シンゴ旅日記ジャカルタ編(9)  散歩しながら考える(インドネシア語)の巻

散歩しながら考えるの巻 インドネシア語 (2017年4月記) 散歩していると道路脇の木陰にポツンと停車しているタクシーをよく見かけます。 そのタクシーのテッペンにある表示には「TAKSI」と書いてあります。 英語のTAXIがインドネシア語ではTAKSIとなるのです。 タクシーをインドネシアの隣国のマレーシアでは「TEKSI」と表示します。 そして、バスはインドネシア語がBus,マレー語ではBasです。警察はインドネシア語がPolisi、マレー語はPolisです。同じ英単語がこの二つの国の人たちにはそれぞれ違った音に聞こえるのでしょうね。インドネシア語とマレー語は兄弟言語と言われ、60-70%は同じ単語を使います。 違いがある身近な単語の例は次のとおりです。 インドネシア語 マレー語 お店 TOKO KEDAI インドネシア語でKEDAIは飲み物を提供するお店です。  車 MOBIL KERETA インドネシア語ではKERETAは電車、汽車です。 病院 RUMAH SAKIT HOSPITAL 今度はマレー語が英語の外来語です。 ジャカルタ名物の交通渋滞をインドネシア語で「MACET(マチェット)」と言います。これがマレーシアでは通じないようです。マレーシアでは「TRAFIC JAM」と英語で言うとのことです。 多くの島からなるインドネシアは、ジャワ島が政治経済の中心で、総人口2億6千万人の60%以上が住んでいます。ジャワ島西部のジャカルタ、バンドンなどスンダ族の人々で日常会話はスンダ語で、ジャワ島中部、東部の人たちはジャワ語です。 しかし、現在の標準インドネシア語はスンダ語やジャワ語とは全く違い、マレー語に近い言葉なのです。なぜマレー語に近い言葉がインドネシアの標準語になったのでしょうか。 それは、標準インドネシア語がマラッカ海峡を挟んだスマトラ島の言葉を起源に持つからです。 なぜかと言うと、ジャカルタがインドネシアの中心地となったのは16世紀にオランダがインドネシアを植民地化し、ジャカルタに本拠地を置いてからで、それ以前はマラッカ海峡がインド洋から南シナ海に抜ける物産、文化の中心地だったのです。 マラッカと言えば15世紀のマラッカ王国(1402年~1511年)が思い起こされますが、それ以前にはマラッカ海峡をまたぐ王国がスマトラ島にあったのです。 それはシュリビジャヤ王国(6世紀初め~1414年)です。 そして、マラッカ王国はこのシュリビジャヤ王国が東ジャワのモジョハピド王国(1293年~1478年)の攻撃にあい、マレー半島に逃げ延びて建国した王国なのです。東方諸国記を著した16世紀のポルトガル人のトメ・ピレスは「マラッカ」の語源は「隠れた逃亡者」に由来するとしています。 マラッカ王国の前身であるシュリビジャヤ王国は仏教国で、ジャワ島にあった同じく仏教国のシャイレンドラ王国とも仲が良かったようです。 このシャイレンドラ王国は有名な仏教寺院であるボロブドゥールを建設しています。 そのボロブドゥール寺院の近くには、ヒンズー教を信奉したマタラム王国(古マタラム王国)がプランバナン寺院群を築造しています。 現在はイスラム教徒が国民の87%を占めるインドネシアですが、またイスラム教が興ったばかりの7-8世紀には仏教、ヒンズー教が盛んだったのですね。シュリビジャヤ王国の中心であったパレンバンには当時仏教大学のようなものがあり、唐の時代(618年~907年)の僧である義浄(635年~713年)が仏典を得るためにインド行ったときに立ち寄っています。 シュリビジャヤ王朝の系統を受け継ぐマラッカ王国は小国でしたので、中国の明(1368年~1644年)に朝貢を行い、永楽帝(1360年~1424年、在位1402年~1424年)からマラッカ国王に任じられました。 そして、永楽帝の命により鄭和(1371年~1434年)が指揮した船団は7度のインド、アラビア半島さらにアフリカまでの大航海をしていますが、その都度マラッカに寄港しています。なお、鄭和がイスラム教徒でした。マラッカ王国はその鄭和の来航を期に急成長するとともに、ヒンドゥー教のマジャパヒト王国に対抗して商業活動を抑え込みインド洋と南シナ海の中継貿易として繁栄したのです。 マラッカが交易の中心となるとアラビア語、ペルシャ語、タミル語、ジャワ語など交易の相手国で話されていた言葉が商業共通語であるマラッカ王国のマレー語に置き換わって行ったのです。 マラッカ王国は15世紀の半ばに中国との交易のバンランスをとるかのようにイスラム商船の来航を促すためにイスラム教を国教としました。 そして大航海時代が始まり、アジアへ進出してきたポルトガルによって1511年にマラッカは占領されました。しかし、王族は分家があったジョホールにジョホール王国を建設し、現在まで世襲のスルタンによって王位が継承されているのです。シュリビジャヤ王国から続くしたたかな王朝です。 その後、ポルトガルに代わり1641年にオランダ東インド会社がマラッカを占領しましたが、オランダの拠点はジャカルタでしたのでマラッカは地方港に過ぎなくなりました。 1824年の英蘭協約でスマトラ島の英領アチェ王国と交換にイギリスに譲渡されました。 英国はマラッカよりもシンガポールを発展させたためマラッカの港湾機能は衰退していったのです。 マレー語は当初は文字を持たない言語でした。 それで、マラッカ王国はイスラム教に改宗した時に、アラビア文字を取り入れました。 それがジャウィ文字です。インドのウルドゥー語のようなものでしょうか。 ジャウィ文字は現在でもブルネイやマレーシアの一部地域で使用されています。 その後、マレー半島がイギリスの植民地なった時にジャウィ文字はアルファベットに置き換えられました。 一方、インドネシアもジャウィ文字を使用していましたが、オランダの植民地となりオランダ語アルファベット文字が採用されていきました。 インドネシアではオランダの植民地下で独立の機運が高まると海峡マレー語をインドネシアの標準語とする運動が始まりました。 1928年の第二回インドネシア青年会議において次の青年の誓いとして決議されました。 「我々インドネシア青年男女は、インドネシアという一つの祖国をもつことを確認する。 我々インドネシア青年男女は、インドネシア民族という一つの民族であることを確認する。 我々インドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用する。」 しかし、インドネシア語が正式な国語となるのには1945年8月17日の独立まで待たなければなりませんでした。 インドネシア語は母音が6つしかありませんし、中国語やタイ語のように四声、五声といった声調もありません。複数形は日本語の山々、人々、家々いと同じく単語を二回続けます。日本語はウラルアルタイ語系と言われますが、きっと単語として南方から入って来ているのではないでしょうか? と、いうことは人々の交流もあったのです。そして、インドネシアの国章にヒンズー教のガルーダが描かれています。宗教の変遷をみても日本とインドネシアはよく似ていると思います。

シンゴ旅日記インド編(86)我輩は牛でんねん ラーマヤナの巻

我輩は牛でんねん ラーマヤナの巻 (2010年10月記) えっ、今日はインドの大叙事詩のラーマー・ヤナとマハーバー・ラタについて教えて欲しいってですか? とうとう出ましたな、あんさん。あんな長い話を、そんな簡単にはようお話できませんがな。 けどお話しまっさ。インドと日本の友好のためやもんね。 えっ、そんな大げさなもんやないってですか、すんません。 ラーマー・ヤナ言うたらな、ラーマさんとヨメさんのシータさんの冒険物やし、マラーバー・ラタ言うたら5王子と100王子の戦闘物語でんがな。 ほな、こうしましょ、今日はラーマさんについて我輩が知っとることをお話しまっさ。 今までで、一番長くなりまっせ。よろしおますな?始めまっせ。 ラーマさんがヨメさんのシータさんを魔神のラーヴァナにさらわれて弟の王子と苦労してやっつけて一緒に帰って来ましたちゅう話ですわ。 インド人ならみんな知ってるお話でっせ。えっ、そんで終わりかって。ちゃいまんがな。 その簡単なストーリーの中にな、いろんなモンが入っとるんですわ。 まず、ラーマさんな、何回も言うたと思うけどな、ヴィシュヌちゅう神さんの生まれ変わりなんやで、アバターラやで、化身やで。いろんなものに変身しますんやで。 そんでそのたんびに嫁さんのラクシュミさんも名前を変えて出てきますんや。 でもな、ヴィシュヌさんがクリシュナで生まれた時には奥さんのルクミニーさんになったんやけど、クリシュナさんはなラーダちゅう愛人との話の方が有名なんですわ。ほんで、このラーダもラクシュミさんの化身やちゅう話もありまんのや。めちゃくちゃでんのや。 ラクシュミさんな仏教では吉祥天っていわれたまんのやで。 ヴィシュヌさんは我輩らの崇拝するシヴァさんと人気二分してますんや。ブラフマーさんはもう出番あらへんねん。 日本の相撲でゆうたら、昔のハクホウ時代でんな。 えっ、ハクホウゆうたら一人やないかですって? ちゃいまんがな、カシワドとタイホウのハクホウ時代でんがな。 そういえばトチワカ時代ちゅうのもありましたな。 その前のフタバヤマのライバルは誰やったんやろ? すんません、話をもどしますわ。 そのころの話な、シヴァさんとヴィシュヌさんら若い神さんばっか出て来るんでっせ。 きっとインドラさんたちの昔のバラモン教の神さんとヒンズーの神さんとの世代交代ちゅう時代だったんでしゃるな。 ちゅうことはバラモンさんたちバラモン教が仏教やジャイナ教に負けて、落ち目やさかいに、バラモン教をヒンズー教にしてもうて、それを広めるためにネツゾウちゅうか、地場の話の神さんをどんどん取り込んで作って行ったちゅうことですわな。 何度も言いますけど、我輩はシヴァさんファミリーの一員のマツエイでっしゃろ。 そやよって、あんまり、ヴィシュヌさんの話は好きやおまへんのや。 マハーバラタもそうやけどシヴァさんをな、下に見るちゅうか、敵視する場面が出てきまんのや。 まあ、そんでも、よろしいおま。我輩なこれでも十分に大人の牛やさかいに。 ほなら、始めまっせ。トザイ、トーザイ。カチン、カチン、これ拍子木の音でんねん、 これから幕が開くんですわ。 ―――ワンス・アポンナ・タイム・イン・インディア。 えっ、何で、英語で始まるのかってでっか。 すんません、さっきまで、シヴァさんの話を仲間の牛たちと英語でしてたんですわ。 その内容でっか?ギリシャ神話とヒンズー神話の比較論ですわ。(アカン、無視されたわ。) 昔々、魔神ラーヴァナが神様たちを苛めている時代のことでございます。 その魔神は10個の頭と20本の腕を持っておりました。 そして神にも悪魔にも殺されないということを一番偉い神様のブラフマーに約束させておりました。 そして大勢の神々が、ヴィシュヌにあの魔神はアカンヤツです、そやから、あの、その、やっつけてチョウダイと頼み行きはったんです。 えっ、なんで最初は標準語で話して、途中から関西弁に変わるんやってですか? 由緒ある物語やから、ちょっと気取って標準語がエエかなと思ったんですけど、あきませんな、やっぱし。我輩なさっき話の途中で舌噛んでもうたんですわ。 ほなら関西弁に戻しますわ。エーと、そして、丁度その頃に、ベンベン。 えっ、何で今度は三味線の音が入るんやてですか。 すんません。これ入れた方が話しやすいかなーと思ったんですわ。 で、丁度その頃にある王さんが世継ぎが欲しいって神さんたちに祈っておったんですねん。 そしたら神さんたちな、こりゃ丁度エエわ、そんならヴィシュヌさんに、あの王さんの子供として生まれ変わってもらって、魔神をやっつけてもらおうちゅうてヴィシュヌさんに頼みはったんです。そしたらすぐヴィシュヌさんがよっしゃいうてOKしなはったんですわ。 そんで、ヴィシュヌさんな、神でもない、悪魔でもない人間として生まれ変わるんでっせ。 あんさん、分かりまっか、この意味? えっ、魔神は神にも悪魔にも殺されないちゅうことやから、ヴィシュヌが神でも悪魔でもないラーマと名の人間に生まれれば神を殺せるちゅうことになるのやろって。 そうでんがな、あんさん、結構、物分りよろしいおますな、人は見かけによりませんね。 あっ、アカン、つい、いつも思っていることをつい言うてもた、すんません。 魔神ラーヴァナはランカ島ちゅう島に住んでおりました。 あのね、これモロに今のスリ・ランカのことでんがな、エエンやろかスリ・ランカのことを魔神の住む国にしてからが、国際問題にならへんかったんやろか? けど、スリランカでは魔神は英雄の神さんになっとるちゅうし、ややこしい話やで全く。 日本でいうとキラコウズケノスケとかアケチミツヒデみたいなもんですな。 まあ、エエか、今のスリランカは地域連合の仲間やし。 アカン、話を戻しまっせ、 エーと、ラーマさんのお父さんな、ヨメさんちゅうか王妃さんを3人持っておりました。 エエなあ。あんさんはヨメさん、何人居ますの? えっ、たった一人だけ。あんさん、貧しいクラスのヒトでっか? えっ、一人でも大変やて。わかりまんがな。我輩もそうやさかい。 ゴホン、まあエエわ、この話はおいとこ。 そんで,一番目のヨメさんからラーマさんが、2番目からバラタさんが、3番目からラクシュマナさんとシャトル・グナさんが生まれたんですわ。ちゅうことは弟が3人おるちゅうことですねん。 生まれた町はアヨーディアっていうんでっせ。 あのモスク破壊で裁判になっとるところでんがな。 あれな、どうなるのやろな。イスラム教徒とヒンズー教徒の長い戦いになって行くんやろうな。 あかん、この話な説明ばっかで、ちいとも先に進まへんわ。 そやで、ここからちょっと話が飛びまっせ、ラーマさんがな、シータさんと結婚する時のことですわ、ここでな、シヴァさんがヴィシュヌさんよりも弱いちゅう立場で出て来まんのやで。 シヴァさんへの敵視やで敵視。 それな、婿を選ぶ儀式でんがな、シータさんのお父さんな、王様でんがな。 その王家に伝わるシヴァさんの弓が引けた者をシータさんの婿さんにするちゅうことですがな。西洋で、良くある話でんがな。 日本でも毛利の3本の矢の話がるってですか?それ、ちゃうんとちゃいまっか? あんさん、やっぱり、黙っといて下さい、話を戻しまっせ。 その弓は今まで何人もの王子さんたちが挑戦したけど、誰れも上手くいかんかったんですわ、そやけど、ヴィシュヌさんの生まれかわりのラーマさんがいとも簡単にシヴァさんの弓を引いてな、力余ってシヴァさんの弓をへし折ったちゅうんでんがな。 全くケッタクソ悪い話やな、ホンマに。 そんでラーマさんな、シータさんをヨメさんにしたんでっせ。 ラーマさんの弟の王子3人もな、シータさんとこの関係者と結婚しはったんですわ。 そんで、ここでシータさんの役回りを言いいますとね、本当は人間やのうて、畑を耕しているときに出てきた赤ん坊やねんで。つまり大地の女神の娘ちゅうことなんでっせ。 これな、最後のオチと関係ありますんで一寸覚えておいてくださいね。 そんで今度はラーマさんのお父さんでんがな、王位を長男のラーマさんに譲ろうとしたんやけどな、2番目のヨメさんにな、ある秘密を握られていたんで、そのヨメさんの王子であるバラタさんが王位を継いでね、ラーマさんたちは14年間森の中に追放されることになったんですわ。 でもな、バラタさんはお母さんの考えについてけんちゅうてラーマ兄さん帰って来てチョウダイって言わはったんやけど、ラーマさんは一旦決まったことを“クツがえしてはアカン”ちゅうな、クツ、ちゃうわ、自分のサンダルをバラタさんに渡したんですわ。 そんでバラタさんは父親の王さんが亡くなってから、そのサンダルを王座に置いてな、兄さんが帰ってくるまで待ってますって誓って政治を行ったんですわ。 えっ、バラタのお母さんが握ってた秘密はなんですかって? 何でも王さんな、若い時にそのヨメさんにアブナイところを救われてな、2つの望みを叶えてやるって約束したんやて。 それはさておき、この場面の見所はな、ラーマのお父さんの王さんが若い時に狩をしててな、間違って若い修行者を殺してしもうて、その修行者の父親からな、『あなたも、息子を失った悲しみの中で死んでいくであろう』って呪いを掛けられていたちゅうことですわ。 よう出来た話やな、全く。 えっ、そりゃあ物語やからやってですか?あんさん、想像力のない人でんな。 そんで、ラーマさんたちな、森の中に入って悪魔や猛獣を退治して暮らしとったんやけど、そこに、あの魔神ラーヴァナの妹が通りかかってラーマさんに一目惚れしましたんや。 当然振られまんがな。そんなこと分かってまんがな。 そうしたらな、魔神の妹さんどうしたと思います。 したことは恋愛心理学者の言う通りでんな悪魔でも。 オナゴさんちゅうのは。その憎しみちゅうもんが好きなヒトではなくてライバルの方に向かうんですわ。 あの女がおるからアカンのや、あの女さえ居なくなれば、きっとあの人は私を愛してくれるって思い込むんだそうですわ。今でも新聞記事にありますやろ。 愛人が奥さん殺す話。アカン、アカン、話がまた飛びましたね。 そんで魔神の妹さんな、新聞記事の愛人と同じでシータさんを殺そうとしたんですわ、 でも残念やね。その魔神の妹さんな、ラーマさんの弟のラクシュマナさんに耳と鼻を切られてしもうたんですがな。 そんでお兄ちゃん助けてーちゅうて、スリ・ランカ、ちゃう、ランカ島のお兄さんに助け求めたんですわ。魔神でも妹は可愛いもんですわ。 それに傷モンにされましたもんで怒りシントウでんがな。 あれっ、この魔神は頭が10個あったちゅうさかい、怒りはどの頭へ行くんやろね、10個全部に行くのやろかね。 そんでね、魔神の兄さんな、友達の魔神と空飛ぶ車でラーマのいる森に飛んで行ったんですわ。 そしてシータをさらうためにいろいろ策を練ったんですがな、シータのそばにはラーマの弟のラクシュマナさんが、離れずに守っておりますんで、うまくシータさんをさらえんのですわ。 けどな、魔神の友達がラーマさんと戦ってラーマさんの矢に倒れた時にな、ラーマさんの声を真似して断末魔の叫びを上げたんですわ。 それを聞いた弟のラクシュマナさんな、この時ばかりはシータさんを置いてけぼりにして、声のする方に飛んで行ってしもたんですわ。 その隙に魔神ラーヴァナがな、遊行僧に化けてシータさんを安心させて連れて出して、空飛ぶ車に乗せてさろうてしまったんですわ。 そしてシータさんをランカー島に連れて行ってしてもうたんですわ。 そんで、今度は魔神ラーヴァナがシータさんに一目惚れでんがな。 でもな、シータさんな、当然拒絶ですわな。 魔神な、そうであれば、私への愛が芽生えるまで、いつまでもいつまでも待ちます、ちゅうてな、シータさんを部屋に閉じ込めてしまったんですわ。 この神の兄妹は惚れやすいタイプやね。 […]

追憶のオランダ(63)アムステルダムの南にロンドン?

先週の「乾いた雨」に続いて、今回も奇妙なタイトルが続きます。アムステルダムの南には・・・? ロッテルダムがある、パリがある。それらは正解です。しかし、本当にロンドンがあるのか? 怪訝に思われるかもしれませんが、高速道路でスキポール空港を南に少し行った辺りで、道路標識に「ロンドン何キロ・パリ何キロ」と表示してあるのです。昔のことで、具体的な距離数が思い出せません。私が赴任したころはその標識はもちろんありませんでした。それは、ドーバー海峡に海底トンネル、通称ユーロトンネルが出来てからなのです。確か500km程度だったと思うのですが、アムステルダムとロンドンは地続き(?)になっているということです。実際はフランスのカレーまで南に走り、そこでユーロトンネルの車専用の列車に車ごと乗りこんで運んでもらいロンドンまで行くという方式のようです。というのは、これは私自身経験したことがないのではっきりと申し上げられません。英国側のある地点まで右側だけの一方通行で行き、英国側に出るところで左側車線に合流し、反対に英国側から大陸側に来る時も左側だけの一方通行で入り大陸側の右車線に合流すればよいと、私自身は勝手に思っていたのです。でも、それは鉄道と自動車それぞれのスペースが必要になるので、トンネル掘削が大変になりあまり現実的ではないのかと、これも勝手に理解しました。それにしても車に乗ったまま列車の車両に乗り込み降りる方法を採用するとは大胆としか言いようがありません。 ともかく、アムステルダム郊外で見た道路標識には間違いはありませんでした。

シンゴ旅日記ジャカルタ編(8)  散歩しながら考える(ダンドゥット)の巻

散歩しながら考えるの巻 ダンドゥット (2017年3月記) ジャワ島の中東部にヒンズー教のモジョパヒド王国(1293年~1478年)がありました。 王国は第4代ハヤム・ウルク王の時に最盛期を迎え、時の宰相ガジャ・マダの功績によりその版図はジャワ・バリを越えて、ラオス・カンボジア辺りにまで影響を与えたと言われています。 この王と宰相の名前はインドネシア各地の建物や通りの名前として今でも残っています。 ジョグジャカルタの名門国立大学名もガジャ・マダですし、ジャカルタの昔の中心地であるコタの2本の通り名には、ハヤム・ウルクとガジャ・マダの名前が付けられ運河を挟んで並行に走っています。 宰相ガジャ・マダ(怒った象の意)は1331年、宰相に就任する時に、黄金のクリス(短剣)を天にかざし、「パラパの誓い」を神に対して行いました。 その「パラパの誓い」とは「インドネシアのすべての地を征服するまでは、私は一切の贅沢や娯楽を絶つ、結婚もしない」と宣言した誓いのことです。 1976年にこの「パラパ」の名前をつけた通信衛星がインドネシアから打ち上げられました。 ソ連・カナダ・アメリカに続いて世界で4番目の打ち上げであり、日本の実験用放送衛星「ゆり」より2年早いのです。 また、インドネシアの初代大統領のスカルノも自分自身がガジャ・マダの生まれ変わりだと信じていたそうです。 そしてスカルノはガジャ・マダ由来のクリスを所持していたと言われています。 でも、ジャカルタ、バンドン地域のスンダ人は、このガジャマダに征服された側なのでこのモジョパパヒド王国やパラパの誓いを心良く思っていないようです。 前置きが長くなりました。 ある朝、森林浴しながら歩いていると、数人の若者が同じ黒い地のTシャツを着て道路の傍らに群がっていました。 近づいていくと、カメラを地面に置いて全員の記念写真を撮ろうとしているのです。 彼らに「皆さんは学校の生徒ですか」と聞くと「SNP」「ダンドゥット」という言葉が返ってきました。 ダンドゥット(Dangdut)とはインドネシアの大衆歌謡でロック音楽に民族楽器や電子楽器を使って歌うダンス音楽のようなものです。 「SNP」とはなんですか」と聞くと、「Saudara New Pallapa」の略だというのです。 つまり、彼らはパラパの名がつくSNPというグループのファンだったのでしょうね。 私はそんな若者に誘われ一緒に写真を撮ってもらい、またお返しに若者たちの集合写真を撮ってあげました。 SNPのSaudara New Pallapaとは「新しいパラパの仲間」といった意味となるのでしょうか。 SNPの名前が日本のSMAP似ているので、SMAPの名の由来も調べると「Sports Music Assemle People」 の略で、その前身であるスケートボーイズのキャッチコピーだったそうです。   インドネシアの音楽というとジャワやバリ島のガムラン音楽、「ブンガワン・ソロ」で有名なクロンチョン、そしてダンドゥットなどがあります。 そして、私が知っているインドネシアの歌と言えば、「ブンガワン・ソロ」「ノナマニス(可愛いあの娘)」そして「モスラ」です。 ブンガワン・ソロはそんなに難しい単語がありませんし、メロディもゆったりしているので、声楽家の秋山雅史の真似をしてオペラ風にして歌うとインドネシア人のスタッフや運転手に受けます。 このブンガワン・ソロは戦時中にインドネシア各地を巡回した小説家の林芙美子の小説「浮雲」(1953年発表)が1955年に映画化され、その一場面に流れていたような気がします。この映画は監督は成瀬巳喜男の名作と言われ、主演は高峰秀子で、森雅之が自堕落な男を演じていましたね。 小津安二郎(1903年~1963年)の映画「秋刀魚の歌」(1962年)の中にもブンガワン・ソロのメロディが流れます。それは主人公(笠智衆)が軍隊時代の部下(加藤大介)に偶然に再会し、二人で行くスナックを描写するときにブンワン・ソロのメロディが流れるのです。そして、スナックの中では二人がウィスキーを飲みながら戦争についての会話が続き、お店の人に「軍艦行進曲」のレコードをかけてもらうと、部下が敬礼のポーズで踊りだし、主人公が返礼をする場面があります。 なお、小津安二郎は「自分にできないシャシンは溝口の『祇園の姉妹』と成瀬の『浮雲』だけだと」語ったそうです。 ノナマニスは「可愛いあの娘は誰のもの」そしてインドネシア語の「ノーナ・マニス・シアパ・ヤン・プーニャン」という二つのフレーズが繰り返えされる印象的な歌です。 この歌はインドネシア東部の島々であるマルク地方の民謡でした。 日本では最初に高木義夫の訳詩でボニージャックスが歌い、そして、昭和40年に西沢爽作詞、遠藤実編曲で、「青春の城下町」のヒットを飛ばした梶光夫(1944年~)が歌いヒットしました。 その西沢爽の作詞の歌の一番は次のとおりです。 可愛い あの娘は誰のもの   可愛い あの娘は誰のもの 可愛い あの娘は誰のもの   いえ あの娘はひとりもの 今日(こんにち)は娘さん お話しましょう   恋人はいないの 淋しかないの 恋をするなら 若いうち   いいえ あの娘も 若いうち ノーナマニサバ ヤンプーニャン   ラササーヤ サーヤゲン この梶光夫の歌の「今日は娘さん、お話しましょう、恋人はいないの、淋しかないの、 恋をするなら 若いうち、いいえ、あの娘も 若いうち」の部分を、高木義夫氏の歌詞は元の詩に忠実に訳しています。それは「かたつむりはどこから 川からたんぼへ 恋人はどこから目から心へ 」というものです。 その文章はインドネシアでは韻を踏んでいるのです。 Darii mana  datangnya  lintah  dari  sawah  ke  kali Dari mana  datangnya  cinta  dari  mata  ke  hati 上の段のlintah(リンタ、かたつむり)が下の段のcinta(チンタ、愛)に、上の段の sawah(サワ、たんぼ)が下の段のmata(マタ、目)にそして上の段の kali(カリ、川)が下の段の hati(カリ、心)と韻が同じなのです。 あれっ、上段の原文は「たんぼから川へ」となっていますが、訳詩は「川からたんぼへ」と逆になってしまいますね。   そして「モスラ」です。1961年(昭和36年)の東宝映画です。日本に拉致された南の国インファント島の小美人双子(ザ・ピーナッツ)を救おうとする怪獣モスラの物語です。 その映画の中でザ・ピーナッツが歌う「モスラの歌」があります。 この歌はインドネシア語なのです。作詞は由紀こうじ、作曲は古関祐而です。 最初は中国語で作る事も考えられたようですが最終的にインドネシア語に決まりました。 この「モスラの歌」のインドネシア語の歌詞を会社のインドネシア人の部下に見てもらいました。 すこし古い表現があるようですが、儀式に使うような固いインドネシア語だそうです。 でもyoutubeで観てみるとザ・ピーナッツは映画の中で、一番だけを何回も繰り返しているのです。 Mothra Ya Mothra, Dengan Kesaktian Hidupmu Restula Doa Hamba-Hanbamu Yang Rendah Bangunla Dan tunjukanlah Kesaktianmu   Mothara Ya Mothra Dengan Hidupmu Yang Gemilang Lindungilah Kami Dan Jadila Pelindung Perdamaian Berdamaian Adala Hanya Jadilan Yang Tinnggal Bagi Kami Yang Dapat Membawa Kami Kekemakmuran Yand Abadi   […]

シンゴ旅日記インド編(85)我輩は牛でんねん ヴィシュヌさんの巻

我輩は牛でんねん ヴィシュヌさんの巻 (2010年10月記) えっ、今度はヴィシュヌさんの話が聞きたいちゅうんですか? ヴィシュヌさんは我輩のファミリーのシヴァさんのライバルやから、あんまり気が進まんのやけど、よっしゃ、世界平和のために、ご紹介しますわ。 えっ、世界平和と関係がないってですか?すんません。 あんさん、ヴィシュヌさんのブロマイドを見たことありまっか? あれを見るとな、ヴィシュヌの頭の上でヘビが守っていますんや。 アナンタ竜王でんがな、ヘビやけど竜でっせ。 サンスクリット語のナーガを中国で訳す時に竜にしはったんですわ。 えっ、インドネシア語でもヘビのことをナーガと言うんでっか、ホ~ン。 でもな、見れば分かるけどな、あのヘビな、キングコブラでっせ。 そんでな、ヴィシュヌさん、寝てはりますやろ、お釈迦さんと同じでんがな。 話が飛びますけどな、お釈迦さんな、年取ってからは高血圧やったって知ってはりまっか。 お釈迦さんな、いつも心臓が上になるように左胸を上にして寝てまっしゃろ。あれな、血液が体中に流れやすいように寝てまんのやで。 左胸にある心臓を下にして横向きますとね心臓のポンプが上に血を送らなあかん境が疲れまんのや。 お釈迦さんて80歳で死なはったけど、高血圧だけやったんやろか? そやけどヴィシュヌさんの寝てはる絵はな、右も左も下にしてまんのや。 きっとヴィシュヌさんが生まれる前の絵やから、血圧関係なかったんやろね。 そんでな、ヴィシュヌさんの4本の手、あのな、ヒンズーの神さんは昔のブロマイドではみなさん手が4本あるんでっせ。 昔のヒトは何でも四つに分けるのが好きやったんやろね。 人生がそうやろ。あんさんなんか、もう遊行期でしゃろ。 えっ、何やて、それはって? インドのヒトな、人生を学習期、家住期、林住期、遊行期の4つに分けてまんのや。 遊行期は最後の段階やがな、托鉢して聖地に向かって歩いて、キレイな心で死を迎えるんでっせ。 えっ、ワシはもう死ぬしかないという意味かってですか? すんません。そんな積もりや無かったんですわ。 でも、もう世の中に欲望がないちゅう顔は、エーと、よおー見るとそんな風には見えませんわな。 話変えますわ、遊行期の前の林住期な、これは家を息子に譲ってヨメさんと一緒に森の中で修業するちゅう話ですわ。日本でも、五木ヒロシ、ちゃう、ちゃう、アレ、アレ、ソウ、ソウ、五木ヒロユキさんがこの林住期ちゅう本を書いてますやろ。 あのヒトな、大学のお金払えんで抹籍されはったど、有名になってから学費納めたんで中途退学扱いになっとるんやってね。苦労してはるんですな。そやからあんなけ白髪なんやろか。 あれっ、ヴィシュヌさんの手の話でしたな。 そんでね、その四つの手に持ってはるものはチャクラちゅう円盤、棍棒、ほら貝、そんで蓮華ですわ。 あんさん、チャクラを知ってはりまっか? 武器でっせ。ビューンと飛んで行って、敵をやっつけて戻ってくるんでっせ。ブーメランと同じでんがな。 このチャクラな、ヨガちゅうか、インドの漢方みたい医学のアユ―ルベーダでも使われてまんのや。 体には7つの輪の急所があって順番に瞑想しながらその輪のチャクラを開いて行くんですわ。 その中の一つが額でんがな。あの赤いマークを付けるところですわ。第三の目ですわ。 ここを刺激しますとね、直観力ちゅうか第六感が湧いて来るんやて。そんでヒンズーのヒトはそこに印をつけるんですわ。また、話しがチャクラみたいに飛びましたな。 ついでに持ち物も二つ飛んで、四つ目の蓮の花ですわ、この蓮の意味を知ってまっか? 水と大地と生命の象徴ですわ、それに朝咲いて夜閉じますやろ、あの蓮の花。 そんで太陽を意味するんですわ。それが再生と創造に繋がって行くんですがな。 仏教でもな、蓮の花の上にお釈迦さんが座ってますやろ。 仏教言うたら、法華経ちゅうのがありますやろ、あれのサンスクリット名は『正しい教えの白い蓮の花』ちゅう意味なんやて。 ヴィシュヌさんの話ゆうてもな、本名のヴィシュヌさんで活躍する話が少ないんですわ。 ヴィシュヌの名前で出てくる有名なんは、宇宙創造神話でんな。 ヴィシュヌさんな、海の上でさっきのアナンタ竜王さんをベッドにして永遠に寝てたらな、ヘソから一本の蓮が生えてきて花が開くと中に創造神のブラフマンさんが座っておったちゅう話ですわ。 これ何が言いたいか分かりまっか。 またヴィシュヌ・グループの作り話でんがな。 世界を作ったんはブラフマーさんやけど、そのブラフマーさんを生んだのがヴィシュヌさんやから、ヴィシュヌさんの方がエライちゅうわけでんがな。 アホらし。えっ、吾輩がえらいヴィシュヌを馬鹿にしとるなってですか? そりゃそうでんがな、我輩なシヴァさんの、、、。 えっ、ファミリーやって、言うのやろってですか? よう、ご存知でんな、えっ、もう何回も聞いているから、耳にタコが出来てるってですか? おおきに、ありがとうさんです。 でも、あんさん、耳にタコですか?ヴィシュヌさんに出来たんわ、ヘソに蓮の花でしたで。 あっ、これ、シャレです。シャレです。これ。あんまりオモロないですな。 まあ、エエですわ、そんでヴィシュヌさんな、変身で有名になったんですわ。 その変身なサンスクリット語で『アバターラ』って言いますんやで。 『アバター』ちゅう映画ありましたやろ、宇宙人とヒトさんのハーフの物語。あれでんがな。 アバターにエクボちゃいまっせ。 そんでヴィシュヌさんの変身な、ちゃう、日本語では変身やのうて化身って言うんですってね。 今年日本で流行っとる竜馬の福山さんね、あのヒトが去年、歌ってたらしいですね、化身ちゅう題の歌を。それってヴィシュヌさんがモデルちゃいまっか? そんでな、ヴィシュヌさんがいろんなモンに化身するちゅうことはヒンズー教があっちゃ、こっちゃの神さんや、神話を取り入れていった証拠でんがな。 会社でいうたらニホンデンサンさんみたいなもんですわ。 合併、合併で大きくなって行ったんですわ。 そんでな、よう言われる10の化身て言うたら、魚、亀、猪、人獅子、小人、斧を持つラーマ、ラーマーヤナのラーマ、クリシュナ、お釈迦さん、カルキですわ。これ以外にもあと12もの化身をする話もありますんやで。ガンジーさんもそうやちゅう話もありますんや。 ヴィシュヌさんな、この化身の中のラーマ王子とクリシュナさんの二つの役で有名になってるようなもんですわ。 そりゃ、クリシュナさんは赤ん坊の時から可愛くて、大きくならはっても、もてて、もてて、長谷川一夫、佐田啓二、最近でゆうたら草刈正雄みないなモンでんがな。 えっ、出てくるヒトがエライい昔のヒトばっかしやってですか? すんません、オトンから聞いた二枚目のヒトばっかりですわ。 そんでラーマやクリシュナの話ってどんな話やってですか? アカン、アカン、そんなん、話しとったら、どんなけ時間あっても足りませんで。 今度にしましょ。ただ最後のカルキな、水道水に入れるノンとちゃいますけどな、これはヴィシュヌさんの未来のアバターラなんですわ。 そやから、まだ現れてませんのや。 このカルキさんは世界が終わりの時のヒトさんが堕落し切った時に現れるんですわ。 その姿は馬なんですわ。どうしても、カッコエエ時は馬やね、現れるの。 白馬にまたがった騎士やちゅうんですわ。黙示録の騎士と同じでんな。それよりもな、ヴィシュヌさんのヨメさんやがな。 ラクシュミーさんて言うんでっせ。 日本でいう吉祥天さんですわ。二人はいつごろ、どうやって出会ったのかって? あんさん、夫婦善哉のミヤコ喋々さんみたいなや。 えっ、また古い話やってですか? 最近は三枝さんが新婚さんいらっしゃいちゅうのをやっとるてですか。 きっと、それは夫婦善哉のコピーやね。 あんさんは蝶々さんのダンナさんの南都雄二さんの名前の由来を知ってまっか?雄二さんな、もともと芸人とちゃいまんねん。 二人は駆け落ちなんですわ。そんで台本読む時に雄二さんな、字が読めへんさかい、これ何と言う字やっていつも聞きはたったんやて。 そんで、その口癖の何という字が芸名になったんやて。 あんさん、あんさん、あんまり、深う考えなさんなや。 そんでね。ヴィシュヌさんとラクシュミーさんの二人の出会いな、ズッコイんやで。 ヴィシュヌさんの化身で言うと二番目の亀の巻でんがな。 あの乳海攪拌でんがな。神さんたちが不老不死の薬アムリタが欲しい言うてな、ヴィシュヌさんに相談したんですわ。 そしたら山をスリコギにして海をかき回せってメチャクチャなことを言わはったんですわ。 神さんたちな、敵のアスラの神さんも一緒になって竜を山に巻きつけて海を一生懸命かき回したんですわ。そうしたらな、海の底に穴が空いてもて山が沈みそうになったんで、ヴィシュヌさんが亀に化けて海に潜って山を支えたちゅうんですわ。 そして続けてかき回してたら海の水が乳色になってな、中からいろんなモンが出てきたちゅう話でんねん。 まず最初が、ゴホン、メス牛のスラピーさんでんがな。 ゴホン、我輩の先祖でんがな。 このスラピーさんな、願ったモンを何でも出せる牛でしたんやで。 きっとドラエモンの先祖でもあったんやろね。 このスラピーさんと聖仙のカシュヤバさんの間に生まれたんが、ゴホン、オス牛のナンディンさんやがな。 えっ、ゴホン、ゴホンて吾輩が風邪ひいたんとちゃうかって。 ちゃうまっせ、ええですか、よ~う、聞きなはれや、乳の海から出てきたんが我輩らの先祖さんの、、、。えっ、もう、十分に分かったから先に進めってですか? あんさん、冷たいヒトやね。ここまで話させといて、次に行けちゅうのですか。 まあ、エエですわ。 でもね、日本にもありますやろ、不老不死の伝説。 徐福伝説ゆうて、中国のシンのシコウテイに東のホウライという国に不老不死の霊薬があるゆうてな、出て行ったマンマ、帰らんかったヒトのはなし、日本中にあるそうですがな。 その他にもありますやろ、タケトリ・ストーリーでんがな、プリンセス・カグヤが月に帰ってもて、おじいさんが、カグヤのおらんこの世にはミレンはない。不老不死を得ても仕方がない、一番高い山で燃してくれちゅうて、その山が不死山いうて、今の冨士山になった言うて。 えっ、そんで、いつ、ラクシュミーさんが生まれるのかって? あんさん、あんまり日本の伝説に興味がないみたい人みたいやね。 そんでな、スラピーさんの次が、馬で、その次が、象で、宝石で、聖樹、天女、そしてラクシュミーさんですわ。 ラクシュミーさんな、自分でヴィシュヌさんをムコさんに選んでな、ちゃっかりヨメさんになってしもうたんですわ。 そしたら、神さんたちが、悔しい、残念や、何でや、て言うとるとな、酒の女神さんが出て来て神さんたちに、まあまあ言うてお酒振舞って宥めたんでんがな、 そんで次にお医者さんの神さん、いや、神さんのお医者さん、まあどっちでもエエけどな、その神さんが不老不死のアムルタを持って出て来たちゅう話ですわ。 […]

追憶のオランダ(62)乾いた雨

「乾いた雨」とは随分おかしな表現だと思われるかもしれません。しかし、感覚的には私にはそう思えたのです。日本の雨はどんなに小降りの雨でも、濡れるとなかなか乾きにくい。それは雨が降る時には湿度が高いから簡単には乾かないという当たり前の理屈です。 しかし、オランダで感じたのは、少々雨に濡れてもすぐ乾いてしまう、というよりも、乾いた雨が降っているのではと思える程なのです。少し表現が極端ですが、そんな感じなのです。ですから、外出していて途中で雨が降り出しても、オランダでは日本のように誰も走り出したりしません。決して急ぎ足にもなりません。ましては傘を開く人など殆ど見ることがありません。降る雨の中をそれまでと同じく平然と何事もないように歩いて、建物に入ると上着をコート掛けに掛けるとそれでおしまい。今度外に出る頃には、さっきまで降っていた雨も上がっているし、その上着もきれいさっぱり乾いているのです。 天気が非常に頻繁に変化するオランダでは、春・秋の季節でも、一日のうちにすべての気候が目まぐるしく入れ替わり立ち代わり出てくることがよくあります。春なのに革ジャンが欲しいと思っていたら急に暑くなり半袖で十分なくらい気温が上がったり、突如大嵐になったりと。時には、雨もみぞれもザット来ますが、決して長降りはしません。ということで、着るものを何にするか非常に困る時があります。したがって、我が家でも着る洋服は年中すべてのものをいつでも着られるようにクローゼットにつるしてありました。衣替えで、季節ごとに揃えて、後は仕舞っておくということは一切ありませんでした。夏でも半袖の上に革ジャンというのもざらにありました。 そう、乾いた雨で思い出したのは私が育った札幌。内地(当時、道産子―ドサンコは津軽海峡以南のこと「内地」と呼んでいたのですが、いまだにそう呼びますか?)の雪は湿っているけど、「北海道の雪は乾いている」。雪の玉を作ろうとしても手の中でなかなか固まらない。雪が降りしきる中を歩いていても、誰も傘なんかさしていない。建物にはいって、体に降り積もった雪をパサパサっと払えばそれでおしまい。何か、オランダの乾いた雨と似ているとは思いませんか。

シンゴ旅日記ジャカルタ編(7)  散歩しながら考える(ジャムゥ)の巻

散歩しながら考えるの巻 ジャムゥ (2017年2月記) ジャムゥ(JAMU)とは、インドネシアに自生している植物の実や皮、葉、根、木の皮などを原料にした古来から伝わるハーブ薬のことです。 散歩を始めて間もないころ、背中に籠を背負いジャムゥを売り歩いている女の人にであいましたので、写真を撮らせてもらいました。 ふた月ほどして、朝の散歩中に同じ女の人に出会いました。どちらも土曜日の朝でした。 その時は彼女が一軒の家の前にある花壇の橋に腰を下ろし、籠を脇に置いてお家の人と何やら話し込んでいまいした。 それで、私は近づいて行って二人の会話に入り込み籠の中のものをじっくりと見せてもらいました。 プラスチック容器に入った液体以外に、薬局で売っている袋入りの粉末薬も見せてもらいました。 それらは女性用の痩せる薬とか健康を維持するものが多かったです。 ジャムゥの起源は古く、紀元前1200年前にインドからインドネシアにヒンドゥー教が伝えられた時、インドの古代医学であるアーユルヴェーダとして入ってきました。 アーユルヴェーダのハーブ調合を元に、インドネシアに自生するハーブを原料に、応用や改良を重ねて行き出来上がったのです。そして、ジャムゥが民間に伝わるようになったのは8世紀の中頃、中部ジャワのソロの王様がある村長にハーブを与えたのが始まりです。 病気の症状に従った処方の配合、適用症状の知識、調合技術やハーブの種類の見分け方等のすべてが世襲制で、口伝で伝承されてきました。 ヒンズー教は薬だけでなく科学、文化、習慣などいろんなものを持ち込んできたのでしょうね。 仏教やキリスト教、イスラム教などほかの宗教の広がりも同じだと思います。 インド発祥の仏教は中国や朝鮮を経由して日本に6世紀に伝わってきました。 聖武天皇(701年~756年、在位724年~749年)は仏教に帰依し全国の国分寺の総本山として東大寺と大仏の建立をし、その妃の光明皇后(701年~760年)は悲田院を設けて貧しい人たちを救済し、施薬院を置いて病人の治療にあたっています。 薬師寺とか薬師如来とか仏教には医療関係のものが多いですよね。 お茶も、元来は薬物であり、喫茶の習慣は臨済宗の栄西が中国から持ち込んだといわれています。また病気治癒には護摩を焚いたり、お経を唱えたりすることもありました。 また、タイマッサージも太極拳もすべて健康維持が目的ですが、これらも寺院絡みです。 戦国時代末期に日本に来たキリスト教の宣教師も医療との関係がありました。 スペインやポルトガルが海外に領地を求めていくにあたり、現地の人たちにまず宣教師がキリスト教への改宗を求め、貿易を行い、宣教師や貿易商人を守るかたちで軍隊が随行していました。 そして、宣教師、商人、軍人、特に軍人は戦いで傷を負うので、医師も不可欠だったと思います。 また。当時の後進国は多くの人が病気で苦しんでいて、そんな国々に宗教は心の病を、医学は体の病を直すという役割をももっていたのだと思います。 日本ではポルトガル人で医師免許を持つ貿易商人で、のちにイエスズ会の宣教師となったルイス・デ・アルメイダ(1525年~1583年)が大分市で乳児院や外科、内科、ハンセン病科を備えた総合病院を建てました。キリシタン大名大友宗麟の協力を得たのです。 これが日本へ西洋医学が初めて紹介された事例です。 大分市にはアルメイダ病院が昭和44年に建設されています。 日本はその後、鎖国となりましたが、長崎の出島のオランダ商館の医師から外科術などの蘭学を学んで行き、中国やアジアの国々に先駆けて先進医療を身に着けていったのです。 明治時代に医療宣教師というキリスト教の活動として医療伝道を行う外国人医師たちが来た時に日本の医療が進んでいるのに驚いたそうです。 赤十字社のマークは十字です。これはキリスト教と関係があるのでしょうか? いいえ、あの白地に赤の十字はスイスの国旗のマークを反転したものなのです。 赤十字社の創設者アンリー・デゥナン(1828年~1910年)の祖国であるスイスに敬意を表しているのです。スイスの国旗は、もともとは神聖ローマ帝国の軍旗でした。 1240年に神聖ローマ帝国皇帝フレデリック2世によって、スイス連邦の三つの州のひとつのシュヴィーツ州に与えられたものです。 多くの国では、赤十字社の識別マークは白地に赤い十字のマークを採用していて、団体の呼称は「赤十字社」が一般的です。 しかし、中国では「紅十字会」、北朝鮮では「赤十字会」と呼んでいます。 イスラム諸国では、「十字はキリスト教を意味し、十字軍を連想する」として嫌われたため、白地に赤色の新月を識別マークとし、「赤新月社」と呼んでいます。 しかし、イスラム教徒が大半を占めるインドネシアでは赤十字のマークなのです。 いろんなマーク(旗)が乱立したため2005年12年の赤十字・赤新月国際会議総会において赤のひし形を象った宗教的に中立な第三の標章「Red Cristal」が正式に承認されました。赤水晶、赤菱形、赤菱とも呼ばれます。 日本神話の中にも出雲の国造りにあたりオオクニヌシと一緒に活躍したスクナヒコナが医薬の神とされています。この神様たちは越前、能登、越中をも開発しました。 越中と言えば「越中富山の薬売り」で、その薬の売り方はインドネシアのジャムーと同じく訪問販売です。それに、インドネシアでも日本でもそれら薬の原料は植物です。 立山や白山の高山植物の中にその材料があったのでしょうね。 また、現在私たちが病院や薬局でもらう薬の原材料は化学合成で作り出されたものでしょうが、もともとは自然の動物や植物のエキスを培養したりして作ったものだと思います。 まさか原油からの化学合成ではないとは思います。しかし、原油だったとしても、原油はもとはエビやカニの堆積物ですからやはり動物のエキスとなるのでしょうね。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(84)我輩は牛である の巻

我輩は牛であるの巻 (2010年9月記) 我輩は牛である。インドの牛である。名前はまだない。と云うか、知らないのである。 自由なる牛である、と云うか、一日中ジーと考えて居る牛である。 なぜなら我輩らは考える牛であるべきだからである。 ジーとしていることによって人は我輩らを崇拝するのである。 ジーとしている本当の理由は、我輩らは動くとお腹が空くからである。 体重÷身長÷身長のメタボ係数で表すと、かなり高い数値が出るであろう。 しかし、我輩らの身長は何処から何処迄を云うのか分からないのである。 ヒズメの先からコブの天辺迄か?尻尾の付け根から角の付け根迄か、だから標準係数も分からないのである。 毎日最短距離で何処へ行けば食事に有りつけるのか、何を食べればお腹が一杯になるかを考えて居るのである。目を細め、鼻で食べ物の在処を探して居るのである。 我輩は自由牛だから飼い主は居ないのである。 中には飼い主の居る仲間もいる。 鼻飾りをしている牛も居る。町を牧場の様に漁り、走り回っている牛も居る。 そして田舎の仲間の様に荷車を引いたり、田畑に入って土を耕している牛も居るのである。田舎の仲間と云えば最近田舎ではトラクターと云うトラの名の付く機械牛が仲間の仕事をしてくれて居る。 その機械牛は草を食わない。田舎の仲間は其れを良い事に野原で草を食べ、腹が一杯に為れば農道に寝そべって居るのである。此れで良いのだろうか? しかし、其れで良いのである。 我々の消化物は人の役に立つのである。 牝牛達の乳だけではない。 我々が毎日消化して出す〇ン○は人の役に立って居るのである。 燃料に、肥料に、家の補修材に、時には薬と為り、化粧品に為るのである。 我々は生きる有機製品生産工場なのである。 考えてみれば我輩に田舎の仲間を責める資格は無い。 我輩だって田舎の仲間の様に野原の草を食べて一日中寝て居たいのである。 然し都会で人に崇拝されて居るのでそうゆう訳には行かないのである。 其れに犬、山羊、驢馬と食べ物の取り合いをしなければ為らないのである。 山羊は紙だけ食べると思って居たら草も食べるのである。 犬だって時には草を食べるのである。 この国は昔から我輩ら牛を食べない人が多いのである。 何故だか分からない。 きっとその大昔に我輩らの先祖を食べて、お腹を壊したしたのであろう。 其れとも肉を保存する技術がなく、暑い国だから腐食してしまうためであろうか。 しかし、他の国では牛を食べるのである。 草を食う牛のその肉を食べるのである。 で在れば、何故、人は草を直接食べないのか。 その方が省力的ではないか。 最近では牛に草を食べさせないで牛の粉を入れて共食いさせて居る人が居ると云う。 その方が早く大きく育つと思って居ると云う。 その結果我輩の仲間達を病気にさせて殺して居ると云う。 運動選手の筋肉増強剤と勘違いして居るのである。 渡輩たちは人の考えが分からないのである。 最近はこの町でも外国人を多く見掛ける。先程も米国人の年寄りの団体と日本人の学者先生達が通って行った。 我輩を見て感心して居た。 我輩は只暑いし、お腹が空くので静かにしてジーとして居るだけである。 其れなのに『Oh, wonderful, He looks like a philosopher』 とか『やはりインドの牛は違いますね。物思いに耽って居ますね』とか云って通り過ぎて行った。 我輩らは人間の言葉は話せぬが理解は出来るし、人間の知識も豊富に持っている。 先祖が世界に散って行ったので、其のネットワークには素晴らしい物がある。 『News』(乳s)通信と云う通信モーを先祖から引き継いで居るのである。 処で先程、白い馬に乗った花婿が通って行った。 馬は結婚式に出ても様に為るのである。 足は長いし、顔は長いし、尻尾は立派であるからである。 此れが牛だと新郎新婦は二人の将来が心配に為るのであろう。 世界に競馬場は在るが競牛場は無い。 犬や蛙や蚤でさえ競争する場所が在るのにである。 遊園地でも子供が乗る馬の乗り物は在るが牛の乗り物は無い。因って今日は馬と牛について考えて見たい。 ウ・マとウ・シ。 ウを消去すれば、マとシが違うだけである。 中国語で馬はマーという。 であれば、牛はシーというのだろうか? 違うのである。 牛肉麺をニュウ・ロー・メンと言うように、中国語ではニュウと言うのである。 マとシのわずか一文字しか違わないのに、結果は大きく違って居るのである。 馬は西部劇のカウボーイや白馬の騎士等と主役に劣らぬ位の良い役回りである。 カウボーイと云うが彼らは『馬』に乗って『牛』を追い掛けて居るのである。 『馬乗り』で在るから本来はホース・ボーイと云うのが正しいのではないか。 カウボーイが『牛』に乗ったらロデオに為るのである。 西班牙では私たちに刃物を刺して弄り殺しにする見世物がある。 何故、牛でなくては為らないのだ。 馬では駄目なのか、豚や河馬では駄目なのか? 吾輩は国際動物愛護連盟に訴えたいと思っておる。 日本でも少々古いが、鞍馬天狗、怪傑ハリマオ、白馬童子等は皆、馬に乗って出て来たのである。 牛に乗ったアラカン、大瀬康一、山城新伍は出て来ない。 また馬は歌に為るのである。『お馬の親子』『牧場の朝』などの童謡を始め日本の歌謡曲では三橋美智也等が馬の歌をよく歌って居った。『わ~ら~に、まみれてヨー、~~』。 牛について歌う歌謡曲を聞いた事が無い。 あの内藤洋子も『白馬のルンナ』と云う歌を歌っていた。 『乳牛のルンナ』と言う歌は無い。 ルンナに良く似た語彙で『ドナドナ』と云う西洋の歌がある。 日本でも有名な歌である。今の若い人は知らないであろう。 『荷馬車がゴトゴト 子牛を載せて行く』のだ。 最初に馬も出て来るのである。牛を運ぶ馬車の役である。 だが、子牛は何処へ連れて行かれるのか? この歌には実は恐ろしい事実が隠されて居るのである。 此の作者はユダヤ人でホロコーストの時代に妻と息子二人が強制収用所に連れて行かれたのである。 『DONADONA』は原語では『DONAYDONAY』で『DONAY』と云うのはヘブライ語で『主よ』と云う意味が隠されているのである。 ナチに連行される家族を悲しく、悔しく見送った歌なのである。 連れて行かれる子牛に擬えて親牛の心境を綴った歌なのである。 涙無くしては聞けない歌である。 昔から我輩ら牛と彼の馬達とは人の暮らしに深く結び付いて居るのである。然し、誤解されている事もある。 車では馬車も牛車もある、しかし、顔については馬面とは云うが牛面とは云は無いのである。我輩らも結構顔は長いのにである。 其れに人は我輩ら牛に対して多くの誤解をして居るのである。 例えば、『牛飲馬食』此れはおかしい。 牛飲というが馬の方が水を良く飲む。水を入れる物をバケツ(馬尻)というではないか、すまん、少しジョークを入れて見た。 馬食というが我輩たち牛の方が良く食べる。胃も馬より多く長いのである。 馬に就いての諺は次の通りである。 『天高く馬肥ゆ』 牛だって肥えるのである。牛はいつも太っている様に見られて居るのだろうか。 『人間万事塞翁が馬』 牛では多分、否、きっと、否、必ず、出て行って仕舞えば、二度と戻って来ないのである。行った切りに成るので諺の意味が違って来るのである。 「人間万事塞翁が牛」では人生が悲劇に成るのである。 『馬には乗ってみよ、人には沿うてみよ』 先ず乗って試せ、付き合って判断せよである。牛にも乗って見て欲しい。 『竹馬の友』 タケウマと読まないでほしい、何故チクバと音読みするのだ。で、あれば友もユウと音読みしてチクバのユウと云うべきであると考える。 […]

新加坡回想録(44)落ちたロープウェイ

その昔、日本では、シンガポールは小さな国というイメージを表すのによく淡路島に例えられた。日本の島の中で面積が最も近いのが淡路島だったからだ。しかし、その後、埋め立てによって国土が広げられて、「東京都区内」に代わり、最後には、「奄美大島」くらいの大きさになった。いずれにしても車で走ると東西で2時間、南北なら1時間も走れば、海に突き当たってしまうほどの狭さである。 今では、日本人にも大変人気のある観光地となったので、ご存じの方も多いと思うが、北は、コーズウェイでマレーシアと繋がっており車で行き来が出来て、最も近い外国である。南には、一大観光スポットとして開発されたセントーサ島があり、今では、セントーサ・エクスプレス(モノレール)で簡単に行ける。 筆者が出張で訪れていた頃から駐在してすぐの頃は、まだモノレールはなく、ケーブルカー(現地ではこう呼ばれているが、実際はロープウェイ)に乗って島に渡った。マウント・フェーバーと言う小高い山から海を超えて対岸のセントーサ島まで渡るのが観光の出発点だった。 日本の観光地によくあるロープウェイに乗ることに躊躇することはあまりないと思うが、東南アジアの技術は日本と比べて劣っているという先入観があると怖いものだ。出発した途端に、かつてそのロープウェイが落ちたことがあるという話をして怖がらせるのが私のアテンドの定番だった。 もうひとつ、市内を案内している間にたくさん見かけるHDBフラットは殆どが韓国の建設会社によるもので、その柱は非常に細く、特に、高層なのにも関わらず、1階部分が柱だけで、駐車場だったり、お店の空間だったりするのを見ると大丈夫かなと思ってしまう。シンガポールには地震がないので、問題ないと高をくくっているようだが、果たしてどうなのか。 (西 敏)    

追憶のオランダ(61)「託送荷物」になった男の話

海外旅行中には盗難にあうことも稀ではない。何を盗られるかにもよるが、パスポートを盗られる(紛失する)となるとそれは大変なことになる。少なくとも、紛失後はさらに予定通りの旅行を続けることが困難になる。然るべく、パスポートの再発行の手続きをということになるが、今回はその話は省いて話を続ける。 私がロッテルダムで勤務している間にも、盗難の被害にあわれた来訪者が数人おられた。そのうちの一人に我が同僚がいた。彼は欧州出張の最後の週末に当地に立ち寄ってくれた。終末の一日をオランダで過し少しだけ観光して帰国予定だった。当日金曜日夕刻、ホテルまで迎えに行ったが到着が遅れているらしく予定時間を過ぎてもまだチェックインしていない。しばらく待っていると、彼がスーツケースを押しながら悄然として現れた。聞くと、先ほどロッテルダム中央駅の前でグループ犯らしい連中にアタッシェケースを盗られたと。なかには、パスポートはじめ帰りの航空券、トラベラーズチェックなども入っていた由。 ということで、パスポートはないが私も立ち会って急ぎホテルにチェックインして、すぐに盗難届を出すため、最寄りの警察に駆け込んだ。そこでは、非常に親切に盗難届の手続きを済ませてくれ、おまけにトラベラーズチェックの封鎖とかも警察でやってくれた。 あと、何をどうすべきか検討することになるが、まずは腹ごしらえということで私がいつも行くレストランへ行き、知恵を絞ることにした。といっても、すぐに妙案は浮かばない。やはり、パスポートが先決なので、もう金曜日も21時を回っており、土曜日直接ハーグの大使館まで出向くことにした。大至急で再発行を申請しても新しいパスポートを受け取れるのは火曜日か水曜日になりそう。彼は、月曜日には日本にいたいというが、それはどう考えても無理な事。 今夜は飲もうということで、飲みだした。すると、我々の雰囲気を察したか、懇意にしてもらっている店の主人が来たので、困っていると簡単に話した。すると、「こういう方法もないではありませんよ。」と、知恵を授けてくれたのだ。 N航空で、日本に帰るだけなら、パスポートなしでも予定通り帰れます。ただし、私が(というより、私の勤務している会社の名のもとに私自身が)N航空に対して彼の身元を保証して、しかも日本側で彼の家族が成田空港まで彼を受け取りにくることができれば、帰国は可能かもしれないと。そして、夜遅くて失礼とは思ったが、すぐにN航空の知り合いの方に直接電話を入れて、確認して頂いた。快く了承いただき、翌日朝早くから駆け足の観光?をして、予定通りの時刻に空港へ行った。そして簡単な手続きを済ませて彼を日本に帰すことができた。この時の有難さは今でも忘れない。 要は、パスポートを失くした彼はこの日「N航空に預けられ日本まで送り届けてもらう『託送荷物』」になったのだ。 この時の窃盗犯グループは至って巧妙。あとで彼に聞いたところでは、まず彼のコートの背中にケチャップをつけて、親切に注意してくれる。彼がスーツケースとアッタッシェケースから手を放しコートを脱いでそれを確認しようとしている時に、近くで別の仲間が小銭を落とす。その音に彼が反応して振り向き余計な親切心を起こして小銭を拾ってあげている間にアッタッシェケースをひったくりまた別の仲間に手渡す。彼はその瞬間さえ見ていない。小銭を拾い上げて向き直った時には既にアッタッシェケースは視界からは消えている。おそらくコートのケチャップと小銭にまだ気をとられていて、犯人グループが消えてから初めてアッタッシェケースがなくなっていることに気付いたのだ。彼が見せてくれたが、犯人が小道具として使った小銭はフランスの1フラン硬貨。 彼はこの種の犯罪についての予備知識も十分あったし、そんな仕掛けにまさか自分自身が見事に引っ掛かるとは思ってもいなかったようだが、いざその場に臨むと、ごく自然に余計な動作(大事なものから手を放し、コートを脱いで、おまけに小銭まで拾う動作)をしてしまっているのだ。この場合、本当に汚されてしまっているなら、もうあきらめて、「親切に、有難う。」と短く礼だけ言って、そのままその場からさっさと立ち去ることが肝心。 さらに親切そうに汚れを取ってやるなどと言われても、それには乗らぬこと。そのままトイレなどにノコノコついていくと、話はだんだん深刻になっていく危険性もあるので、ご注意を。「分かっている、分かっている。」と言っておられる、あなた。次はあなたかもしれませんよ。 これには、少しだが後日談が付いている。 盗難事件から1カ月以上経って、私のもとへ近所の小さなホテルから一本の電話があった。聞くと、盗難にあった彼のノートを預かっているので、良ければ受け取りに来てほしいと。何だか狐にでもつままれた感じもしたが、ともかくそのホテルまで出向いた。すると、話はこうだ。 数日前、そのホテルの前にそのノートだけが打ち捨てられているのをホテルの前を通りかかった人がホテルのフロントに届けてくれたらしい。そのホテルというのは、盗難にあった彼が泊まったホテルではない。中を見ると一枚の名刺が挟んであり、それが彼がこの出張の前半に訪問したわがイタリア法人の同僚のものだったのだ。そんな事情を一切知らないまま、ホテルの人は親切にもわざわざ名刺を頼りにイタリアまで電話をしてくれている。そして、そのノートの持ち主の会社のオランダ法人がロッテルダムにもあることを教えてもらい、今度は私のところまで電話で知らせてくれたのだった。殆ど読めないだろう日本語ばかりが書いてあるノートを、そこまでして持ち主に届けようとしてくれたホテルの人の熱意と親切心には頭が下がった。その日は、そのいきさつを聞いて彼に代ってただただ感謝しノートを受け取って帰った。 そして後日、またチョコレートを持って礼に行った。このチョコレート代を彼には請求はしていない。