シンゴ旅日記ジャカルタ編(6)  オジェック(OJEK)の巻

散歩しながら考えるの巻 OJEK (2017年2月記) 昨年3月インドから帰国し、日本でのおいしい料理を食べすぎて、体重が大きく増えました。 その11月にインドネシアに赴任してから、その体重を減らすため散歩をしています。 散歩と言っても住んでいるマンションの周りの限られたコースを朝食前に歩くだけです。 しかし、その途中でいろんな人や物に出会います。 マンションを出てまず出会う人たちは、朝早くから客待ちしているオジェック(OJEK、オートバイタクシー)の運転手さんたちです。 朝はマンションからの通勤客、その次はマンションに併設されているスーバーへ来る買い物客を待っているのです。 また、マンションと道路を挟んだ向かいに大きな教会があり、土日はそこへお祈りに来る人たちがお客様になります。 駐在員仲間からはオジェックは転倒したり、車とこすったりして危ないから乗らない方がいいよと忠告してくれます。 しかし、私はバンコク時代もマンションから近いところでの買い物はオートバイタクシーを使い、買い物のあとは両手で紙袋を下げ、道路を曲がるときはその方向に体を傾けたりして気楽に乗っていました。それで、こちらでもオジェックを時々利用しています。 この前の雨の日は、マンションで借りた傘をさしてオジェックの後部座席に乗ってモールに行き、帰りは左手に荷物を抱え、右手は傘をさしてオジェックに乗って帰ってきました。 しかし、散歩に出始めたころに運転手さんたちに「スラマット・パギ(おはよう)」と声をかけると、彼らは私に乗っていかないと誘いました。 私は歩く格好で両手を大きく前後に振って「クセハタン(健康)、オララガ(運動)」と返事して通り過ぎました。そんなことが数回続くと、挨拶をすると彼らはジョッギングのジェスチャーをしたりして答えてくれるようになりました。 ジャカルタ市内には配車オートバイタクシーであるゴージェック(GO-JEK)があります。 スマホで予約するものです。ウーバー(Uber)タクシーのオジェック版です。 OJEKとGO-JEK、インドネシア人もシャレ大好きですよね。 インドネシアの二輪車の年間の販売台数は600万台(2016年)です。 ちなみに日本の二輪車の販売台数は1983年の320万台をピークに下がり続け、最近は40万台を切ったようです。そういえば、昨年はシェアー一位のホンダと二位のヤマハが50㏄スクーターの生産、開発で提携を検討するというニュースがありましたね。 一方、インドネシアの四輪自動車の販売台数は2016年が106万台でしたので、まだまだオートバイが主流の国です。 オートバイの生産や販売台数は何と言っても人口が13億人もいる中国やインドです。 その次にインドネシアが入り、ベトナムとタイが続きます。 オートバイが出回る前のジャカルタは食べものを天秤棒でかついて売り歩いていました。 今でも時々その姿を時々見かけます。私はそれを見ると江戸時代の棒手振りを思いだします。 また。屋台に車輪をつけて運ぶカキリマ(Kaki Lima、五本足)もあります。 そして今ではオートバイが移動店舗となっているのです。 オートバイの後部座席に飲み物、食べ物、たばこなどを詰めた箱 を載せて道路端で販売しているのです。 その行商する商品と運んでいる箱の中を見させてもらいました。     マンション前で客待ちする運転手さんたちは私が散歩から帰ってきても、出発した時と同じ姿勢で客を待ち続けている人もいます。 ある朝、散歩からの戻りに、運転手さんたちが何か食べていたので、それは何かと聞くと「芋」だと言い、食べてみないかといわれました。 それでそれを食べてみるとサツマイモを煮たか蒸したものでした。 私は少し食べてからありがとうと言って皆の写真を撮らせてもらいました。 (参考資料) サツマイモとジャガイモ(農林水産省のHPから抜粋) サツマイモは、メキシコを中心とする熱帯アメリカで生まれました。 紀元前800~1000年ごろには、中央アンデス地方でサツマイモがつくられていたのです。 ヨーロッパへは、コロンブスが15世紀の終わりにアメリカから持ちかえったのが始まりです。 でも、ヨーロッパでは気候が涼しすぎてあわなかったので、あまりつくられなかったのです。 あたたかいアフリカ、インド、東南アジアの植民地に持ちこまれたことで、世界中に広がりました 東南アジアへはスペイン人やポルトガル人が持ちこんで、その後中国へと広がったとされています。 日本へは1600年ごろ、中国から伝わってきました。 琉球から薩摩に伝わったので、サツマイモとよばれています。 中国(唐)から来たいもで「からいも」とか、中国と同じく「かんしょ」とも呼ばれていたそうです。 八代将軍吉宗のころに、蘭学者の青木昆陽によって全国に広められました。 今の埼玉県川越市あたりはサツマイモの産地で、江戸から十三里あったので、ここから来る焼きいも屋のことを「十三里」とよんでいました。 それにひっかけて、焼きいも屋が「栗(九里)より(四里)うまい十三里(9+4=13)」とふれて売っていたそうです。 一方、ジャガイモは中南米から、南米のアンデス山脈で生まれました。 今でも3000m以上の高地では、ジャガイモのもとになっている野生種がたくさん残っています。 15世紀の終わりにスペイン人が南アメリカから持ちかえったのが始まりで、ヨーロッパでは長い間、花を楽しむだけのものだったのだそうです。というのはヨーロッパはアンデスより日が長くてあたたかいので、葉や茎だけがしげって、芋ができにくかったのです。 日本には17世紀の初めにインドネシアのジャカルタからやってきました。 「ジャカルタから来たいも=じゃがたらいも」がなまって「ジャガイモ」になったといわれています。 その後、江戸時代に何度もあった飢饉(ききん)のたびに、飢えをしのぐための作物として広がったようです。 現在つくられている男爵、メークインといったジャガイモは、明治時代になってアメリカから入ってきた品種です。 ちなみにナスはインド東部が原産地です。 熱いほうが育ちやすいのです。 日本には中国からと、朝鮮半島からと、東南アジアからの、大きくわけて3つのルートではいってきて、奈良時代にはすでにつくられていたと考えられています 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(83)我輩は牛でんねん シヴァさんの巻

我輩は牛でんねん シヴァさんの巻(2010年9月記) 何ですって? インドから日本に帰って来たヒトから、スーパー・ウィルスが見つかって、それはどんな薬にも抵抗力を持っておるってですか。ホ~ン。 そんで、その細菌の名前がNDM1ちゅうて、最初のNDがニュー・デリーの略やちゅうんですか、ホ~ン。 えっ、ヒトさんは昔からウィルスとの戦いやったんですか? ヒトがウィルスをやっつけようと薬を作ると、今度はその薬が効かんようなウィルスが出て来るちゅうんですか? ウィルスは何でも取り込んで生き延びて来たちゅうんですか、ホ~ン。 それやったらヒンズー教と同じようなモンでんな。 何でかですって。 知ってまっか、わずかに3500年くらい前やろか、インドの北からな、アーリアちゅうヒトたちがな、攻めてきたんですわ。 インドの北の方やちゅうてもな、今な、問題になっとるアフガニスタンかパキスタンあたりでっせ。 そのころのな、インダス川にはモヘンジョダロやハラッパちゅう大きな都市があってな、ドラヴィタと呼ばれるヒトたちがおって栄えていたんやて。 そやけどな、北から来たヒトに勝てんかったのですわ。 北のヒトは馬に乗ってはったし、鉄を作ってはったんで、南の農業やっとるヒトではチカラで勝てんのでしたわ。 南のヒトの使うとる動物は我輩ら牛でっしゃろ、そりゃ馬さんには負けますわな。 アカン、先祖さんの牛の悪口言ってもた、先祖さん、カンニンやで。 そんでドラヴィタさんたちな、もっと南へ、さらに南へと移りはったんですわ。 さらに西へちゅうたのは日本の昔のシンカンセンですってね。 すんません。話が飛んでもて。 アーリアのヒトたちな、バラモン教ちゅう宗教を持ってたんですわ。 バラモンですよ。シナモン、ゴエモン、ポケモンとちゃいまっせ。 そんなダシャレ言わんでもエエってですか?すんません。 その頃のな、バラモン教はお酒を飲んではったり、牛を神さんに祀って食べたりしてたんでっせ。 この話は止めますわ。牛を食べる話は、あっちゃに置いときますわ。 我輩な、牛の一族として食べられると思うとちょっとだけ気分が悪うなるんですわ。 そのバラモン教な、ヴェーダちゅう神話みたいな、宗教儀式を書いたようなモンがありましたんや。 そんでね、それには神に仕えるバラモンが一番エライって書いてあったんですわ。 カースト制度の始まりでんな。 そしてね、インドの東側のガンジス川の方までアーリアさんが広がってね、町が大きくなって行ったんですわ。 そうするとな、商売をするヒトが増えてきて自由にモノを考えるヒトが増えてきたんですわ、バラモンはおかしい、バカモンやないかちゅうヒトたちが出てきたんですわ。 えっ、そのシャレはおもろないってですか? すんません。(なんか今日は謝ってばっかしやな、我輩) それやったら、言い直しますわ、今から2500年くらい前にバラモンはアカンちゅう宗教が出て来たんですわ。 それの代表選手がゴータマ・シッタルダさんでんがな。 この人を知ったるだ?(アカン、またダシャレになってもた。オッサンが分からんうちに続けたろ)お釈迦さんやで。それでバラモン教が下火になったんですわ。 バラモンのヒトたちな、信者を取られてしまうんで、こりゃ、アカン、おマンマ食えんようになるちゅうことでな、こりゃ何でも取り入れた方がエエワちゅうことになってね。地場の神さんたちもどんどんバラモン教に取り込んで行きましたんや。 そうしてバラモンさんたちな、仏教の真似して牛を食べてはアカンて言い出したんですわ。 その頃でんな、インドラさんやブラフマンさんたちみたいなアーリアの元々の神さんが人気が無くのうてもて、シヴァさんとヴィシュヌさんちゅうアーリアでない神さんに人気が集中して来たんですわ。世代交代ちゅうやつでんな。 そんでバラモンさんたちな、お釈迦さんはホンマはヴィシュヌさんの化身やちゅう話も作りあげたんでっせ。 これ、ネツゾウでっせ。何でもありのマージャン・ゲームみたいなモンでんな。 えっ、何でそんなゲームを知っとるんやってですか? こう見えても何でも知ってるインテリでんがな、我輩。 日本の文化、風習、歴史、風俗をみんな勉強しましたで。 風俗の時が一番おもろかったですな。グフッ、フクワラ、ヨシワラ、オゴトでっしゃろ、あんさんのギフのヤナガセのカナズエンでんがな。 アカン、あの角のとこに我輩のヨメはんが友達と来たんのが見えましたがな。 話を戻しまっさ。 アーリヤのヒトって国は征服したけど、宗教は地場の神さんに征服されたてしもたんやね。そんでね、その頃からバラモン教やのうてヒンズー教って呼ばれるようになったんですわ。 紀元400年ころやろか、グプタ朝の王さんたちがヒンズー教を援助しはってな、ようけお金を寄付したさかいな、ヒンズー教がワーッて広まったんですわ。 でね、ヒンズー教にはキリストさんとか、モハメッドさんとか、お釈迦さんみたいな創業者がおりませんのや。 そんで聖書もコーランもお経もおませんのや。 さっきゆうたヴェーダちゅうもんがあるんやけどな、今のヒンズー教とは全く関係おませんのや。 そんでな、ヒンズー教のヒトたちな、なんか難しいこと言うヒトもおるし、おチンチンを祀るヒトもおるし、それね、リンガって言うんですわ。リンガでっせ。覚えといてくださいな。 そんでな、酒飲んだらアカンゆうヒトもおるし、逆にお酒飲め飲め飲めちゅうウタゲもあったそうですわ。 そしてね、ガンジーさんが言うとった殺したらアカンちゅうアヒンサーがあるかと思ったら、首からドクロ下げていつもイケニエを求める女の神さんもおりますのや。何でもありでっせ。いろんな神さんを取り入れてきたからでっせ。そんでさっきのヴェーダの次にな、プラーナいう物語見たいなモンがようけ作られてな、シヴァさんやヴィシュヌさんがどうしたって書かれておるんでっせ。 これって日本と同じやってオトンが言ってましたで、日本でもな、キキちゅう神話があるそうでんな。へぇー、コジキ、ニホンショキやからキキちゅうんでっか。 今やったら日本は経済と政治が危ないからセイケイ・キキでんな。 えっ、余分なこと言うなってですか?すんません。(アカン、また謝ってもた) そのキキな、神さんがどうやって日本を作らはって、その神さんがどうやってテンノーさんになって、そしていろんな国をやっつけてきたか、国を治めて来たかちゅうことが書いてあるそうでんな。 そんで最初の何人かのテンノーさんは実際におらへんかったそうそうやね。 ツジツマを合わせるためにつくられたそうでんな。 そんで神さんがな、国を作らなアカンゆうて、オトコとオナゴの神さんがアメノヌボコで海かき混ぜたら島が出来たんやて。(あれっ、これってヒンズー教の乳海攪拌と一緒やな、全く。乳海攪拌ゆうてもおっさんは分からへんやろうから説明するのは、あとにしとこ) そんでリンガみたいな柱な、アメノミハシラと言うんでっか、それをオトコとオナゴの神さんが回って手を繋いだんやて、そしたらな、一回目はな、オナゴの神さんが先に声を出さはったんやて、その時に何て言ったんかは知らんけどね。 そんでうまいこと国が出来んかったんやて、そんで今度はな、反対回りしてな、また手を繋いだんやて、そして男の神さんが先に声出したんやて、何て言ったんかは吾輩は知りませんがね。 何か明るい感じでエエね、日本のキキは。そんでアワジシマができたんやて。 アワジシマゆうたら渡哲也やがな、阿久悠でんがな、我輩なファンでんねん。 それに海原千里万理、妹の方な今の上沼恵美子でんがな。 ようしゃべりまんな、あのヒト。 大阪城と通天閣は自分のモンやって言うてまっせ。(アカン、また話がそれてもた。) そんでな、このキキちゅうお話な、次々と日本の国が出来て行ったんやて。 そやけどその時なオトンがマグワイって言っとったけど何のことやろね。 オトン教えてくれへんかったわ。あんさん、知ってまっか、えっ、知らんでエエってですか。まあエエわ、そんでな、そのころは神さんが空の上に住んでましてな、そのうちある神さんが地球に行きたいゆうたんやて、テンソン・コーリンやがな。 これな、まるでアムルタを天界で獲って戻るときにヴィシュヌさんと戦ったガルーダさんの話見たいやな。分かりまっか?分からへんてか? まあよろしおま。あと知ってまっか? ヤタガラスや、オオクニヌシや、イナバのシロウサギや、三種のジンギや言うて、キキって大スペクタクル・アドベンチャー&ロマン&サスペンス&コメディでんなあ。 スピルバーグさんと映画作ったら世界中できっと売れまっせ。 大もうけ出来まっせ。えっ、もうそれをもとに作ったってですか、ホーン。 何ですか?日本のキキの話はもうエエってですか? そんでお前はシヴァとヴィシュヌとどっちの神さんが好きやってですか? あんさん、それな、グモンでっせ。我輩な、こうみえてもな、シヴァさんファミリーの一員の子孫でんがな。 我輩な、シヴァさんに仕える一族のマツエイなんでっせ。 シヴァさんのブロマイドには我輩の先祖さんが必ず横にいてはるんですわ。 えっ、そんなに、ムキになるなってですか? ならんでかいな。乳海攪拌って知ってまっか?そんなの知らんてですか? バンコクの空港に飾ってあるそうやないですか? 我輩の先祖の最初の牛はそこから生まれたんですわ。 でもな、この話おかしいんでっせ。 シヴァさんのライバルのヴィシュヌさんの物語やのに、我輩らの先祖の始まりが出てくるんでっせ。何でもありでんな、まったく。 まあ、その話はな、山をスリコギにして海をこねて色んなものが出て来たっちゅう訳でんがな。 なんと、最初に出て来たんが牛、我輩たちの先祖さんやね。 これメス牛でんがな、そのメス牛さんとある仙人さんの間に出来たオス牛がシヴァさんの乗ってはるナンディンでんがな。 バンコクちゅうたらな、あんさん知ってまっか、タイは仏教の国や言いますけどな、タイの王様さんはな、ヒンズー教でんねん。大体名前がラーマて言いますやろ。 そやさい王宮のカザリなヒンズー教のモンばっかでっしゃろ。 仏教は平等でっしゃろ、そうしたら王様さんはショミンと同じになってしまいまんがな。 今度タイに行ったら、王宮をよう見て下さいな、ヒンズー教のモンばっかでっせ。 アカン、また話が飛んでもた。 シヴァさんな、インドの南の方で人気ある神さんですわ。 南インドな、女の神さんが多かったんでっせ。 そんでバラモンのヒトたちな、みんなシヴァさんのヨメはんやちゅうことにしてもうたんですがな。 そんで、あれですがな、あれ、ほれ、『踊るはマハラジャ』って映画知ってまっか? 話が飛んでるってですか? すんまへん、我輩な、この後にワイン・ハーフの会の寄り合いがありまんねん。 我輩は副会長ですやろ、それに今日はどうしても行かなあかん用事がありまんのや。 ほんでね、『踊るマハラジャ』でんがな、インドの有名な映画でんがな。 日本では『踊る警官』ちゅう漫画ありましたな。(また関係ないこことをいうてもた) そんでな、『踊る神さん』ゆうたらな、シヴァさんのことでんがな、その横で伴奏してるんがナンディンでんねん。 ナンディンてシヴァさんの運転手兼ミュージシャン兼プロデュサーでんねん。 インドでよく見るシヴァ・ナタラージャちゅうブロンズ像ありますやろ、あれなコビトの悪魔を踏ん付けて踊ってるシヴァさんでっせ。 えっ、おんなじように鬼を踏みつけている仏像が日本にもあるってですか?ホーン。 それにシヴァさんゆうたら破壊の神さんでっせ。 […]

新加坡回想録(43)オーストリアで中国語

以前、「(12)北京語を習う」と題した記事で、私の中国語との出会いや興味をもつに至った経緯などを書きました。その後体験した中国語関連のエピソードについて少し書きたいと思います。 シンガポールに赴任した時、まだ一つの部署として確立されていない、つまり俗にいう”食えていない”状態だった。3年~5年と推測される駐在の間に、少なくとも1人は”食える”状態にすることが私に課せられた任務だった。赴任後しばらくして現地の日本人会の中に中国語講座があることを知った。北京出身で英国人の旦那さんをもつ中国人女性が先生だった。ひょっとして中国語を覚えることで顧客と親しくなれるのではと思った。 そこでは、毎週火曜日の午後8時から9時半まで開かれており勤め帰りに参加してみることにした。日本語はできない先生だったので英語で中国語を教えるのだ。少し慣れてきて発音を褒められたりすると嬉しくなってやる気が出てくる。1年とちょっとぐらい通ったがそのうち仕事が忙しくなり中途でやめてしまったのが心残りだ。ただ、フレイズをたくさん覚えれば何とか意味は通じるという自信が少しだけついたと思う。 その後、中国系の人と会ったときに少ししゃべってみると面白がってくれたので気をよくした。当時流行っていたカラオケでも、千昌夫の「北国の春」を中国語(榕樹下)で歌うとこれは受けた。もちろん親しくなっただけで商売ができるわけではないが同じやるなら楽しくやったほうがいいに決まっている。中国系の人が知り合いに私を紹介する時にも彼は中国語がしゃべれると紹介してくれるようになった。実は、ほんとうは大したことはないのだが話題のひとつにはなった。 駐在を終えて帰国してからは、当然ながら中国語を話す機会は激減した。駐在時期に取引した顧客が来日した時以外は、たまに居酒屋の中国人店員と話すくらいだった。会社には中国語を完璧に話す連中がいる専門の部署もあり、元々それほど必要ではなく英語で充分なので中国語はまさに趣味のようなものである。ただ、自分として少しでも話せてよかったと思えることが別の機会にあったのである。 それは、出張でオーストリアに1週間滞在したときのことである。日本人の技術者に帯同してチェコの国境に近いある工場を訪問し、そこで研究者同士の技術的な話に立ち会うことになった。ヨーロッパの北の方は土地が超えていないので米や麦ができないことが多い。そこでも豊富に穫れて安いのが「じゃがいも」でんぷんで、それを原料とする化工工場だった。 まる1週間、その工場の社員食堂でランチを取ることになったが、毎日出てくるポテト料理に飽きが来ていた。夕食はホテルに戻ってできるだけほかのメニューを選んだがポテト料理が多いことに変わりなかった。そして1週間が過ぎ、先方から、いい会談ができたと感謝の言葉があり、帰国を翌日に控えての最後のディナーはその地方では数少ない中華レストランでご馳走してくれることになった。 ちょっとした観光(?)を兼ねてチェコとの国境の警備状況を見た後でそのレストランに行った。よく言われることだが、中国人は包丁1本を持って世界中のどこにでも出かけて行きそこで生きていくことができる。まさにその言葉を地で行くような光景を目にすることになった。こんなヨーロッパの片田舎で中国人夫婦が中華料理をふるまってレストランを営んでいることを目の当たりにしてある意味で感激した。 久しぶりの美味しい中華料理に舌鼓を打ちながら食事を楽しんだ。技術者同士の話もうまくいって今後の取引も拡大する目途がついた。気持ちがふっと楽になったこともあり、私はそのレストランの主人に中国語で話しかけてみた。主人は、めったに来ないアジアからの訪問客にまず歓迎の言葉をくれた。そして、久しぶりに話す中国語に懐かしさを感じてくれたらしい。 中国のどこの出身かと聞かれたので実は日本人だというと驚いて、まさか日本人だとは思わなかったと言ってくれた。これは私にとって最大の褒め言葉であったが、実はシンガポールで覚えたというと納得した様子だった。自国から世界の隅々にまで出かけて行ってその国の言葉を覚えて生活することなど彼らにとってはきっと何でもないことなのであろう。でも私にとっては、ヨーロッパの田舎で中国人と言葉が通じたことに妙な感激を覚えた。 彼らは当然ながら普段はドイツ語をしゃべている訳で、むしろそういった適応能力と生活力に驚くばかりだ。彼らの覚悟と比較するとほんの小さなことかもしれないが、人間、何かを身に着けておくとどこでどんな形で役に立つかわからない。このことは今まであまり他人に話したことはないエピソードだが生涯忘れられない思い出である。 (西 敏)

追憶のオランダ(60)昼と夜

日本でも夏と冬では昼と夜の時間の長さが違うことは生活の中で十分体感しています。しかし、日本より緯度の高いところでは季節による差がもっと極端にでてきます。これは誰もが知っていること。私がオランダに赴任した時期は5月中旬、日本でも6月の夏至に向かってどんどん日が長くなってくる頃でした。その日勤務時間が終わって事務所の人たちと食事に行くことになり6時過ぎに建物から外に出たのですが、太陽はまだまだ高くとても夕食の時間のような気がしません。店で数時間酒を飲みながらゆっくりと食事をして外に出たのですが、これでようやく夕方になったなという感じなのでした。日本との緯度の差と夏時間を採用していることで、おそらく感覚的に日本の時間感覚より3時間は時計を早く進ませた設定になっていたようです。さらに夏至に向かって昼間が長くなる。ということで、春分の日以降は外の明るさだけで判断していると、ついうっかり夜更かしをしかねません。 したがって、家の窓、特に寝室の窓には厚手のカーテンが必要です。冬場の断熱効果を期待するのもそうですが、それよりも夏場に就寝時の外光を遮断するのも大きな目的なのです。 冬は、全くその反対で、朝はなかなか明るくなりません。やっと9時過ぎに薄明るくなるので、出勤時間はまだ真っ暗闇の中です。外に止めてある車のフロントガラスにびっしりと着いた霜ならぬ氷をガリガリと掻き落とし、車内を温めてなければすぐ出発とはいきません。事務所に着いてもまず大抵一番乗りで、真っ暗な部屋で非常口を示す緑のランプの薄明かりの中電気のスイッチを押し、部屋を明るくする。でも暖房だけは入っている。テレックスなどに一通り目を通して一仕事終わるころにようやく外の景色が窓越しに見えるようになるくらいです。夕方も日暮れは早く、3時頃にはもう薄暗くなり、曇りの日などは3時前でも外は夕方のよう。こんな調子ですから、もし時計がなければ大変困ります。おのずと時計に従って行動をするということになります。 昔、日本では、おてんとうさまの動きに合わせて夏冬ことなる昼間の時間を割り振って一日の時間を決めていたようですが、聞くとオランダでも夏場は長く冬場は短い時間働いていたとか。人間も自然の一部である以上、その方が照明・暖房などの無駄なエネルギーを使わずにすんで、生物の生き方としては理にかなっているのでしょうね。 昼と夜の長さとは関係ありませんが、特に冬場に車の運転をしていて感じたことがあります。緯度の高いところでは太陽の高度が上がらないため常に低いところから太陽に照らされること。夏場にギラギラした太陽を避けるためにサングラスをかけるのは理解できますが、高緯度の土地では冬場にこそサングラスが必要、何故なら太陽に向かって運転する場合、車のバイザーだけではどうしても前が見えにくくなるからです。したがって、朝ドイツ(オランダから見て東の方角)に向かって出かける時はほんとうに運転しにくかったのです。そして帰りがまた似た状況です。日が沈んでしまえば別ですが、ちょうど日没直前はサングラスなしでは運転しにくかったのを覚えています。

十男63歳 十人の子を養う親はあれども一人の親を養う子はまれなり

いわゆる名言、金言と言われる言葉をボクは日記や手帳によくメモるのだが、いつの日か忘れ去る。身の丈に合わないのか心動く器量がないのか。そんなボクでも一つ忘れられない言葉がある。 10人兄弟の7人を喪って六男、九男、十男のボク計3人になった。「残った3兄弟 毎年一回は会って話をしないか」と六男が提案した。それぞれの自宅で会うのはたとえ兄弟でも気遣いが生じるので、旅館・ホテルなどを利用して連れ合い同伴6人で会うことになった。 2013年秋 初会合は山口市のかんぽの宿。3組6人が立ち寄った常栄寺というお寺に雪舟庭園があり、そこの石碑に刻まれた言葉=写真=。 「十人の子を養う親はあれども一人の親を養う子はまれなり  佛典」 「わし(私)らの親のことのようだなぁ」と一同顔を見合わせた。碑の前で親の苦労した出来事を改めてお互いが思い起こし、昔話が弾んだ。だがボクだけ後半の「一人の親を養う子……」に考え込んだ。ボクは「まれ」にさえなっていない。 写真=島根県益田市の旅館「荒磯館」で盛り上がる3兄弟(左から九男、ボク、六男=2015年6月)

シンゴ旅日記ジャカルタ編(5)  新型コロナと朝散歩の巻

インドネシアでは新型コロナウィルスの感染者は 2 月までゼロでした。 ところが3 月2 日に2 名の感染者が確認されると3月末には感染者数1,528 人、死者138 人、そして4 月16 日には感染者数5,516 人、死者496 人と一挙に増え、その後も感染者数は毎日300 人ベースで増えています。 チカランに住む私は当初新型コロナ感染がジャカルタの出来事であると安心していましたが、3 月9 日の朝にアパートを出る時に受付嬢たち三人がマスクを着けているのをみてチカランも警戒するようになってきたのだなと思いました。 そして感染者や死者が増えるにつれジャカルタでは日本の緊急事態宣言に似た大規模社会的制   限という規制が4 月10 日に出され、15 日にはチカランのあるブカシ県も同じ規制が始まりました。 ブカシ県の規制の期間は4 月15 日(水)~28 日(火)の二週間です。 これは保険、食料、エネルギー、金融、ホテル、物流や工業団地のような生活に必要な企業の営    業は可能ですが、製造メーカーは産業省の許可のもと操業が可能で、商業関係は原則として在宅  勤務を行うというものです。 飲食店は店内での食事は禁止で、持ち帰り弁当の販売だけ可能となりました。 オートバイタクシーも人を乗せてはダメで、物だけの運送に限定されました。 乗用車は運転手を入れて三人までとなり、車内でもマスク着用が義務付けられました。 町のところどころにチェックポイントが設置され軍人、警察、セキュリティの人たちが違反者を監視するようになりました。 その規則の中に『60歳以上の者は在宅勤務とする』という項目がありました。  そのため私は15日(水)からアパートでテレ・ワークとなりました。 一方、新型コロナの騒ぎとは関係なく、チカランの朝方は青空が見えるようになってきました。 私はそれまでは雨が降っているとか、道が濡れているとか、雨が降りそうだという理由をつけてさぼ っていたアパートの周りの住宅地を巡る朝散歩を在宅勤務を機に再開しました。 アパートを出て最初の住宅地を通りすぎるときにその守衛所を見てびっくりしました。 そこには新型コロナへの注意喚起の看板があり、DESINFECTACT    と書かれた消毒ブースが設置されていたのです。 私はそこの守衛さんに中に入って散歩できますかと聞くと、ダメですとの回答でした。外来者は中に入れず、商品のデリバリーも守衛所で引き渡しをするとのことでした。 そして、その最初の住宅地を通りすぎ、広い敷地を歩いて回れる別の住宅地にたどり着くと、そこに    も消毒ブースがありました。守衛さんが住宅地の中に入れてくれるか心配でしたが、前に散歩していた私を覚えていてくれたのか私が挨拶すると彼らも笑顔で挨拶を返してくれました。私が消毒ブースを通らなければならないのと聞くと、どうぞといった感じでブースの中に入るように言いました。 ブースの中に入ると内側に垂れ下がるホースについている小さなノズルから消毒液が霧のように少し噴き出してきました。その中で体を一回転させて消毒液の霧を浴びるのです。   そしてブースを出てから住宅地の中を何カ月ぶりかで歩いて回りました。 コロナ禍でも植物たちは雨季の間にたっぷりと水分補給したのか葉は緑色で、白いや赤やピンクの    花を咲かせていました。 朝散歩初日は久しぶりに2時間歩き足の筋肉は問題なかったのですがちょっと息切れがしました。そして、二、三日目も同じ住宅地を散歩すると息切れは少なくなりましたが、ふくらはぎが張ってき    ました。それで四日目の散歩は中止しました。長い目で体調管理に努めます。 休んだ翌日は思い切って自動車道路を挟みチカランで最初にできた広い住宅地まで足をのばしました。ここには他の住宅地を三つ足したくらいの敷地があるのです。 その広い住宅地の入り口の守衛所も同じような垂れ幕が掲げてありました。 ここの守衛さんもインドネシア人特有の愛想のよさでニコニコ笑って私を通してくれました。 散歩をするときは熱中症にならないように水の入ったペットボトルを腰のホルダーに差して歩きます。 アパートから持ち出したペットボトルの水を散歩の途中で飲み干してしまう場合は、散歩途中にある     コンビニ(ローソン)で新しいペットボトルを買います。 ある日にコンビニでペットボトルを買おうとするとカウンターにインドネシアの漢方であるジャムゥ(Jamu)の入った箱が目につきました。 インドネシアでは新型コロナにジャムゥが効くとも言われています。私は何に効くジャムウだろうと箱から一個取り上げると‘Tolak Angin、Obat untuk Masuk Angin’と書いてあり、それは風邪の予防用でした。私は物は試しと思い三種類を一袋づつ買いました。ひと袋5,000 ルピア(35 円)でした。 ネットで調べると日本のアマゾンでも販売していました。 みなさんも通販で『Tolak Angin』を購入してインドネシアのジャムゥを試してみませんか?     丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(2)  湯の町グチの巻

湯の町グチの巻 (2017年9月記) インドネシアは日本と同じように火山が多くあり、温泉地が何カ所もある国です。 有名な温泉地はバンドン郊外のチアトルですが、中部ジャワにもグチという山あいの温泉地があるのです。 ジャカルタから高速道路で東へ300km行くとジャワ島の北の海岸沿いにチレボンという町があります。チレボンは西部ジャワ州の東の端といった感じです。そこからさらに高速道路で東に80km行くと中部ジャワ州になり、テガルという町があり、そこは砂糖やジャスミン茶の生産地で有名です。 またテガルの料理はほかの都市でワルテグ(Warung Tegal=Warteg)と呼ばれ、屋台(Warung)や小さな食堂で提供されており、西スマトラのパダン料理とともに有名です。 そのテガルに初めて機械を納入し、その据付に社員三名が二泊3日で出張しました。 私もお客様への挨拶のため最終日の金曜日にテガルに向かいました。 と、いうのはテガルに設備の納入が決まったとき、社員からテガルに近いところにグチという温泉地があることを聞いたからです。金曜日の夜を温泉に入って過ごそうと計画していたのです。 なお、グチの近くにはジャワ島で二番目に高い山のスラメト山(標高3,428m)があります。 無事に機械の納入が終わり、社員たちとともに車二台でテガルの町を出発しました。 田舎道を走り山道に入りました。窓を開けると空気が涼しくなってきました。 手入れされた棚田や段々畑がところどころに見えてきました。 山の中腹にはグチ地区へ入るための料金所があり、一人5,000ルピア(約40円)を払いました。 そしてまた曲がりくねった山道を登り、少し降りて民宿風のホテルにチェックインしました。 スマホのアプリで標高を調べると1,095mとありました。 私たちは部屋からバスタオルを持ち出して車で温泉場に向かいました。 ホテルからの山道を降り、さらに奥に入り、坂を上り、そして降りると狭い谷川が流れていました。 その谷川の橋から上流を眺めると左手の山側で人々が水に浸かっているのが目に入ってきました。駐車場が先にあるというのでその橋を通り過ぎると、狭い坂道の両側に小さなお土産屋さんが立ち並び、軒にかけてある商品に車が触れるかのように上りきると、そこには広い駐車場がありました。車を置いて、谷川に向かって歩いて行きました。 温泉に行くと言うのに、私は着替えを全く持たずに参加していましたので、お土産屋さんに立ち寄り水泳パンツとサンダルとグチの名前入りのTシャツを買いました。 谷川の温泉場に着くと着替えを預ける小屋が二か所ありましたが、私たちはそこに預けず、そのまま湯が流れているところに向かい、湯がかからないところで着替えて、脱いだものをまとめて置きました。谷川の温泉は日本の施設と比べると質素というか貧弱なものでした。 数本のホースを山肌に差して湯を落とし、コンクリートの仕切りで囲っただけなのです。 足場はヌルヌルとしていて、滑りやすく気を付けなくてはなりません。 私は転ぶのが怖くて、コンクリートに手をついてそれを乗り越えゆっくりと温泉に入って行きました。 温泉と言ってもそんなに熱くはなかったのです。でも少し多目の湯が落ちてくるところで、修験者のように滝を頭から受けたり、最近凝っている肩に打たせ湯をしたりしました。 湯から上がると、現地社員がバスタブに浸かれるところがありますよというので、人で込み合っている谷川温泉よりもゆっくりできるだろうと思い、そこに行ってみることにしました。 その建物は入口の両側に個室が5室ずつあり、各部屋の中にはバスタブだけがあり、湯が蛇口のないパイプから直接バスタブに注ぎこまれていました。入浴料は3,500ルピア(約30円)でした。 谷川温泉と違い湯温は40度ほどあり十分に体を温めることのできるところでした。 私はこのバスタブ温泉が気に入ったので明日の朝また来ようと皆に伝えました。 バスタブ温泉から上がり外に出ると、もう暗くなっていました。 そしてホテルに引き上げ、食堂で社員から今回一緒にきていない社員の噂話を聞いたりしながら、ゆっくりと食事をした後、それぞれの部屋に引き上げました。ビールはありませんでした。 夜は冷えたので布団のような分厚い毛布にくるまって寝ました。運転手のひとりは寒くて三時まで寝られなかったそうです。翌朝は7時に皆で朝食を取り、8時に温泉に再び出かけました。 途中にある駐車場を通ろうとするとすでにお店を開いているお土産物屋さんでジャムー(ハーブ薬)を籠にいれて売っているおばさんがいました。 私はおばさん近づきKunyit Asam(ウコン)はありますかと聞くと、おばさんはあるよと言って何本もボトルが入った籠の中から一つを取りだし、コップを布で拭き、それに黄色い液を注いでくれました。 私がそれを飲み干すと、おばさんは次にJahei(ショウガ)のハーブ薬を飲めと私に勧め、それを飲み干すと、今度はお米で作ったハーブ薬を勧めてきました。私はそれも飲み干しました。 私は新しいボトルに入ったウコンのハーブ薬を一本買いました。賞味期限は三日間とのことでした。 買ったジャムーを駐車場に停めてある車の中に置いて、バスタブ温泉でなく谷川温泉に行きました。と、いうのは運転手のひとりが、前日は体の調子が悪く、谷川温泉に入っておらず、朝になると調子が良くなったので是非とも谷川温泉に浸かりたいと言いだしたのです。 それで朝の明るい光の中で写真を撮りたかった私も谷川温泉に向かったのです。 結局、谷川温泉に少し浸かり、写真を撮ってから、日本人駐在員と二人でバスタブ温泉に行きました。入口で入浴料を払おうとすると土曜日でしたので入浴料が5,000ルピア(40円)と昨日より1,500ルピア高い休日料金になっていました。 バスタブには10分ほどずつ二度浸かり、満足して、駐車場に引き上げました。 駐車場には温泉に入らずお土産を買い込んで大きな袋を下げた社員二名と出会いました。 社員からここではウサギのサテがおいしいですよ、と聞いたのでそれを皆で食べることにしました。 ウサギは子供の頃に学校や家で飼ったことはありますが、食べたことはありません。 駐車場の横のお店に入り、ゴザの上に胡坐をかいて、ウサギ肉のサテを頼み、出来上がるまではテガル名産のお茶を飲みました。しばらくすると、サテが出来上がってきましたが、鶏肉のサテと姿形は一緒です。これがウサギの肉ですと言われてもその味の違いがよくわかりませんでした。 サテを食べてからホテルに戻り、帰り仕度をし、11時ころにホテルを出発しました。 前日に来たときは霧がかかっていて、はっきりとは風景が見えませんでしたが、帰りはすっかり晴れていたので高原野菜のキャベツ畑や、手入れされた段々畑、棚田がよく見えました。 山を下りてテガルの町に入ると、ベチャやオートバイトラックがたくさん街角を走っていました。 テガルから高速道路に入る前に、町で社員たちが名産のアヒルの茹で卵、焼き卵を大量に買いました。アヒルの茹で卵はチカランでも売っているのですが、焼き卵はテガルにしかないとのことでした。私はジャスミン茶(Melati)を買いました。中国風に急須に一袋ずつ入れて飲むタイプです。 お茶のブランド名のポチ(POCI)は急須(土瓶)のことです。急須はテコ(TEKO)とも言います。 買い物を終え、高速道路に入りチカランまでノンストップで走りました。その高速道路から眺める田園風景を見るとインドネシアは広大で肥沃な土地が多くあることを実感させられるものでした。 (おまけ)グチの温泉場の駐車場で宝石の指輪を箱に入れて売り歩く人たちがいました。 良く見かける猫目石とか、アフリカの石などを並べて執拗に寄ってくる人たちです。 私は興味がないよとはねつけていたのですが、水気のある指でこすると赤く発光する石を見せられました。私はびっくりして、それは何という石かと売り子に聞くと化石の一種だというのです。 私       : いくらするの? 売り子   : 150,000ルピア(約1,300円) 私        : 高すぎるよ。 売り子   : いくらなら買うのか 私        : 80,000ルピア(約700円) 売り子はそれはできないと言って一旦はその場を離れていきました。きっとその不思議な石を欲しそうにしている私が呼び止めると思ったのでしょう。でも、私はアジアでのこうゆう場面の買い物の駆け引きを心得ています。欲しくてもすぐに追いかけてはいけないのです。 私は心の中では100,000ルピア(約850円)なら買ってもいいと思っていました。 一旦離れて行った宝石売りは、やはり、すぐに戻ってきました。 そして100,000ルピアでどうかと値段を下げてきましたので、私は思わず財布を取り出して買ってしまいました。 そして、チカランのマンションに戻ってから、早速、水の入ったコップにその指輪を入れるとなんと本当にピカッと光り続けているのです。 私はスマホで映像を撮り、妻にこんな石を買ったけどみたことがありますかとラインで送りました。 妻が「見たことがない、面白いですね。なんという宝石ですか?」と聞いてきました。 私はネットで調べても赤く光る石のことが載っていなかったので、夜遅くに日本にいる博学の先輩にラインで同じ映像を送り、これは何という石ですか教えてくださいと書き送りました。 翌朝、早くその先輩から返事がありました。 「これは中にLEDが入っていて水に入れると短絡して光ります。日本では氷の形状をしたものがヒットしています。ワィンとかカクテル等に入れて光らせています。」とのことでした。 私は「LEDですと寿命がありますね」と返信すると、「そうですLEDは大丈夫ですが、寿命は電池で決まります。」との返事でした。 妻にその説明をラインで送ると「信じ易い人ですね~。払ったお金は勉強代でしたね(笑)」と返事がありました。実はその光る石の不思議さに驚き、私は二個も買ってしまっていたのです。 そして私はグチの駐車場でその石を私が買う時に社員たちが平然としていた理由に納得しました。 はやく悔しさを忘れて、インドネシアの温泉地を探してあちこちの湯に浸かってみたいと思います。 左の図は地震の発生場所です。地震と火山は関係がありますよね?地震は地球の海側のプレートが陸側のプレートに潜り込み、その先端がゆがむことによって発生すると言われます。 日本と同じようにインドネシアもインド・オーストラリアプレート、ユーラシアプレート、フィリピン海プレートに囲まれた地震国なのです。 かつて私が駐在したシンガポール、バンコク、インド(西部、南部)は地震がほとんどないことが左の図でもわかります。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(82)我輩は牛でんねん 方言の巻

我輩は牛でんねん 方言の巻 (2010年9月記) 誰でっか、我輩を呼ぶんわ。 あれっ、ギフのオッサンやないですか? 珍しいでんな、そっちから声掛けてくるやなんで。 ほんじゃ、『やっとかめや、なも』。 えっ、恥かしいから、ギフ弁で言うなって。そやけど長いことお会いしませんでしたな。 えっ、あっちゃこっちゃへ出張で行ってましたんかいな。 どこへ行きましたん?ベンガルール、チェンナイ、コルコタですって。 何やそれを言うならバンガロール、マドラス、カルカッタでんがな。 どこもかしこも、町の名前を勝手に変えてしもて。 いやいや、我輩の承認は要りませんけどね。 我輩、よう分からんのですわ。 例えばな、ムンバイゆうたら、昔のボンベイやがな、ボンベイのまんまでエエがな。 歴史ある名前やないか。 あれっ、あんさん、何か勘違いしてませんか?ポンペイと。 それイタリアのナボリの近くにあった町やがな。 火山の灰で埋もれてもた町やがな。世界遺産なんやで。 そんでもな、インドのボンベイの名前な、まだ今でも使われてまっせ。 昔の名前で出ています、ちゅうやつでんな。 ボンベイ証券取引所、BSEでっせ。 有名な株式指数はSENSEX30でっせ。 あんさん、なんか変なこと考えたんとちがいまっか、一瞬目つきが変わりましたで。 そしてボリウッドでんがな。 ムンバイやったらほんまは『ムリウッド』でんがな、けど、そりゃ、無理ウッド。 えっ、分からんてですか、このシャレ。すんません。 そんで、あんさん、どないしたんでっか、何か言いたそうやないですか。 言いなはれ、言いなはれ。イワンの馬鹿なんちゃって(しもた、古いシャレ言ってしもた。)。 何ですって、行った場所、場所で言葉と文字が全部違ったて、ちゅうんですか? そうでんがな、バンガロールはカンダナ語やし、マドラスはタミール語やし、カルカッタはベンガル語でんがな。 それがどないか、しはりましたか? えっ、夕食を済ませて、ホテルへ戻って、すること無いもんで、テレビを見とったら、その地方の文字と言葉で喋っとるようやったんで、びっくりしたってですか? 新聞も、その土地の文字で書いてあるようやったってですか? あんさん、そりゃ、そうでんがな、当たり前だの何とかでんがな。これ何ですかって? 当たり前だのって、知りませんか。 昔、流行ったそうでんがな。マコト・フジタ、ミノル・シラキそれにウタコ&ケイスケでんがな。イチローさんもいましたな。 マリナーズのかって?ちゃいまんがな、そんな時にスズキさんまだ生まれていませんがな。ザイズさんでんがな。『~してチョウダイ』でんがな。 これらな、みんなコーべのイトコが教えてくれましてねん。 どうやって教えてくれたってですか? そりゃ、ITB、インターナショナル・テレバシー・バンドちゅうやつですわ。 あのな、神さんのな、衛星のな、、おっと、アカン、アカン、もうちょっとで、神さんに怒られるとこやった。 あんさん、聞かんかったことにしといてや。 絶対やで。指切りやで、指切りゆうても我輩の場合はヒズメ切りやけどね。 そんでな、この国ではな、国というか、州ごとにな、文字と言葉があるんでっせ。 そんで、そのお国ごとにTVでも新聞でも使う言葉が違うんですわ。 日本でもそうとちゃうんでっか? 我輩のオトンはコーべでカンサイやろ、あんさんの田舎のヒダはナゴヤ地方やろ、そんでナンブはトーホクやろ。 そんで、それぞれの言葉でニュースを言い、新聞に書くんでっしゃろ? そやそや、地方の言葉ちゅうたらな、この前なワギュウ・ハーフの会でな、わてな、こう見えても、副会長でんねん。 前に聞いたってでっか? 会長は誰やってるか知ってまっか?マツサカのニイサンでんねん。 ニイサンとこが何でも我輩らのタネモトらしいですわ。 そんでな、ハーフの会でな、ナンブの奴がな、自分のことをオトンの田舎の言葉では『オラ』ちゅうと言ってまんのや。 おもろかったでっせ。オラ、オラでっせ。なんやそれ。 玉蹴りの応援か。(あれはオレオレか、ちゃう、それは詐欺やな。よう分からんわ。) そんでな、みんなでな、自分のな、オトンの産まれた田舎の言葉で話そうやないかってことになりましてな。 トーキョーのな、アナウンサーさんが言ったことをな、みんなのオトンの国の言葉でどない言うかってことになったんですわ。 アナウンサーさんが、『ただ今、ニュースが入りました。今朝、富士山が400年ぶりに噴火しました。その火山灰が1500m上空まで舞い上がりました。しかし、飛行機の運行には影響していません。亡くなった方もなく、近くの人はみな非難して無事でした。』って言ったちゅう寸法ですわ。 そんでな、エヘン、副会長やろ、我輩。 そやから、一番先に話なさなあかんやろ。よってにな、オトンから聞いとった同じコーべ出身のな、ヨドガワさんの口調で言うたんや。 『ハイ、みなさん、大変ですねぇ。大変ですねぇ。富士山が火を噴いたんですねぇ。400年ぶりですねぇ。まぁ、恐ろしいですねぇ、怖いですねぇ。火のハイが舞い上がったんですよ。1500mですよ。高いですねぇ。本当に高いところですねぇ。ハイ、タワーリン グ・インフェルノですねぇ。飛行機には影響がありましせんでした。ハイ、大空港です。エアポート75です。77も80もありましたねぇ。でも、お亡くなりになった方ありませんよ。奇跡ですねぇ。奇跡の人ですねぇ。ハイ、ヘレン・ケラーですねぇ。アニー・サリバンですねぇ。1959年と言えば昭和34年ですよ。知ってはりますか?その奇跡の人の舞台で誰が主人公をしたか。ハイ、実はあのパティ・デュークなんですねぇ。日本でもテレビで人気ありましたねぇ。パティ・デューク・ショー。ご存知ですね。あのお転婆娘ですねぇ。1962年のアカデミー賞ではサリバン役のアン・バンクロフトが女優主演賞、ヘレン・ケラー役のパティが女優助演賞を取りましたね。ハイ、良かったですねぇ。良かったですねぇ。それから17年後の1979年のリメーク版ではパティはサリバン役で出ていましたねぇ。時代はメ グルですねぇ。そうそう、富士山の噴火でしたねぇ。近くのみなさんはね、大脱走したんですよ、逃亡者ですねぇ。ハイ、デビット・ジャンセンです。さびしい顔、してましたねぇ。追われる人の表情、うまく出していましたねぇ。しびれますねぇ。1993年のリメークではハリソン・フォードが主演していましたねぇ。ちょっと雰囲気が違いましたねぇ。この逃亡者のドラマの最後がどうなるか、それはみなさん、映画を観てのお楽しみですよ。ハイ、それでは、サイナラ、サイナラ、サイナラ』ってね。 しかしな、これな、あんまり受けませんでしたわ。 長すぎたんですわ。それに我輩の仲間な、ヨドガワさんを知りませんねん。 けどな、これな、オトンには受けたんでっせ。『映画って本当にいいもんですね』ってバージョンもありまんねん。 えっ、エエ画の話は、もう、エエってですか? そんでな、次にな、ヒダの奴がな、ギフ弁ちゅうか、ナゴヤ弁で言うたんでっせ。 あの口下手のヒダがでっせ。 『おミャーさんた、ドエリャアことがおきたでナモ。オソギャーで、イカンわ。冨士山がヨー、ケサヨー、ヒィー吹いてヨー、飛行機にはヨー、エーキ ョ―がニャーと言っとらっせるでナモ。死んでまった人はヨー、おらんでナモ。みんな逃げんさったでナモ。そんで、次のキャーのニュースも見てチョーよ。えっ、ワテかね?ミナミだがね。トシアキだがね。テイキ ョ―は「エビ・フリャ-もあるでヨー」のアツタ食品だがね。トロイこと言っとったらアカンでね。』 これね、ちょっと受けたんですよ。でもね、ナンブの奴が、よう分からん言うんですよ。 それでね、ナンブの番になってね。あいつがね、こう言うたんですわ。 『オバンでガス。オラ、オッタマゲターでガス。スンズリ・カエッタース。スズサンがスンカスナスったダト。ヘーッコがスラにあがったんダドモ、へコーキはモンダーナーでガス。スンだシトさ、イネーでガス。にげたシトさ、ばっかダー。ダバ、ヌースみてケロや。』と言ったんですよ。 メチャ受けでんがな。 みんなが何のことか理解できんゆうてね。 どこの国の言葉だって。我輩ら2世やから、お互いにオカンの国のことばで理解し合えまんのやけど、ナンブのオトンの国の言葉はよくワカンネーナ。 あれっ、ナンブの言葉がうつってしまいましたがな。 そんでね、いつもはその会に参加してもね、隅におるサツマの奴にね、オトンの国の言葉では、どう言うかって聞いたんですわ。そしたらね、あいつのオトンの国ではオスはあんまりじゃべらん、と言いますのや。 エエから言ってみぃ、ちゅうたらね。 『オイドンは、びっくりしたでゴワス。富士サンが、火ば吹いチョルとモースとでゴワス。桜島と同じでゴワス。空とぶ黒船は問題ナカ。タミも問題ナカ。西郷ドンば殺した維新は間違っとるでゴワス。』って何か意味のよう分からんこと言うんですわ。 おもろい奴でっしゃろ。 でね、その時ね、トーキョーに行ったことがあるちゅう奴がいましてね。 シンシュウ出身のモトチジオって言いまんのや、そいつ。 トウキョウでは『ひ』と『し』が入れ替わるちゅうんですわ。 『火の用心』を『シのヨウジン』て言うんですって。 そんで『火の後始末』は『シのアトヒマツ』って言うんですって。 あれっ、ヒマツといえば我輩の『飛沫』があんさんの足にかかりましたか? 我輩な、分からんようにしたつもりやけど。最近な、緩んでまんのや。 ちょっと年やさかい。カンニンやで。 我輩らもな、友達と会うとな『ケツアツ』やとか、『トウニゥウ』やとか、『ニゥウサン』やって言うてな、会話が始まりますんでっせ。 あんさんの同窓会も同じやってですか。 えっ、『ケツアツ』が牛にもあるのかって? 『穴(ケツ)圧』でっせ。 わてら牛はケツ圧が大事でんねん。食事の場所取るにも、フンギリするにもケツ圧が必要やがな。 お尻フリフリちゅうやつでんがな。 『糖尿』?違いまんがな。『ニョウ』やのうて『ニュウ』でんがな、『糖乳』でんがな。 メスさんたちな、乳の中なの糖分を気にしてまんのや。 高う売れるかどうか糖乳値によって決まるさかいな。 イマドキのな、若いもんな、ダイエットやゆうで、あんまり糖分を採らんのでっせ。 何考えてるかよう分からんわ。 えっ、日本でも喫茶店で出る砂糖は2gか4g入りですって? インドはまだ8gが主体なんとちゃいまっか、砂糖な、生産国はブラジル、インド、中国、タイの順でっせ。 ブラジルは中国の3倍、インドは同じく2倍ありまんのや。 そんで消費国はな、インド、中国、ブラジルですねん。 インドな、減産してもうて輸入国になってまんのや。 これから砂糖も世界の商売になりまっせ。 食いモンが商売になりまっせ。そんなら『ニュウサン』は『乳酸』か一杯に2袋て? 近う、おま。でも違いまんねん、『乳三』でんな。 […]

新加坡回想録(42)TWG

皆さんはコーヒー派ですか?それとも紅茶派ですか?私は、どちらかというと昔からコーヒーが好きで。毎日4~5杯は飲みます。若い時に夜更かしすることが多く、眠気覚ましにと飲み始めたのですが、自然と好きになりました。 でも、今回は紅茶の話です。「TWG」というブランドを聞いたことがありますか? パッと見て、あの有名なイギリスのブランド「トワイニング(Twinings)」だと思う人が多いのですが実は違います。 TWG(ティー・ダブリュー・ジー)とは、シンガポール発祥の紅茶ブランドです。世界の交易拠点という立地を生かして世界36か国800種の茶葉を専門農園から取り寄せ、最高品質の独自ブレンドを提供しています。シンガポール航空ではビジネスクラス以上で提供されるなど、今ではシンガポールを代表する高級紅茶ブランドとしてその名が世界で知られる存在となっています。 2010年5月に日本に上陸して以来、東京、新丸ビルB1F、自由が丘駅南口、玉川高島屋B1Fなど次々とお店を増やしつつあります。おしゃれな街のおしゃれな店として特に女性に人気が高いようです。 紅茶といえば、イギリスのフォートナム・アンド・メイソン、フランスのマリアージュ・フレールが有名ですが、このシンガポール発祥のTWGもおすすめです。種類は、アール・グレイをはじめとしてたくさんありますが、私は「Black」が気に入っています。少々高めですが上品な味わいには定評があります。上京や、シンガポール訪問の機会があれば是非一度試してみてください。 (西 敏)