのように言わはったんですわ。 『ミスしても謝らないのは個人の問題でしょうか、それともインド人一般の問題でしょうか』 ワテな、運転しながら、ルーム・ミラーでちょびっと社長さんの顔を覗いてから答えましたんや。 『社長さん、それは個人の問題です。インド人一般や思われたらつらいです。』 ワテな、『謝らないのは、インド人一般であると決まっていますよ。』って本当は言いたかったんや。 そやけど、社長さんが、きっとそれは個人の問題やって思いたがってはりますやろ、そやから、つい『それは、個人の問題です』って口に出てしもうたんですわ。ワテも、ええ加減な人間でんな。 ワテもインド人やさかい、場に合わせてしゃべるんが、うまいんやろなあ。 そやそや、この社長さんが来てから、ワテらスタッフな、毎朝打合せをしますんや。 運転手のワテも入れてでっせ。そんなん、まず、時間通りに始まりませんわ。 うちのスタッフは私を除いて、みんなバイクを運転して会社に来るんでっせ。 ぴたっと、8時半に会社に来れまっか。絶対5人のうち一人は何分か遅れまんのや。 社長さんな、遅れるときは電話せいって言わはって、最初は、みんな、まじめに5分遅れます、10分遅れますって社長さんに電話してましたわ。 そやけど、今は連絡してこん人もいますんや。誰かって、そんなん、名前は言えませんがな。 そりゃ、バイクの運転中に携帯使って、ちょっと遅れまっせって言うのは面倒ですもんね。 そんで、社長さんも心得たもんで、8時半からやのうて、みんなが会社に来てパソコン開いて、メールを一通り読んだと思われる8時45分ころから打ち合わせを始めるんでっせ。 みんな言うても、ワテだけパソコンはありませんけどね。 打合せは、これまた、狭い会議室に入るんですわ。 六人しか座われん部屋に八人が入るんでっせ。そやさかい、椅子が足りませんがな。 二人は、どうしても自分の机の椅子を持ってくる必要があるんですわ。 で、部屋に入るのに手間取っておるのんがいても、社長さんな、無視して『Good Mooorning』って始めてしまうんでっせ。早うせい、時間通りに始めるちゅう意味やそうですわ。 そして、社長さんが、まず全体的なことや、ご自分がその日にすることをしゃべりはりますわ。 社長さんな、気分がいい時は、今の季節は日本ではこんなんやとか、今日は中国と日本では何々を祝う日ですとか、タイではこんなことがありましたとか、いろんなこと話してくれますわ。 そして、今度のインドの祝日は何の神様を祝うんやとか、隣の州の選挙結果とか、ご自分が見はったり、聞かはったりして分らんことをスタッフに聞いたりしまんのや。 ワテら、ちゅうか、ヒンズーの人な、ファミリーゴッドがまちまちなんですわ。 インドの文化についてはお互いが違うこと言ったり、知りませんって言うと、社長さんな、ニコニコ笑って、これがインドなんやなあって顔してはりますわ。それに、社長さんな、ワテらの知らんインドのことを時々しゃべらはる時もあるんでっせ。どこでそんなこと調べてはるんやろか。 社長さんの話しが終わると、座っとる順番に今日することを話すんですがな。 他の仲間はええですわ。 営業もメンテも庶務もすることあるさかい。無かっても昨日やったこと報告すれば済みますがな。 ワテは庶務の補助も兼ねてますけど、メインが運転手ですやろ、その日にするお仕事とってほとんどおませんのですわ。でも、社長さんな、聞いてきよるんですわ。『全くすることが無いというわけではないでしょう。何かあるでしょう。一日中机に座ってるだけですか』これ、いじめとちゃいますか。 そんで、ファイリングを手伝いますとか、電話代を支払いに行ってきますとか、エアコンの掃除を頼みますとか、いろいろ考えなアカンのですわ。運転手はつらいよ、ですわ。 そんで、ある時な、、、アカン、アカン、もう社長さんを空港に迎えに行く時間やわ。 ちょっと遅れると、すぐ電話かけてきよるんでっせ。あの社長さん。 そんなん、インドですがな。時間通りになりませんがな。 この前な、社長さんが出張から帰って来て言ってはりましたで。 『飛行機が到着し、CAがアナウンスで、時間通りに到着しました。時間を守るのは大切なことですって言いましたよ。しかし、その飛行機は定刻20分前に離陸してたんですよ。』 そんなもんでっせ。インドは。アカン、もうアカン、また今度お話しまっさ。 まあ、今の社長さんが来てから毎日おもろいことばっかでんがな。楽しいおまんな。運転手は。 あっ、ワテ、さっきはつらいって言ったばっかりやのに。 まあ、インド人は、間違っても謝らんし、知らんでも知っとる顔するちゅうことですわ。 なんせ、謝ったら負けやし、それに知らん言うて相手をがっかりさせんとこ思うてますのや。 付け加えときますけどな、社長さん、すぐ怒鳴る人やけど、スタッフとは仲が良いんでっせ。 さっきの庶務担当なんか社長さんを先生か父親見たいに思ってますわ。ほな、さいなら。 丹羽慎吾

追憶のオランダ(67)住居設営奮闘記(続)

それまでの約10日以上は、先行して送っていた変圧器に電気スタンドだけで明かりをとっていた。どんな照明器具にするか思案していたところ、よく見ると天井には日本のような照明器具を接続できるような形のものは何もない。なにやら細い電気コードがチョロッと出ているだけ。天井からぶら下げる照明器具を選んでは見たものの、とても自分一人では取り付けられそうにない。そこで、再び電気屋に行き照明器具の取り付けを頼むと、店の親父はキョトンとして、お前は何を言っているんだ、というような顔をする。話が通じなかったかと思い再度言ったら、今度は言葉で半分呆れたようにはっきり言われてしまった「お前は電気器具一つもつけられないのか?」と。その後、道具がない、経験がない等々くどくど説明する羽目になったが、親父もこちらを憐れに思ったか「分かった。明日にでも取り付けにいってやる。」ということになった。いかに文化・習慣がちがうかが分かるいい経験にもなった。それで、やっと明るい夜を迎えることができたが、その時はまだベッド・ソファなど大型の家具は揃ってはいない。借りているギシギシいう簡易ベッドとパイプ椅子の生活がまだしばらく続いた。 この照明器具問題で少し分かったことだが、周りの家庭の様子を窺ってみると明かりの取り方が日本とは大きくちがうことだ。オランダでは昼間はもちろん夜でも家の中が丸見えの家が多く、夜見るとまず天井からの明かりは少なく、フロアスタンドとか壁に取り付けた照明が主流のようだった。いわゆる間接照明なのである。そして、一様に暗い感じがした。特に蛍光灯のあの明かりは殆どの家庭では見なかった。 それから何日か後にベッド・ソファ・食卓・椅子などが搬入され、さらに電化製品も続く。ただ、どの配達日にも一日仕事を休んで家で待っていなければならない。何時に配達されるか分からないので、まる一日が潰されてしまう。 なんと、すべて揃うのに、壁紙剥がし始めから1カ月近くかかってしまっていた。右の写真のちょうど真ん中に見える家であった。 この苦労、遅れて来た家族には分かるまい。 また、この間、表に面した庭が草ぼうぼうだったこともあり、草抜きをした。しかし、一時的に草がなくなった後、よせばいいのに、芝生を貼るろうと思い始めたがこれも結構な重労働だった。その割に思ったほどうまく育ってくれない。そして、後々まで定期的な芝刈りをはじめそのメンテナンスの面倒に自ら巻き込まれることになったのだ。本当に、よせばいいのに、であったが、すべて初めてのことなのでそれはそれでいい経験にはなったが。

シンゴ旅日記インド編(89)我輩は牛でんねん 祭りの巻

我輩は牛でんねん 祭りの巻 (2014年4月記) もしもし、そこにおるんはギフのおっさんやないですか。 久しぶりでんなあ。 あれっ、何ですか頭を剃って、髭を生やしてもうて。 日本から来た坊さんかと思いましたで。ナンマンダブ、ナンマンダブ。 えっ、あんさん、チェンナイに移ってしもたんですか。 そんで、月に一回はプネに来るけど、アパートを引き払ったんで、ホテルに泊まっておるちゅうんですか。 チェンナイでっか、ホ~ン、そこには我輩の弟がおりますんやで。 えっ、なんで我輩の弟がチェンナイにおるんやってですか。 我輩も弟も、生まれはバンガロールなんですけどね。 我輩らは大東亜戦争が始まって食糧不足を補うための和牛と印牛をコーハイさせるワイン計画で生まれたもんやさかい、えっ、前に教えてあげたんやけど、もう忘れてしもたんですか。 やっぱ、齢でんなあ、気ぃつけなはれや、嫁さんの誕生日とか、結婚記念日覚えてまっか。 ワイン計画ってね、日本とインドの優秀な牛をコーハイさせて、粗食やけど、おいしい乳や肉がぎょうさんできる牛を作ろうっちゅう計画でしたがな。 我輩や弟の場合はコーベ牛のオトンとバンガロール生まれのオカンのコーハイの結果ですわ。 そんで我輩はプネに、弟はチェンナイに送られたちゅうわけですわ。 オトンもオカンも、後に生まれた妹もバンガロールにおりますわ。 弟のおるチェンナイにはバンガロールで生まれた仲間も、そこにようけおるんでっせ。 ヒダの弟のミノも、マツサカの兄のシマもおりまっせ。 ミヤギの弟は、えーと、あれっ、ワテも名前が出てこんようになってもうたは。歳やろか。 まあ、こいつらはコーハイの後輩ちゅうわけですわ。   なんで、インドでワイン計画が行われたか知ってまっか。 ここなら、どんなおいしい肉が出来る牛ができても、インドやったら、それを食べる人がおらんちゅう発想ですわ。 中国でしたら、あきまへんがな、コーハイする前に食べられてしまいますやろ。 それにしても、あのころは日本とインドは仲が良かったんでっせ。 けど、なんで、日本にビーフカレーとか、ポークカレーちゅうて、インド人が聞いたら怒るような料理がでけたんやろか。 まったく、けったいな国でんな、日本は。 そうやったら、カレー・スパゲッティ、カレー・バーガー、カレー茶漬けちゅうもんも、でけてるんとちゃいまっか。 こうなると、日本と世界の国の料理のコーハイでんな。 えっ、日本料理が世界遺産になったんですか。 ビーフ・カレーも世界遺産になるんやろか。   コーハイちゅうたら、オトンの一族のコーベギュウもな、もとは田んぼで仕事しとったタジマギュウと西洋のブラウン・スイス種ちゅう乳や肉がぎょうさん取れる牛とのコーハイやそうですわ。 あれっ、ちゅうことは、我輩にはスイスの牛の血が流れておるちゅうわけですな。 我輩はこれでちょっと仲間に対して鼻が高(たこ)うなりますな。   あんさん、日本では、売られてる牛肉に『和牛』と『国産牛』の表示があるそうですな。 和牛はわかりますが、国産牛ってなんですのん。 えっ、外国から輸入した牛でも、日本で飼育し期間が外国で飼育していた期間よりも長いと国産牛になるんですって。外国におった方が長かったら輸入牛になるんですか。 ホーン、そしたら人間やったら、帰化するようなもんですな。 けど、そうやったら、外国で長いこと飼育されて、日本に輸入された牛と和牛とをコーハイさせてできた牛は和牛なのやろか、国産なのなやろか、それとも外国産なのやろか。 我輩にはようわからんですわ。 えっ、日本の牛肉の生産量を知ってるかってですか。 2010年度の日本の牛肉の生産量は、和牛が155千トンで、 国産牛が202千トンで、国産牛の方が和牛を大きく上回る量が生産されておるんですか。 そして1991年から自由化されている『輸入牛』の輸入量は、国内の生産量(357千トン)を大きく上回る、511千トンやったというんですか。ホーン。 ちゅうことはあんさんは、畜産関係のひとでっか?   えっ、何ですか?チェンナイにおる我輩の弟はどんな奴かってですか。 あんさん、相変わらず、話がつながらん人でんな。 今、牛肉の生産について話しておったばっかやないですか。 弟でっか、牛でっせ。えっ、そうやのうて、どんな性格やってですか。 弟な、なんせチェンナイに行きましたやろ、タミルナドゥ州ですがな。 タミル人ちゅうたら、独立心が強うて、言葉もヒンズー語とまったく違うクルクル文字でっせ。 お尻文字とも言う人がいますけどな。 それにお祭りや儀式の多いタミル人の社会やないですか。 そんで、おとなしい我輩と違うて、弟はお祭り好きで、独立心旺盛な牛になりましたんやで。 えっ、誰がおとなしいってですか。あんさん、結構耳がよろしいおまんな。 そんでね、弟とも時々、テレパシー通信で近況を連絡し合っておりますわ。 そうするとね、なんか偉そうにインドの政治や、経済の話をして来ますわ。 我輩な、あんさんのことも、時々弟に連絡してましたさかい、チェンナイに行かはったことを弟に伝えておきますわ。 我輩らの通信は言葉だけやのうて、映像も送ることが出来るんでっせ。   そやけど、お祭りちゅうたら、日本にはコーハイ、ちゃうコーハク・ソング・バトルちゅうんですか、12月の終わりの日にぎょうさんの歌い手さんが順番に出て来て歌う祭りがありますやろ。 あれで、最後にサブやんが、よう歌ってましたな『まつり』ちゅうやつを。 我輩は、こう見えてもサブやんのファンですねん。 えっ、サブやんやない、サブちゃんですって。 サブやんゆうたら、パチンコのクギシですって、なんですかクギシって。 パチンコちゅう遊ぶ台のピンを調整して玉が穴にはいることを加減する人ですって。 へぇー、パチンコちゅうたらあの昭和の始めに西洋のコリントゲームとかウォールゲームからスタートしてできたギャンブルでんな。 なんかオトンから聞いたことがありますわ。 けど、インドにはそんなんは、おませんで。 えっ、その漫画の原作は牛(ぎゅう)次郎っていうんですか。 なんか我輩らと関係がありそうでんな。 そんで、その牛さんは1986年に臨済宗妙心寺派で出家しはって牛込(うしごめ)覚(かく)心(しん)と名乗り、1989年に自分で設計したお寺を静岡県伊東市に建てられたちゅうんですか。 ホーン、ますますインドに関係が深いひとですなあ。   そんでね、サブやん、ちゃう、サブちゃんが歌うときにな 『ねぶた』ちゅうもんが出てきますやんか。 我輩はそれを最初に聞いたときに『寝豚』かと思いましたわ。 酢豚は知ってましたけどな、ネブタは知りりませんでしたで、 何で祭りに寝てる豚が出るんやろうと思うて不思議でしたわ。 そんでな、弟の祭り好きはオトンの血も引いてるようですわ。 オトンな、葵祭りなんかにも、よう出ておったらしいですよ。 えっ、葵祭りってなんやてですか。 あんさん、葵祭りをご存知ありませんか。 石清水祭、春日祭と共に歴史のある京都の三勅祭(ちょくさい)の一つやおませんか。 勅祭わかりますか?朝廷、つまり天皇さんが音頭を取る祭りでっせ。 そやから、一般の人たちの祭りの祇園祭に対して、葵祭りは賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物にいくようになったちゅう由緒ある祭ですのやで。 それに、京都三大祭りの一つですがな。 えっ、京都の三大祭りってなにやってですか。 これまた、難儀やなあ。 そやそや、あんさん、岐阜の生まれでしたさかい、ご存知おませんのやね。 岐阜の祭りについては、あのヒダの奴から聞いたことがありましたわ。 岐阜の三大祭ゆうたら、タカヤーマ祭り、グジョー祭りそしてドーサン祭りやて、これホンマでっか。 ドーサンちゅうたら京都出身のお侍が油売りになって、岐阜に移って、土岐氏滅ぼして、斎藤家をのっとって美濃を押さえたマムシのドーサンのことですやろ。   そんで、話は戻りますけどな、京都の三大祭りゆうたら、5月の葵祭、7月の八坂神社の祇園祭、それに10月の平安神宮で行われる時代祭りですがな。 これもオトンの受け売りですけどな。   葵祭りは、正式には賀茂祭ちゅうてましてな、賀茂(かも)御祖(みおや)神社(下鴨神社)と賀茂別(わけ)雷(いかずち)神社(上賀茂神社)で、本来は陰暦四月の中の酉の日やったけど、今は5月15日に行なわれてますわ。   祭りの行列の人達の冠や牛車や桟敷(さじき)の御簾(みす)をフタバアオイとカツラで作った葵(きっ)桂(けい)で飾ることから『葵祭』と呼ばれるようになったとのことですわ。 これね、葵がメスで、桂がオスやちゅう説もおますんやで。 こんな話があるなんて、昔の人は粋やったんやね。 葵祭りな、さっき言いました三勅祭りの一つの石清水八幡宮の『南祭』に対し『北祭』ともいわれますんやで。 そして、平安時代に祭といえば葵祭り、つまり賀茂祭のことやとオトンが言ってましたで。 あれっ、オトンはそのころ生きておったんやろか。   そんでや、ここからでっせオトンの出番は。 […]

追憶のオランダ(66)住居設営奮闘記

赴任直後はしばらくホテル住まいが続いたが、そろそろ住む家を探さなくてはと不動産屋を何軒かまわり、あちこち物件を紹介してもらった。治安問題・自身の通勤の便、さらには子供の学校への通学の便などいろいろな条件があり、適当な物件に出会うまで仕事の合間合間でのことなので、随分時間を喰ってしまった。そして決まった家が、これも偶然にも同僚が住む家の真ん前、そして隣は前々任者が住んでいたというオンモールドという地区のローハウス(日本流で言えば、棟割り長屋)なのだ。また、近所には何人かの日本人も住んでおり、おそらく子供の通学ルート、つまりスクールバスの路線に近かったことからそうなったのだった。下の写真にみえるKruipbremという通りである。 ともかく、家は取りあえず決まったが、空っぽの殺風景な部屋を住める状態にするのが如何に大変かを味わうことになった。やはり、そこは日本と大いに事情が違う。コンクリートむき出しの床にカーペットを貼り、古い壁紙を剥がし新しく貼り直す。そして照明器具をとりつける。それと並行して電気・ガス・水道、それに電話の契約もせねばならない。さらに、家具類・電化製品も揃えなければ・・・。やることはいっぱいある。しかし、このままでは家の中が丸見えなので、カーテンだけは早めに用意せねば。オランダ人なら全部自分で楽しみながらDIY でやるようだが、こちらは単身赴任してきたばかり、道具もない外国人が全部一人でやるのは無理がある。ともかく仕事の合間に、材料屋・家具屋など関係先を回り注文もして回った。 実際にやってみて後でわかったことだが、問題は壁紙と照明器具だった。 壁紙は業者に貼ることを頼んだが、業者が見て言うには「古い物が重ねて貼ってあるようなので、全部剥がしておいてくれ。」と。ここで、後先考えずOK してしまい、大変な目に合うことになった。剥がすのは最初そんなに難しいことでもないと思ったが、それは手が届く壁の半分から下くらいまで。天井までは随分高いことに今さらながらに気付いた。そうだ脚立もないのだ。たまたま、脚立は隣の家で借りることができたが、壁というのは意外と広い。剥がした壁紙は確かに2枚重ねている部分が多く、剥がしたものは意外と嵩張って捨てるにも一度には捨てられない。悪戦苦闘して一週間近くかけて2階分を剥がし終わったところでいささかうんざりして、屋根裏部屋の壁にはとうとう手を付けなかった。この間も、カーテンはない。友人から簡易ベッドを借りて、裏庭に面した2階の部屋で寝起きすることにした。数日して、カーペット・壁紙・カーテンがついた。あとは、ちゃんとした照明器具と電化製品・家具類を揃えないと・・・。 (続く)

シンゴ旅日記ジャカルタ編(10)  散歩しながら考える(出会い)の巻

散歩しながら考えるの巻 出会い (2018年1月記) 2018年になりました。私は今年の健康テーマを作り「めざせ2018」と名付けました。 えっ、それはなんですかって。はい、体重の20%である18kgを今年中に減量するのです。 あれっ、これで現在の体重がばれちゃいましたね。そうです、私はメタボリックなのです。 振り返りますと2015年はインドにいて運動不足を解消するために、マンションのジムのウォーキングマシンの上を歩いていました。2016年は3月に日本に本帰国となり、そしてインドネシアへの辞令をもらい7月からチカランに移りました。そして辺りのことを知りたくて早朝散歩を始めました。 しかし、翌年の2017年はお正月の一時帰国からこちらに戻ってからは朝がまだ暗い、仕事で疲れた、二日酔いで眠いとかいろいろ言い訳を作って散歩をサポっておりました。 下のグラフは2015年、2016年、2017年の月別の一日の平均歩行距離を表したものです。 スマホのアプリです。去年は一日1.4kmとほとんど歩いていないに等しい日々でした。 昨年11月に日本で受けた健康診断の結果、運動不足と肥満により健康状態が悪くなってきていることを数字で知りました。それで、体重を落とさねばならないと決断し、年末に日本から戻って来て、早朝散歩を再開することにしました。私の朝散歩では次のコースの組み合わせです。 私のサービスアパート前の住宅地。池を半周する一本道コース、通りの名前は湖の名前です。 雑木林。森林浴コース 雑木林の向こうの住宅地。広いので右回り、左回りとその日に合わせ歩く方向を変えます。 そしてアパートへ戻る時に道路に面した住宅地を通ります。 住宅地の中にある通りにはインドネシアの山、湖、丘、花の名前が付けられています。 自動車道路には昔の王朝の名前が付けられています。 たとえば私の住むアパートの前はパジャジャラン通りです。 西ジャワにあった王朝の名前で、バンドンにある大学の名前にもなっています。 自動車道路で魚の背骨のように中心を走っている通りの名前はタムリン通りといいます。 ジャカルタの目抜き通りと同じ名前です。タムリンとはインドネシアの民族主義者の指導者であったムハマッド・フスニ・タムリン(1894年~1941年)から付けられたものです。 池をめぐる住宅地に入って行くと入口近くの家で犬を何匹も飼っている家があります。 一昨年は3人の若者たちが一人一匹ずつの子犬を連れて歩く光景に出合いました。 しかし、今回はその人数が6人以上となり、犬の数もそれだけ増えていました。 それにその子犬の群れの他に中型犬、大型犬を一匹ずつ連れて歩いている若者にも出会いました。きっとあの家の人はブリーダーをやっていて、儲かっているのでしょうね。 犬の散歩といえば排泄物の処理をしっかりしているかが気になります。 日本ですと犬を連れて散歩する人はちゃんと後始末をする小道具を持って歩いています。 こちらではどうだろうかと気になりました。 その住宅地では犬が用を足すと、連れている人がポケットから袋を出して拾って袋に入れていました。インドネシアも町をきれいにする意識が生れて来たんだ、とその時は感心しました。 しかし、すぐにびっくりしました。犬の○○が入ったその袋を道路脇に置いてそのまま歩いて行くのです。持ち歩くのが嫌だから帰りがけにそれを拾っておうちに持って行くのでしょうね。 ある朝は赤い色、別の日には白い色の袋が道路脇に点々としていました。 でも、ほかの住宅地や通りではまだ犬が用を足してもそのままにして行く光景をみかけます。 インドもそうでしたが、公衆道徳を身に付けるには時間がかかるのでしょうね。 それにしてもあのたくさんの犬を飼っている家の前を通ると犬の鳴き声でうるさいです。 せめて住宅地では一軒に二匹までか、あるいは多くても家族の人数以上の犬は飼わないように規制できないのでしょうかね。 その池をめぐる住宅地の散歩コースは行き止まりのため、その突き当りの折り返し地点はロータリー状の草地となっています。 ある朝、その草地に生えている草を鎌で刈っている人がいました。 私は農家出身なので、子供のころはおじいさんに草刈りの指導も受けました。 鎌で草を刈る時は左手で草をつかんで右手の鎌をその根元にあてて同時に引きます。 右手と左手をシンクロさせることにより右手の鎌で、左手の指や腕を傷つけることがありません。 でもその人は草を手でつかまないで、鎌で草を殴るようにして刈っていました。 これでは草を根元まできれいに揃えて切れず、切り残る茎の高さがバラバラで美しくないのです。 きっとおじいさんが生きていてその刈り方を見たら、「これこれ、こうやってかるのだよ」と指導してしまうかも、と、そんなことを考えながら眺めていました。 そして、私はその男の人が持っている鎌が日本と同じ形状なのか気になり、その人に近づいて行きました。 私        すみません、鎌を見せてもらえますか。 その人  どうぞ。 私        日本にも鎌(サビット)があるのですよ。 その人 それはなんと呼ぶのですか 私        「KAMA」です。どうして草を刈っているのですか? その人 ヤギの餌です。ヤギを10匹飼っているのです。 私        乳を取るのですか? その人 いいえ、大きくして売るのです。 私       何年くらい飼うのですか その人  二年です。 私        一日にどれくらい刈るのですか その人  この袋に二杯です。 その草を刈る人と別れ、歩いて来た道を折り返して行くと、住宅地の出口近くでエンジン式の草刈り機を持った人たちが刃を回転させながらヤスリで刃を研いでいました。 さっきの人は機械で草を刈り取られて無くなる前にヤギのエサ用に草を手当していたのでしょう。 散歩中には私と同じように歩いている人やジョッギングしている人たちとも出会います。 私の印象では男の人は一人で歩いたり、ランニングしたり、あるいは奥様連れで散歩していますが、女性は一人で散歩する人は少ないようです。 女性は旦那様かお友達と一緒に散歩しながらおしゃべりをしている人が多いようです。 その話声から韓国の人たちが多いことがわかります。 ある時はインド人とわかる中年カップルとすれ違いました。 その時、旦那さんと目が合い「Good Morning」と挨拶されたので、私も英語で挨拶しました。 そして、すれ違って数歩歩いてから、「しまった。今度出会ったら「ナマステ」と返事をしよう」と思いました。 そして、朝ですから日本と同様に新聞配達をする人やパンを配達の人にも出会います。 朝のまだ静かな商店街通りを歩いていた時のことです。 道路横でオートバイを磨いていた人が、立ちとまって見ていた私に「スラマット パギ(おはようございます)」と声を掛けてきました。 私        おはよう。新しいオートバイですね。 その人  はい、ホンダの新型です。 私        なにが新しいのですか? その人  チューブレスなのです。 私        いくらしたのですか その人  18.1百万ルピア(13万円)です。 私        分割払いですか? その人  現金払いです。 私        お仕事は何ですか? その人  警備員です。 私        警備員ってお金持ちなんですね。私も警備員に転職しようかな。 と言って分かれました。 住宅地の散歩からサービスアパートに戻る途中に大きな庭木が道路に面している住宅があります。 ある土曜日にその住宅の一軒で、たわわに生っているランプ―タンを取っている中年夫婦がいました。 旦那さんが竹の竿を使って実を枝ごとひっかいて落とし、奥さんが落ちた実を拾い集めるのです。 私は立ちどまってその作業を眺めていました。 というのは、これまた私の田舎時代の渋柿取りに似ていたからです。 田舎では竹竿の先を割いて小さな枝を挟んでY字にし、そのY字の割れたところに柿のヘタの先を挟んで捩じって取りました。 ランブータン取りの竹竿の先がどうなっているのかを観察すると、先が割れているのでなく、竿の先には針金がフック状になっていました。 その針金のフックで枝ごとひっかけてランブータンを落としているのです。 その作業を見ていると、ランプ―タンのなった小枝を拾っていた奥さんが「持って行きなさい」と言って取れたばかりのランプ―タンを何本も私に渡そうとしました。 私は一人で住んでいるのですと言って一枝だけもらってそこを後にしました。 次の週の土曜日の同じような時間にまたそこを通ると、ご主人だけが庭に出ていて、ランブータンがまだたくさん残っている木を見上げていました。 私        […]

シンゴ旅日記インド編(88)我輩は牛でんねん 仏教滅ぶの巻

我輩は牛でんねん 仏教滅ぶの巻 (2010年11月記) あんさん、お釈迦さんについて知ってまっか? 高血圧で心臓を上にした話かって? モー、ちゃいまんがな。お釈迦さんの一族な、インドの北から来たアーリア人で、カーストで言うと2番目のクシャトリアて言われてますけどな、そんなんとは関係のないチベット・ビルマ族らしいでっせ。その頃はどこの国の王さんも自分はクシャトリヤですって言ってたらしいですわ。 お釈迦さんの一族も結構、見得っ張りでんな。 そやけど、日本の人はインドを仏教の国やと思ってるんとちゃいまっか。 そりゃ、インドはお釈迦さんが生まれた国やけど、インドの仏教徒は人口の0.8%でんねん。 ヒンズー教81%、イスラム教12%、キリスト教2%、シーク教2%、そして5番目が仏教でんがな。その後をジャイナ教、拝火教、ユダヤ教と続いていきまんがな。 そやさかい、仏教徒はあの頭にターバン巻いてはるシーク教徒よりも少ないんでっせ、というか、今ではインドではマイナーな宗教なんですわ。 エッ、どうしてインドで興った仏教がインドで滅んでしまって、他の国に拡がって行ったのか知りたいですって。あんさん、またまた、突然のご質問でんな。 まあエエですわ、いつものことやがな。 お釈迦さんが死にはったんを仏滅と言いまんがな、これが紀元前486年とか、紀元前383年か言われたまんのや。インドやから、まあ、エエ加減ですねん。 そんでお釈迦さんな、80歳で死なはったんでっせ。 きつい修業しはって、そんな歳まで、よう生きはったと思いますわ。そんで火葬ですがな。 その時な、大きな国が八つあったんで、舎利ちゅうか遺骨を八つに分けてそれぞれの国に納めたちゅうんですわ。これが仏塔、スツーパの始まりでんな。 日本にもありますんやで、お釈迦さんの舎利が、明治時代にタイから日本に贈られたんですわ。 そのお寺知ってまっか?名古屋の日泰寺でんがな。あんさんの地元の近くやがな。 そんで、お釈迦さんが死んで100年も経ちますとな、お弟子さんたちのそのまたお弟子さんたちがお釈迦さんの教えを勝手に解釈する人が出て来たんですわ。 その頃はお釈迦さんが言わはったことをお経にまとめてませんでしたんや。 そんで、お弟子さんたちのそのまたお弟子さんちゅうか坊さんたちが、何かにまとめなアカンいうて集会を開いたんやけどな、坊さんたちな、保守派と革新派に分かれるんですわ。 こんなんはどこでも、いつでもおんなじでんな。 けどその坊さんたちの集会ではインド人やから、一旦言うたら後に引きませんがな。 よう言われまっしゃろ、『国際会議では日本人にしゃべらせて、インド人を黙らせる』のが会議運営のコツやて。 そのまとまらん議論をまとめたんが、『論蔵』って言うんですわ。 それにお釈迦さんの説教をまとめた『経蔵』ですわ。 そして坊さんたちの規則をまとめた『律蔵』とあわせて『三蔵』て言いますねん。 この三蔵をよく知ってる坊さんのことを『三蔵法師』って言うんですがな。 知ってまっか『三蔵法師』。エッ、夏目雅子やろて? ちゃいまんがな、ぎょうさんの『三蔵法師』がおるけど、日本で有名なんが孫悟空の出てくる、西遊記の元となった玄奘さんでんがな。 そう言えばな、この玄奘さんのお骨の一部も日本にあるのを知ってまっか? サイタマのお寺にあるんでっせ。 でもな、玄奘さんがインドに行ったんわ、紀元後の630年頃なんやで。 そんなん、とっくにお釈迦さんは死んでまんがな。 それに、その頃な、もう仏教はヒンズー教に迫害されてましたんや。 そりゃ、仏教の盛り言うたら紀元前250年くらいのマウリア王朝の三代目で仏教を保護したアショカ王の頃でっせ。 そのアショカ王の息子さんな、出家してからスリランカに仏教に広めに行かはって、その島の仏教の開祖にならはったんですわ。 そこからビルマ、タイ、カンボジアなんかに仏教が広がったちゅうわけですわ。 これが南回りの『仏陀=お釈迦さん』やちゅう上座仏教ですわ。 ご利益を求めるバラモン教と違って仏教は個人のゲタツが目標でんがな。 えっ、ゲダツってなんやですか? 死んで生まれての死んで生まれての輪廻のサイクルから外れて、『仏陀の世界=涅槃』へ行くんがゲダツでんがな。 上座仏教はゲダツするにはお釈迦さんと同じ厳しい修業せなアカンちゅうんですわ。 その反対にな、きつい修業せんでも、悟りを開いた人にお祈りすればゲダツできるちゅうのが大乗仏教ですわな。 そんで、この人たちな、『仏陀=永遠の真理』ちゅうて、お釈迦さんを筆頭にヒトさんに教えに行く仏陀の化身は無数におるちゅうことにしたんですわ。 それが阿弥陀如来さんや薬師如来さんたちでんがな。 そんでもってお釈迦さんの言葉を書いて文字にして広めなアカンちゅうて、お経をようけ作ったんですわ。 般若経、法華経、阿弥陀経、華厳経みたいに何千ものお経を作ったんでっせ。 それらのお経を玄奘さんたちが苦労して探し出して集めて中国に持ち帰って一生懸命に翻訳したんですわ。と言うことで仏教が教団の内部で上座と大乗に別れたんが、仏教が滅ぶ一つ目の原因やと思いますわ。 二つ目はスポンサーがおらんようになったこととちゃいまっか。 仏教ってカースト制度反対、身分差別反対ちゅうもんでしゃろ、けど、修業するってお金がかかりまんのや。そのお布施は王さんや商人階級から貰ってたんですわ。 えっ、何で王さんがバラモン教でなく仏教を援助するのかって? バラモン教てな、王さんよりも儀式するバラモンの方が位が上でっしゃろ、そんで王さんたちなバラモンの言うこと聞くのを嫌って仏教徒になったんですがな。 王さんたちは自分たちに命令するバラモンよりも小集団活動する仏教の方が好きになったんでしゃろな。 そんで王さんのなかからも仏教に帰依ひとたちがでてきましてな、大きな修道場の竹林精舎や祇園精舎を寄付しはったんですわ。 でもな、6世紀になると政治的な混乱から都市が衰退していったんですわ。 税金は入ってこおへんし、商売が上がったりやがな。 そうなると仏教教団にお金出してくれる王さんも商人さんも寄付するお金が無くなりますやろ、それに何と言っても、お葬式や結婚式や成人式はご利益第一のバラモンさんたちの独占事業やさかい、仏教教団はお金がなくなって、だんだん少のうなって行きましたんや。 それに輪をかけたんがバラモン教の反撃やがな、アーリア人の宗教やったバラモン教が地場の神さんをどんどん吸収して行ってからに、ヒンズー教と呼ばれるようになって来たんがこの頃でっせ。 何でもありでんがな。色の黒いシヴァさんやヴィシュヌさんたちをどんどんヒンズー教の神さんに取り入れていってしもうたんでっせ。 そして仏教のお釈迦さんもヴィシュヌさんの9番目の化身やっちゅうことにしたんでんわ。 やっぱりゲダツを求めるよりもご利益ですわな。 これは、いつでもどこでも一緒でんな。 そしてトドメはイスラム教でんな。知ってまっか。あのヘジラ。 イスラム教の教祖さんのメッカ征服が630年頃でんがな。 イスラムの人な、山からも、海からもインドに一杯来よったんですわ。 『右手に剣、左手にコーラン』ですがな。 お祈りしか出来ん仏教徒はもうあきませんわ。 追い出されるようにインドの北と南から東へ東へと向かって行ったんですわ。 けど、我輩な、インドで仏教が無くなったん本当の理由は、インド人には仏教が合わんかったんやと思いますわ。 そやかて、あんなにようけしゃべらはる人たちがジィーと黙って10秒以上も座禅組めるとは思えませんがな? エッ、納得出来るってですか、お前もようしゃべるインドの牛やないかって? そう言われるとそうでんな。我輩も納得ですわ。 そんなら、ついでに言わせてもらいまっさ、香川の金毘羅さんね、あそこの本尊って元はガンジス川のワニの神さんの化身って知ってましたか? アカン、また余分なこと言ってしもた。これ話すとまた長くなるさかいにもう失礼しまっさ。 ホナ、サイナラ。(もっと言いたかったんは、金毘羅さんのある山の名前やわ、象頭山や、象頭って言うたらガネーシャのこととちゃうかなあ。)   丹羽慎吾

追憶のオランダ(65)アンティークタイルへの旅(続)

美術館での展示といえばは絵画・彫刻などが中心だが、アンティークタイルも芸術品としてそれぞれの美術館には展示・収蔵されている。その中で、最も心が躍ったのは家の近所でもあったのボイマンス( Boijmans )美術館(左の写真)。そこはブリューゲルの有名な「バベルの塔」をはじめ16-17世紀の有名なフランドル絵画がたくさん収蔵されていて、これはこれでよく観に行ったものだが、私のもう一つの興味は少し違った場所にあった。あまり目立たない殺風景な部屋に幾つものスチール製の大きなキャビネットだけが設置されているのだ。大きな地図などのようなものを収納するあまり底が深くない引き出しが何段にも付いている。その引き出しは想像するよりも重く、一段ずつそろりと引き開けてみると、中には何枚ものタイルが整然と並べられている。何という展示方法だ。 次から次へと引き出しを開け、その都度ため息の連続だったことを今でも思い出す。欲しいと思っている図柄のものがいくつもあるではないか。まさに、よだれが出そうな感じだった。実際、出ていたかもしれない。 タイルの展示では多くは何枚かを石膏・モルタルで一枚の大きなパネル状に固定して壁などに飾られていたり、ガラスケースの中に一枚ずつ並べられていたりしているが、ボイマンスでは引き出しの中。 また、実際に使われている建物でタイルを見学する場合は、ちとそれまでの鑑賞方法とは違う。フェルメールの絵をご覧になれば、タイルがどのように使われているかがよく分かるのだが、壁の一番下の部分、床と接するところに一列に約13cm四方のタイルがずらりと並べて貼り付けられている。彼の絵は殆どが室内の絵で、そこにはタイルが描きこまれていることが多く、そのタイルには天使とか子供の遊びなどのモチーフが細かく描かれている。代表作「牛乳を注ぐ女」の画面右下にご注目。 タイルの目的はと言えば、モップ・ほうきなどで床掃除をする時、水濡れしてもいいようにタイルが貼られているわけだ。というわけで、実際の建物に使われているものを見学する時には、薄暗い(大体が古い建物は照明がとても暗い)建物の中で殆ど床に這いつくばって壁際の一枚一枚を見て回ることになる。他に客がいる場合、「こいつ何をやっているのか」と怪訝な眼で見られることも何度かあった。そこでタイルを指さし、素晴らしいタイルを見ていると言うと納得してくれ、私と同じようにのぞき込む人もいた。また、古い建物では必ずといっていいほど各部屋に暖炉が切ってあり、その内壁を飾っているのもこの種のタイルだった。それも見て回る。ある時、古めかしいレストランで食事することになったが、その時、店の人は中庭に面した明るい窓際の席を勧めてくれたのだが、タイル張りの暖炉が目に入った私は当然のこと暖炉の側の席を希望した。おかげで、そこのタイルもじっくり見学できた。他の客が座ってしまっては、後ろでゴソゴソするわけにはゆかぬから。

シンゴ旅日記ジャカルタ編(9)  散歩しながら考える(日の出時刻)の巻

散歩しながら考えるの巻 日の出時刻 (2017年12月記) 私は東南アジアやインドで駐在した国々の日の出、日の入りの時刻が日本と違って一年間を通じてあまり変わらないことを実感していました。 日本のように夏の季節の日の出は早く、冬の季節は遅いということがないのです。 インドネシアに着任した昨年11月は朝の5時半前には辺りは明るくなっていました。 しかし、3月ごろから日の出の時間が遅くなり、5時半ではまだ暗い朝の日が続きました。 そしてまた10月の半ばころから5時半になると辺りが見えるくらいの明るさになりました。 日本であれば日の出が一番早いのは夏至の6月ですので、違和感がありました。 散歩しながらインドネシアの日の出時刻は年間を通じてどう変化しているのだろうと思いました。 そして調べてみると次のグラフとなりました。データは2017年のものです。 縦軸の下から上に向かってが一日の時間経過で、横軸が1月から12月の一年間の推移です。 ジャカルタの日の出時間は11月が一番早く、8月が一番遅くなるのです。 これではよくわかりませんので東京の時刻と重ね合わせたのが次のグラフです。 インドネシアの日の出、日の入り時刻が日本のもの同じ傾向を示さないのはジャカルタが赤道に近く、そして南半球に位置しているからです。 夏至や冬至の日が日の出時間のピークになると思うのですが不思議ですね。 それで今まで私が駐在した都市のシンガポール、バンコク、チェンナイの日の出、日の入り時刻を調べてグラフにしてみました。 バンコクとチェンナイの日の出、日の入り時刻は同じようになります。 これは緯度がほぼ一緒だからです。 そしてシンガポールとジャカルタは同じ傾向を示しますが、約一時間半ばかりシンガポールの日の出、日の入時刻が遅いのです。これはシンガポールの経度が関係してきます。 ジャカルタは日本との時差が二時間あります。 シンガポールは日本と時差が二時間あるジャカルタやバンコクと同じような経度に位置するのにかかわらず日本との時差は一時間しかありません。 それぞれの都市の緯度、経度で表すと次のとおりです 経度は360度ですから一日の24時間で割れば、経度15度ごとに一時間の時差となる計算になります。 シンガポール、ジャカルタ、バンコク、香港、台湾、北京と東京の時差を東京の経度(東経139.43度)を元にして計算で求めたものと、実際に使われているUTCの時差との比較をしてみました。 東経 東京との差異 計算時差 UTCでの時差 ソウル 126.58 12.85 51分 なし 台北 121.33 18.10 1時間12分 1時間 マニラ 120.59 18.84 1時間15分 1時間 香港 114.06 25.37 1時間41分 1時間 北京 116.24 23.19 1時間33分 1時間 ジャカルタ 106.51 32.92 2時間12分 2時間 ハノイ 105.50 33.93 2時間16分 2時間 シンガポール 103.49 35.94 2時間24分 1時間 クアラルンプール 101.41 38.02 2時間32分 1時間 バンコク 100.30 39.13 2時間37分 2時間 チェンナイ 80.15 59.28 3時間57分 3時間30分 シンガポールは本来であれば東京と2時間の時差があってもしかるべきなのです。 それが1時間しかないのは、同じ華人社会の香港の株式市場と同じにするために香港の時差に合わせたという説があります。マレーシアはシンガポールに追従したのでしょうか?   日の出日の入り時間が緯度によって違うということは一日の日照時間が違うということです。 私が駐在した都市と東京の日照時間をグラフにすると次のとおりです。単位時間/日 突然ですが英語で気候を表すClimateの語源はギリシャ語の「(お日様)の傾き」なのです。 季節の代わり目の春分と秋分の日には太陽が赤道の真上に来ます。 その時に赤道地点にいると、太陽が南中した時に影が真下にくるのです。 その赤道0地点がカリマンタンのポンティアナックです。 春分には多くの人が真下の影を体験するためにでかけます。 ポンチアナックの日の出、日の入り、そして日照時間はどうなっているのでしょうか。 東京、ジャカルタと比較してみます。 そしてこれらから日照時間を計算すると次のようになるのです。 同じインドネシアでもジャカルタとポンティアナックでは日照時間が微妙に違うのです。   日照時間だけでなく、日本とインドネシアは気温、降水量そして湿度も違います。 日本では日照時間、気温、降水量、湿度が一年を通じて変化します季節があるののです。 春一番、春眠暁を覚えず、衣替え、夕涼み、秋の夜長、冬仕度、、、、、 そして、季節があるのでその時々の風景に感動する俳句が作れるのだと思います。 日本人の挨拶は季節用語で始まります。 「すっかり暑くなりましたね。」「まだまだ暑いですね」「寒くなりましたね。」「うっとおしい梅雨ですね」 そして、日本人の記憶は季節と一緒に表されます。 「あの時は桜が咲いていましたね。」 「あの時は雪が降った寒い朝でしたね。」 インドネシアでは「暑くなりましたね」とか言えないのです。 日本では田植えや稲刈りは季節の風物詩ですがインドネシアでは二期作、三期作ですから「あの時は稲が実った時期でしたね」とも言えないのです。 ジャカルタと東京では湿度も違います。 日本の哲学者・和辻哲郎は『風土―人間学的考察』(1935年)で世界の地域の中からモンスーン・砂漠・牧場という三分類の設定をし、「風土」は単なる自然現象ではないといして、その地域ごとの文芸、美術、宗教、風習、食物、植物などあらゆる人間生活の特質を浮き彫りにしています。 […]