追憶のオランダ(59)逆方向に走り出した列車

慣れぬ海外生活を始めた頃はいろいろな面白い失敗の連続でした。 その頃まだ住む家も決まっておらずホテル住まいをしており、車もなかった。ロッテルダムからアムステルダムまで列車を使って何度か行った。そしてある日のこと、アムステルダムで友人と夕食を食べ10時過ぎに別れ、私は以前に何度か乗ったことのある時刻のロッテルダムが終点の(はずの?)列車に乗った。これなら乗り過ごすことはない。酒も入っていい心持ちでウトウトしていたが、どうも列車が止まったらしい。しかし外を見てもロッテルダムではないと思い、また目を閉じていたところ、突然動き出したのはいいが、今までとは違う反対方向に動き出したのだ。何ということだ! どうもこの日に限って、この列車は行先変更になってロッテルダムまで届かなくなっていたようだ。そして、さっき止まっていたのはどうもデルフトの駅。もともと3-4人しか乗客がいなかった車両だったが、気がつけば私以外は誰もいなくなっていた。皆デルフトか、デルフトに着くまでの途中駅で降りてしまっていたのだ。アナウンスがあったかどうかも分からないし、仮にあっても理解できずそのまま乗っていたと思う。 そして、デルフトからライデンまで逆戻りしてしまった。そこで、止む無くそこで降りることになったが、次のロッテルダム行きの列車の時刻を見ると深夜1時過ぎ(オランダでは深夜でも本数はわずかだが一応列車は走っている)。ライデンに着いた時には11時半頃で、結局ライデンの駅で1時間半以上待つ羽目になった。これも経験かと思い諦めて待つことにした。時期は6月下旬だったが、夜になると結構冷え込み、先ほどまでのほろ酔いが一度に醒めてしまった。手持無沙汰で薄暗い構内をブラブラしていると、同じように次の列車を待っている人がいて、お互い時間潰しに取り留めのない話をしたことを思い出す。結局その日は、というか既に日付が変わって、ホテルに着いたのは深夜2時を回っていた。 いつもはそうだったからというだけでは、今回もまた同じだとは限らない。おそらく、何かの理由でその日には変更があったことを知らせる何かサインがあったはずだ。それも列車の始発駅のアムステルダム駅で。それを見落としていた結果だ。もしも他の客がデルフトで一斉に降りた時、降りていればどうなったか。少なくともライデンまで逆戻りはしなくてよかったかもしれないが、結局次のロッテルダム行きがライデンで再度乗った深夜のものと同じであれば、デルフトで降りていても結果は同じだったはず。要は、アムステルダムで乗る時に、その日の最終のロッテルダムまで届く列車が何時発かを確かめて置く必要があったということ。これは、仕事でのことではなかったので、一人馬鹿なことをやった、で終わったが、これ以降少し注意を払うようになったと思っている。人間失敗せねば学ばない。失敗してもなお学ばないことも往々にしてあるにはあるが。  

十男60歳 葬儀1か月後、兄ちゃんがまた死んだ

四男の死(享年73)から1か月後、76歳の二男が亡くなった。晩年は脳梗塞から色々な病気を併発した。弟の死を知らされ病床で号泣した。 二男だが長男が夭逝したためお鉢が回って家長・当主に抜擢された。勉強が嫌いではないが、苦手だった。その上、上手に立ち居振る舞いができない。「器用でない人」が望みもしなかった当主になり生涯の重荷になったのではないか、と思う。 父が兄を隣町の蔵元に住みこみで働かせることにした。社会勉強させる配慮だったろう。ボクが高校生の頃だ。働き始めて1週間後くらいして兄がボクの下宿に訪ねてきた。「おれ、(仕事)やっぱりついていけないんだ。家に帰りたい」と泣きそうな顔で言う。聞けば杜氏仲間と共通の話もなかったようだ。ボクは「仕事を辞めて家に帰ったら」とは言えなかった。とりあえず500円をポケットに入れ、近くの軽食喫茶に行った。高価だが思い切って鍋焼きうどんを注文した。卵も野菜もたっぷりで寒さを吹き飛ばすくらい熱く、二人黙々と食べた。話もとりとめのないものだった。食後、兄は「もう一度、職場に行ってみるよ」と言った。嫌々だったのだろうがそう言った。 数週間後、「どうにか勤めを終えて帰ってきたよ」と父から連絡があった。 ボクが新聞社に入社が決まった時、親と同じように喜んでくれたのが兄だった。弟・六男は警察官で「警官やマスコミ関係者が兄弟にいる限り、わしは頭は悪いが悪い事だけはできないなぁ」が楽しそうにボヤいていた。身内だがこんなに偉ぶらない人に出会ったことがない。結婚後、2男1女をもうけた。家業を守り、両親を夫婦で最期まで看た。人間、勉強だけじゃない、大切な事をちゃんと果たすこと。周囲の心配をよそに不器用兄は成し遂げた。もちろん義姉のサポートも大だ。ボクら下の兄弟夫婦は義姉を目標にした。 「わしは何もできない人間」と口癖だったが「とんでもない。兄さん、(自分のいいところ)分かってない。あんたのおかげにボクら下の兄弟はみんな自由に生きられた」。 一緒に食べた鍋焼きうどん、物凄く安くついた、ボクのその後の人生にとって、そう思う。 =庭先で休憩中の兄を写す、写真を撮られるのがあまり好きでなかった兄の珍しい1枚= 吉原和文

シンゴ旅日記ジャカルタ編(4)  巨大都市開発メイカルタの巻

メイカルタの巻 (2017年9月記) テレビの前のみなさん、こんにちは、報道特集『火を吹く小ドラゴンたち』の時間です。 この番組では活気あふれるアジアの国々の発展の模様を個別のプロジェクトを通して検証して行こうとする番組です。 第一回目の中国のレンタル自転車市場、二回目のシンガポールの観光事情に続き、今回はインドネシアから大型都市開発をお伝えします。 中国は日本を抜いてGDPで世界第二位の国となり、援助される国から援助する国へと大きく変貌しました。また、シンガポールは何も資源のない島国から、今では一人当たりのGDPが日本を追い抜きました。 かつて発展途上国といわれていたアジアの国々が日本を追い越し、あるいは間もなく追いつこうとしているその裏側には、その国々に合った政府の対策、民間の努力があると思います。 インドネシアもかつては石油、ガスの輸出により貿易が成り立っていましたが、現在ではそのころとは様変わりです。今ではOPECのメンバーではなく、石油ガス以外の輸出により貿易黒字を計上するまでになりました。 今回は首都ジャカルタから離れたチカランという町で建設中の巨大都市に焦点を当ててみました。 かつてアジアの国ぐには日本を先頭にして発展していく雁行経済と呼ばれたことがあります。 しかし、今では失われた20年の日本よりも、世界の大国となった中国がアジアの国々に大きな影響を与えています。それで、この番組では一帯一路という名目で経済圏構想を打ち出した中国を竜の親と見立て、アジアの国々をその影響を受けている小さな竜に見立たてて実情を報告していくものです。 では早速現地からの報告をごらんください。 MG5テレビのジャカルタ支局の草刈正雄です。 私は今、建設用クレーンが数多く立ち並んでいる工事現場に来ています。 ここはジャカルタから高速道路に乗って東に40kmほど走ったチカランという田舎です。 このあたりには日本の商社が中心になり開発したいくつかの工業団地があり、インドネシア産業に大きなウエートを占めている地域なのです。それらの工業団地にはトヨタ自動車をはじめとする日本、韓国、そして欧米の自動車メーカー、その下請け、そのほか電気、電子、機械、食品そして化粧品で有名なマンダム社などあらゆる企業が進出してきています。(あっ、いけないスポンサーは資生堂だった。) 工業団地で働く人たちは現地の人も、駐在員の方も一部はブカシやチカランに住んでおられますが、まだジャカルタから朝晩の混雑にも負けず二時間、三時間と時間をかけて通勤されています。 そんな中、ブカシ近辺の将来の発展、人口の増加を見越して巨大都市を目指して建設が始まったプロジェクトがあります。その巨大都市名はメイカルタといいます。 メイカルタはインドネシアで第7位の華人財閥であるリッポー・グループが開発主体です。 リッポー・グループは1929年にマランで生まれた華人のモフタル・リアディ氏が1948年にリッポーバンクを設立したのが始まりです。そして同氏はブアナバンク、パニンバンクで銀行家として名を上げていきました。1975年に当時インドネシアで最大の華人財閥であったサリム・グループ総帥のスドノ・サリム氏の誘いでバンク・セントラル・アジア、通称BCAの共同経営者となりました。 モフタル氏は1990年の円満退社まで頭取として腕をふるい、BCAをインドネシア最大の民間銀行に育て上げました。しかし、リッポーバンクは2009年のアジア通貨危機のあと他の銀行に合併されました。しかし、モフタル氏の息子世代がビジネスを引きついて事業を拡大させていきました。 長男のアンドリュー氏はシンガポールや香港で不動産事業を成長させ、次男のジェームス氏がグループの社長としてインドネシアを担当し、不動産事業を中心として、メディア、通信、小売、医療、教育など多くの事業に参入しています。 また、インドネシア最大の小売り店であるマタハリ・モールはリッポーが展開しています。 そのリッポーは1990年にチカランに最初の工業団地リッポーチカランを完成させ、1994年にはジャカルタの西のバンテン州タンゲランのカラワチに、さらに南スラウェシ、ボゴールなどへと開発の足をのばしまして行きました。2007年には韓国に進出、さらに香港にもリッポーセンターという超高層ビルを所有しています。 そしてチカランでは工業団地ばかりでなく、牧場、ホテル、娯楽、ショッピング。モールなど様々な事業を展開しています。そしてついに二年前の2015年に、ここチカランに東南アジア最大で、かつ美しい、理想の都市の実現を目指してメイカルタを建設することを発表したのです。 なお、メイカルタのメイは創始者のモルタル氏の奥様の名前から名付けられたと聞いて言います。 このメイカルタの工事現場は私が赴任してきた昨年の11月は、まだのどかな田圃風景で、水田が広がり、なだらかな斜面では牛たちが草を食べていたところでした。 それが今年の5月ころからタンクローリーにコンクリートを積む設備が急にでき上がり、一般道路路の両側にメイカルタの完成図の写真を大きく張り付けた派手な塀に囲まれていきました。 そしてこの工事現場にはMという文字の入った大きなバルーンが所狭しと無数に上がっているのです。今回、私はその工事現場に入ることができました、できましたというより、工事中にも拘わらず、一部完成した場所には一般の人も自由に出入りすることができるのです。 リッポーグループが今年5月に発表したこの巨大都市の構想は次のとおりです。 今から20年以内にブカシ、カラワンなどジャカルタの東部首都圏の人口が2千万人規模となる。そうなると過密都市ジャカルタでは渋滞、住居不足に陥るのでその解決策としてチカランに最終的には投資総額278兆ルピア、約2.3兆円の大規模なニュータウンを建設する。その第一段階として3年の計画で200万人が住むための40万戸の住居の建築を始める。さらに長期的には40兆ルピア、約3.3千億円を投資して国際空港を、23兆ルピア、約2千億円d絵モノレールを建設するとしています。この8月末現在でまだ建設中の住宅が13万戸予約済となったとの発表がありました。 この巨大都市の面積は最終的に5、000Ha、東京ドーム約1000個分ともいわれますが、現場の事務所で確認したところ、三菱商事が当初計画していたオレンジ・カウンティという商業施設とその周辺の土地500Haが第一期の開発面積のようです。 それにしても工事現場の広さと建設機器の多さには圧倒されます。 私は今、番組の冒頭で紹介した現場から車で10分ほど離れた小高い丘の上に登ってきました。 ここから眺めると、辺り一体にすべてMの文字の入ったバルーンが浮き上がり、まるでおとぎの国のキノコにかこまれているような錯覚におちいります。 そして、ここでも工事現場には数多くの建設クレーンが立ち並び、忙しくタンクローリーが行きかい、作業者が立ち働き、工事現場を囲った塀にある数か所の入り口では守衛さんローリーが早く出入りできるように一般道路の車の通行の整理をしています。 このメイカルタには商業、住宅、文教地区だけでなく、東京ドームの約40倍もの広さをもつ広大な公園がつくられる予定で、その予定地にはすでに大きな池が出来上がっているのです。 では、その公園に行ってみましょう。はい、ここがその大きな池のある広い公園です。 この池の周りには、ごらんのようにすでに大きな木々やきれいな草花が植えられて、一般の人々が散策を楽しんでいます。とても日本の建設現場では考えられない風景です。 この公園には休日には朝から家族連れの人々散歩を楽しみ、平日の夕方には池の回りのベンチで夕涼みをしたりしている風景が見られます。また、そんな人々を当て込んで、食べものを売る車も来ています。 私が工事現場を取材中していた時に、東南アジア各国に長く駐在したことがあるという年配の日本人の方に出合いました。その人の話では、このような大規模な工事現場はかつて見たことがない、あえていうならば1970年代のシンガポールのジュロンの工業団地の建設現場を思い出す程度であるとのことでした。 ここでの工事は昼間ばかりでなく夜を通して行われています。私は夜の工事現場にも行ってみました。そこでは暗い空に建設クレーンのアームにいくつかの灯りが点き美しい光景を写しだしていました。日本ではかつて工場夜景クルーズとい工業地帯の工場エリアの夜景を船上から見学するツアーがありましたが、メイカルタの夜景もそれに勝るとも劣らないくらいの迫力があります。 私にはまるで夜の造船所かコンテナヤードのような風景にみえました。中には灯りが点いたまま動いているクレーンや、土を運ぶトラックが出入りしているところもありました。 また、昼間に訪れたた公園に行ってみると、そこにはベンチに座っているカップルたちがいました。 驚きました。インドネシアのある地域では夜9時を過ぎて歩いている男女は結婚しなければならないといった規則があると聞いています。ここチカランにはその規則が適用されているのでしょうか。 それでは最後になりましたが、リッポーが発表しているメイカルタの完成予想図をご紹介します。 (取材の合間に)私は空高く浮かぶバルーン見ていて、一体どれくらいの力で浮いているのか知りたく思い、バルーンに近づき固定している紐を引っ張ってみました。かなりの力で浮いています。数個をまとめれば私が宙に浮いてしまうような感じでした。取材のため使用した車の運転手も、公園内の写真を撮ったり私と風船で戯れたりしました。

シンゴ旅日記インド編(81)我輩は牛でんねん 三位一体の巻

我輩は牛でんねん 三位一体の巻(2010年9月記) 今日は日曜日やけど、『ギフのオッサン』の匂いが、まだせえへんなあ。 きっと、どっかへ仕事で出かけてはるんやろか。 でもな、日本ちゅう国いうたら考えてみたら不思議な国やな。 言葉は一つやけど、文字が三つもあるやないか。 カンジやろ、ヒラ・ガナやろ、それにカタ・カナや。 ひとつの言葉で三つの文字を使う国って世界にあるんかいな。 それもやで、ヒラ・ガナとカタ・カナはカンジから生まれたちゅうやないか。 不思議な話やな、例えば、オトンがカンジなら我輩と弟がヒラ・ガナとカタ・カナちゅうわけやな。 そしたらオカンはなんや、カンジやのうてイクジか? グフッ、あかん、自分でシャレゆうて自分で笑うてもた。 オトン言うたらな、日本の言葉のことをよう知っとるで。 当たり前か、日本生まれやもんな、それもメイジ生まれやで。 ブンメイ・カイカやフコク・セイメイ、ちゃうわ、シバタ・キョウヘイ、これもちゃうわ、そうやフコク・キョウヘイやった。 そんで英語も中国語も韓国語も少しづつやけどできるんやて、コーベちゅう街はいろんな国のヒトがおるんで知らんうちに覚えたとゆうとったわ。 そんで英語も中国語も一つの言葉で一つの文字やねんて。 韓国語はな、昔は漢字とハングルを一緒に使っとった時があったけどな、今はハングルに統一されたちゅうとったな。 よそさんの国のヒトから見たら、日本の三つの文字をな、どうやって使い分けるのか不思議でたまらんやろな。 どうゆう時がヒラ・ガナで、どうゆう時がカタ・カナでとか、きっとその時のカンジで使うんやろか。 あかん、これもひとりでにシャレになっとるわ。 そういえばオトンが言うとったな、カタ・カナは、坊さんがお経を読むときに解りやすいようにカンジの一部分を取り出しでつくたんや。 ヒラ・ガナは、マンヨウ・カナゆうてな、歌を詠むときに出来たんやて。その頃のオバサン作家さんらが使って日記とかを書いとったって。 そやそや、オトンがこの前、ヒラとカタのな、元となる漢字を教えてくれたわ。 例えば最初の『あいうえお』は『安以宇衣於』、『アイウエオ』は『阿伊宇江於』から取ったってゆうで。あれっ、ヒラとカタで元のカンジが違うやないか。 そやけど、ヒラとカタがどんなカンジから出来たって日本のヒトはみんな知ってはるのやろか? あのギフのオッサンは、知らんできっと。 今度聞いたろ。今では『あいうえお』っていうけど、昔は『いろはにおへど、、、』ゆうて、なんでも『色は匂へど、、、』と詩にして詠んで覚えたそうやな。風流なもんやな、日本人て。 でもな、オカンも言うとったでイギリスにも同じようにABCの全部入った詩があるゆうて。 確か『A QUICK BROWN FOX JUMPS OVER THE LAZY DOG』ゆうとったかな。 なんでオカンは英語知っとるのやろ、オトンと付き合う前のステディがイングリッシュ・スピーキング・カントリーやったのやろか? そしたら、我輩のファーザーになるポシビリティのあったパーソン、いやブルやったかもしれんな。 そやけど、どこの国も、おもろいこと考えるんもんやな。 そんでも日本てな、世界に文字を持たん国があるのに、よう三つの文字を持っとるわな。 これって日本人のもつギジュツのシンズイやろか、他人からのモンを自分のモンにして行くちゅう。 それもな、元のモンよりエエモンにしていくちゅうんは、日本人のランプ、ちゃう、デントウやな。 なんか今日も単語がスッキリ出てこーへんな。年やろか。 でもランプとデントウって、これ受けんかなあ、あかんかなあ、インドは停電多いさかいにデントウゆうてもパッっとせえへんかなあ。 でもええわ、今度ワイン・ハーフの会でいっぺん使ってみたろ。 ギジュツいうたらな、タネガシマに流れ着いたポルトガル人が持っとった鉄砲をその数年後にはポルトガルよりもセイミツに大量生産しとったちゅうもんな。 オトンの生まれたメイジのブンメイ・カイカ、アメリカやヨーロッパからのギジュツ・ドウニュウも同じことやろうな。 カンジ、カタ・カナ、ヒラ・ガナ、これは三位一体やな。 そんでオトンなカンジにも書き方が色々あるって言うとったわ。 カンジは本家の中国ではカイショ、やギョウショやソーショやいろんな書き方があんのに、日本に来てからカブキや、ヨセや、スモウや、チョウチンや、カゴや、ヒゲや、カクやゆうて書き方を変えて行ったそうや。 これも日本のギジュツ・カイリョウやろうな。 機械でゆうたら、CDラジカセやな、 CDとラジオとカセットちゅう別々のモンの三位一体やがな。 しかし、CDゆうたらレコードとそっくりやのに、なんで針が要らへんのやろ。 あんなにちいそうてな、30cmのレコードよりも、ようさん歌が聞けるそうやないか、不思議やなあ。 そやオトンから聞いた日本の家も考えてみれば三位一体や、ツチノマとイタノマとタタミノマや。 ジョウモンとカマクラとムロマチが家の中で一体になっとるわ。 三つの間でサンノマか、何か、聞いたことあるな、サンノマ、何か、コーベと関係あるんか、サンノマ、そうや、サンノミヤやがな。 我輩、ボケとツッコミを一人でやっとるがな。 これで笑う客をやったら、お笑いの三位一体やな。 そやそや、一人でやるゆうたらな、聞いたことあるで、日本のバスの運転手な、運転して、案内して、切符を切って、一人で3人分の仕事するんやて。 なんかこれも三位一体やろか。 空港のターミナル・バスの運転手さんなんかな、手荷物も手伝って出し入れしてくれるらしいで。 運転手さん3人分の給料をもらうんやろか? それに日本人の宗教や、正月はお宮参りや、結婚はキリストさんや、そんで死んだらお寺さんやて。これも日本の宗教の三位一体や。 オトンがいうとったで、家のなかに神棚と仏壇があってな、その前でクリスマスケーキ食べとるちゅう話やて。 ヨソの国のヒトがそれ見たらどない思うんやろ。 やけど、日本のヒトって、どうやって神さんを使い分けとるんやろ。 カンジ、ヒラ・ガナ、カタ・カナと同じようなもんなんやろか。 神さんたちも大変やで、いつ自分の出番があるか準備しとらなアカンがな。 もしな、ちょっとおっちょこちょいのお釈迦さんがおってな、寝坊してな、あかん、出番や、それって出て行ったらみんなでケーキ食べとるとこやったりして。 そんで、今の三位一体ゆうたらパソコンやがな、計算だけやのうてメールも打てるしテレビも見えるし、DVDで映画も見えるし、音楽も聴けるちゅうし。 どうなるんやパソコンの将来は。 そやそや、パソコンゆうたら日本語の3つの文字をパソコンで表すんは難しい技術やったそうやな。 けどな、それを出来るようにしたんのは日本人技師やちゅう話やな。 それが出来たんで中国語もパソコン化が出来るようになったんやな。 中国のヒトは日本のヒトに感謝せなあかんがな。 すごいギジュツを持っとる国、日本やな。 今度、ギフのオッサンにおうたら尊敬せなアカンな。 でもあのオッサンはパソコンは文章しか打てません、エクセルは難しゅうおす、パワーポイント、ビジオはお手上げでちゅう顔してはるな。 とても日本を代表するようなギジュツを持っとるように思えんけどな。 あれっ、オッサンがいますがな。 あんなとこで立ってオートを待ってまんがな。 ちょっと行ってからかってこ。オッサン、オッサン。今日もスーパーで買い物でっか。 今日は何を買いはったんでっか?ラーメン? 何ですのそれ。メンやて。オンはどうしはりました? シャレかそれはってですか? そうです。シャレです。(いちいちシャレか、そうやないか言わなアカンのかいな。) そんで、ラーメンがどないしはりましたん? えっ、日本から持って来たインスタント・ラーメンが切れたんで、買いに来たってですか? それでありましたんかいな? あったけど、日本で食べとったモンはなかってですか、ニッシンのベジとノンベジがあったのでそれを買ったんですって。 そのほかにも韓国のラーメンやうどん、タイや中国のメン類があったってですか? あんさんな、どんなラーメンが好きなんですか。 ミソ・ラーメン、ショウユ・ラーメンにモヤシ・ラーメンですって。 それって材料は何ですの? 全部大豆やて、そうしたらラーメンの三味一体でんな。 えっ、他にもマーボー・トーフ・ラーメンが好きやってですか。 そして、それも大豆が原料やってですか? そしたらラーメンの四味一体ですわな。 (なんか、落語のオチみたいやな、まんじゅうこわいみたいやわ。 けどもやな、何でインドにラーメンがないんやろか? こんなけ、小麦もお米も取れる国やのに。なぜかラーメンでは中国に負けまんがな。 うどんでは日本に負けまんがな。スパゲッティではあのイタリアに負けまんがな、 まあ、ええわ、我輩は時間あるよってにゆっくりと考えたろ。) 丹羽慎吾

新加坡回想録(41)言葉のセンス

タレントのタモリがテレビ界にデビューしたころ、持ち芸の一つに四ヶ国語麻雀というのがあった。私はこの芸がとても好きで、マネをしたいと思ったことがある。中でも、中国語の発音、アクセントは絶妙で恐れ入りましたというしかない程見事な芸であった。タモリは言葉のセンスがあるのだ。 一見、無茶苦茶を言っているようだが、実はタモリはある法則に気づいているのだ思う。最もわかりやすい例を言うと、「高」や「考」など音読みで「こう」と発音する言葉は、「カオ」と発音していることだが、実際でもそうなのだ。本人に確かめたわけではないが、このことがわかっていてそうしていることは間違いなく、特徴をよくとらえている。そして、いわゆる「四声」に気をつかっていることもホンモノに聞こえる最大の理由であろう。 中国語と初めて接したのは、ラジオだったと思うが、確かな記憶はない。そして、どこかで聞いたとしても英語ほど興味を惹かれることはなかった。ただ、国語で習ったひらがなのない漢字ばかりの詩~漢文には興味を覚えたことは確かで、日本語にない面白さを感じた。特に音読みした時の発音で韻を踏んでいるところなどは英語の詩と同様に興味深く思った。 学生時代はぼやっとした興味しかなく、中国語に対して具体的に行動をとることはなかった。しかし、会社で輸入業務を担当し、東南アジアに出張したときに、現地の言葉がわかれば面白いのにと残念に思ったことがある。それは、東マレーシア(ボルネオ)でサゴ澱粉の買い付けをしに行ったときのことだ。 訪れた現地では、中国福建省から移民した人たちが経済圏を形成していた。ことばも中国語(福建語)が主体だ。こちらとの交渉の時は英語で話すが、現地での仕入値については福建語で話すので「いくら」と言っているのかが全くわからない。この時、この会話の内容がわかったら面白いことになるのになあと思った。 この出張時のはがゆさがきっかけで一瞬中国語をやってみようかとは思ったが、ただそれだけで本格的に学ぼうというところまではいかなかった。中国語といっても数え切れないほど方言があり福建語だけしゃべれても大した役には立たない。中国語学習者は自然と標準語である北京語(普通語)を学ぶことになる。各地方の方言をしゃべる人たちも、今は北京語を理解できるのは、日本の田舎にいっても東京言葉を理解するのと同じことだ。 その後、シンガポールに駐在が決まり、日本にいるときよりも現地人との接触の機会が増えることになる。ご存知の通り、シンガポール人の3/4は中国系の人たちである。そうなると、一緒に食事をする機会も増えたりしてより親しくなると少しくらいは現地の言葉をしゃべりたくなるものだ。価格交渉で丁々発止とやりあった後の食事会などでは気持ちもゆったりとして趣味など普段の生活の話も出るものだ。 赴任して間もなく、現地の日本人会に中国語講座があることを知った。毎週火曜日の夜、1時間半ほど北京語を教えてくれる。毎日忙しくはしていたが、週1回で夜なら何とか都合がつくだろうと参加することにした。講師は年配の女性で日本語はできず、英語での講義だったが熱心に教えてくれた。 3カ月ほどして慣れてくると発音がいいと褒めてくれて班長を任命された。これに気をよくして、というより義務感が先に立ってなるべく欠席しないように努めた。1年以上は続いたが、そのうち夜の付き合いも増えて欠席することも多くなり、とうとう諦めざるを得なくなった。結局は中途半端に終わったが、ほんの少しならしゃべれるようになった。あのクラスは今でもあるのだろうか。 (西 敏)

追憶のオランダ(58)奇妙な命名

「ミカド」「ゲイシャ」「ジャパンミックス」、これらはある同じ食べ物に付けられたブランド銘だが、一体どんな食べ物でしょう? 答えは、米で作った「おかき」「あられ」なのだ。おかき・あられの袋に何やら妙なデザインでミカド・ゲイシャなどという文字が躍っている。もちろん、アルファベットでそう書いてある。これは何という命名か!?これらの言葉でしか日本の商品であることが表現できないのか、もっとましな名前は思いつかなかったのか、日本人としては非常に淋しい気持ちになったものである。 でも、正真正銘の日本のおかき類は時たま手土産で日本からの来訪者が持参して頂くくらいで、この「ゲイシャ」を怪しげな華僑かコリアン経営の食材屋の店先で発見した時は、充分に胡散臭さを感じつつも、ついつい買ってしまったものだ。しかし、いざ食してみると原材料からして多少の品質の良し悪しはあるとは思うが、殆ど純正日本産おかきに飢えている日本人としては大した問題もなく食べられた。というより、久しぶりに口にしたこともあり、悔しいけどうまかったと言わざるを得ない。日本品と比べても極端にひどいということだけはなかったように記憶している。 しかし、である。名前だけはもっと日本らしい洗練されたものにできないものか。これは、私が日本人だから言えることで、おそらく生産者はオランダ人とか日本人以外の他の国の人々を対象にしているはずなので、「ゲイシャ」の方が日本の食べ物としてよほど通りがいいのだろうと、一部納得してしまった。 食べ物の名前については、もう一つおやっと考えさせられたものがある。それは果物の「ミカン」である。オランダは果物だけでなく野菜なども温暖な外国産のものが随分売られている。ある時、青空市場の果物屋の店先にオレンジやらあまり見慣れぬ外国産の果物が並んでいる中に、少し小ぶりだが温州ミカンによく似たものが並んでいるのを見つけた。懐かしくて手に取ってみると、確かに我々が今まで食べていたような温州ミカンのようだ。そのミカンにはまたご丁寧にいちいち小さな赤い楕円形のラベルが貼ってあり、そのラベルにはSATSUMAと書かれているではないか。そのSATSUMAは薩摩以外に考えられなかったが、なぜ温州ミカンがSATSUMAなのか?そんなことが頭の中をよぎっていたが、その時は店先で試食させてもらい、これはミカンだと確認して、まず「Een kilo(1キロ)」と言って買って帰って食べた。 SATSUMAという命名の疑問については、その後もいろいろ考えた。おそらく幕末には温州ミカンの産地である紀州藩よりも薩摩藩の方が英国との関係が深くミカンの欧州向け輸出に力を入れていたのではないか、その名残で温州ミカン= SATSUMAとなったのではないかなどと勝手な想像をしながら、それ以降も見つけるたびに買っていたことが懐かしく思い出される。でも、私が買ったものは、少なくとも日本からの輸入品ではない。どこか地中海沿岸かどこか暖かい欧州に近い土地で栽培されたものではなかろうか。幕末のSATSUMAの味を知ったものが苗木を日本から移植して栽培されているものではなかろうかと想像はさらに膨らむ。

十男60歳 兄ちゃんが死んだ

四男の兄が亡くなった。兄弟が多ければ自ずと葬儀も多いと思われるだろうが、一番下の十男のボクには悲しみは“ひと10倍”だ。 目を覚ますと枕元に真新しい野球のグローブがある。ボクは風邪で小学校を休んでいた午後。「兄さんからだよ」と母が言う。隣県の紡績工場に勤める四男の兄は帰郷するたびにボクに土産を持参した。「リア王」「メロス」などちょっと難しい本もあったが、この日は野球のグローブだ。 「これは本革じゃね(だね)ー!」。飛び上がった。グリースもついている。それまではビニール製のグローブで、ボールを受けると手が痛く、捕りにくかった。本革グローブを持っている仲間はいなかった。高熱が下がる感じがした。翌日の田んぼでの〝三角ベース〟で新グローブのボクが主役、鼻高々だった。兄は結婚後も、自分の子供が生まれても、転勤してもお土産は欠かさなかった。 そんな兄が帰郷の際「どうせオレは〝口減らし〟されたのだ」と杯を交わす父に愚痴った。四男で家業の農業を手伝っていたが、二男が家を継ぐことになり父の計らいで紡績工場に就職した。だが兄は「俺は外に放り出された」が口癖だった。高度成長を前にした日本の昭和三十年代のことだから、どの家の事情も似たようなものだったろうが……。コツコツ貯めたカネで末弟のボクが喜ぶものを買い、一方で親に自分の境遇を愚痴る。家庭を持ってもそれは変わらなかった。 その兄がバイク自損事故で死んだ。定年後、趣味の野菜畑から帰宅中のこと、炎天下の夏作業で「疲れた。先に帰る」と一緒にいた義姉さんに言い残した直後だった。転倒した。73歳だった。 ボクは亡骸に「兄さん、まだグローブのお返しをしてないよ」と泣くと「おまえ、生意気言うんじゃないよ!」とボクにあの愚痴る顔で言っているようだった。大好きだったが兄の心の内は今も分からない。それから1か月後、今度は二男の兄が亡くなった。 ※写真は1955年(昭30)、四男の兄の就職先が決まりその出発前に撮ったもの(らしい)。 吉原和文

シンゴ旅日記ジャカルタ編(3)  インドネシアのお墓の巻

インドネシアのお墓の巻 (2017年8月記) ジャカルタから高速道路で東に向かうと日系商社各社が開発した工業団地群があります。 その中の一つの工業団地に隣接して大きな霊園が二つあります。 一つは中国人とキリスト教徒の霊園、もう一つはキリスト教徒とイスラム教徒の霊園です。 そして工業団地からは霊園の側に抜けるゲートがあり、いつもは閉まっているのですが、午後4時からはラッシュアワーを緩和するために解放されています。 ポチョン ある日、工業団地のお客様を訪問した後で、墓地に抜けるゲートを通って帰ろうとすると、そこには私設の通行税徴収者がお金を入れる缶を持ち、その側には白い布に身を包んだ人が立っていました。 私は運転手に聞きました。 私       : あの白い布を被った人は何ですか。 運転手 : ポチョンです。 私       : ポチョン? 運転手 : イスラム教では人が亡くなると、服を脱がされ、白い布で体をくるむのです。 頭の上の布を紐で結び、体と足は紐で縛ります。 私       : どうして裸なの? 運転手 : 人は生まれた時も裸で、死ぬ時も裸だからです。 私        : イスラム教もキリスト教と同じで、死んでもいつか神様が助けに来るんだよね、 運転手 : そうです。 私       : その時に、裸ではカッコ悪いんじゃないの。神様が服や靴を買ってくれるの? 運転手  : ..... その時はそんな会話をしただけでしたが、私はそれらの霊園に行って見たくなりました。 ある土曜日にその工業団地での客先との打合せが午前中で終わったので、私は運転手にこの前見た霊園の横を通ろうといいました。すると、運転手は霊園の中に入れますよというのです。それで霊園をゆっくりと見学することにしました。まずは中国人とキリスト教徒の霊園です。 私       : 昔の中国の葬式ではお金をお墓に埋めたりしたんだよ。 運転手 : そうです、だから昔は中国人のお墓がお金目当てで荒らされたことがあります。 イスラム教では死人は頭を北に、足を南に向けて置く姿勢をとります。 そして、右の頬を地面に付けるのです。 私        : 頬を地面って、棺桶に入れるんじゃないの? 運転手 : イスラムでは棺桶はありません。 私        : 頭が北で右頬を地面に付けるってことは、西を向くってことだね。 それはメッカの方角だからなの? 運転手  : そうです。イスラム教の中心はメッカなのです。 私        : じゃあ、メッカの西にあるアフリカの人は左頬を地面に付けることになるね。 運転手 : (自身なさげに)そうです。 私        : じゃあ、ロシアのイスラム教徒はどうするの?頭は西の方角それとも東の方角? 運転手 :.... 私たちは車を降りて広場のような墓地を歩きました。私はスマホを取り出してコンパスのアプリで方角を確認すると、確かにイスラム教のお墓は長手方向が南北になっていました。 私        : あれっ、この人は1985年に亡くなったと書いてあるよ。 でも、その頃に、ここの墓地はなかったんじゃない。 運転手  : 昔は人が死ぬと家の近くに埋めました。引っ越しするときはそこを掘り起こして土を持っ て新しい土地に行って埋めました。きっと、これもそうしたのでしょう。 私        :でも、死んだ人を棺桶に入れないで土に埋めると、息苦しいよね。 運転手 :(私の冗談を無視して)イスラム教はそのまま土をかぶせますから、お墓が低いのです。 私        : ヘェー、 運転手 : 見てください、イスラム教のお墓が同じ向きに並んでいるでしょう。 あちらのキリスト教のお墓は向きがバラバラです。 私        : なるほと。 運転手 : あっ、この人は大金持ちのひとです。 私        : なぜわかるの。 運転手 : この人の家族の名前が有名なお金持ちの一族だからです。 私は彼からこのほかにイスラム教では亡くなると一週間は家族がみそぎをすること、40日間はお祈りしたりすること、イスラム教でも死ねばそれきりと言った宗派があることを聞いたりしました。 また、お墓に花を蒔いてその花が萎れるまではなんとかであると聞いたのですが、忘れました。 2.中国式のお墓 華僑のお墓は中国式とキリスト教式の二種類があります。中国式の墓碑は中国語だけでなく、英語、インドネシア語で書いてあったり、ミックスして書いてあるものがあります。 どの墓石にも漢字で「金玉満堂」の表現がありました。 その意味が分からなかったのでアパートに帰ってから調べると「きんぎょくまんどう」と読み、「財産が蔵にたくさん集まるように」という願い事でした。 ちなみに、中国人のお店でよく見る逆さの「福」の字は、中国語で「福倒了」(福が逆さ)と言い、その発音が「福到了」(福来たる)と同じとなり、これまた「福が来ますように」というシャレになっているそうです。 他にも「母徳如山重」、「親恩以海深」、「子孫前世澤」「孫可継家聲」とか感謝の言葉や願い事がたくさん書いてありました。 また、日本のお墓でも夫婦が同じ墓石に名前を入れる場合、亡くなっていない方は朱色としますが、それと同じものもありました。 華僑のキリスト教式墓地では、聖書の一説が漢字とインドネシア語書いてある石碑が多くありました。イスラム教の墓石は生年月日と没年月日そして出身地と亡くなった土地だけでしたが、華僑の墓石にはそのほかに子や、孫、外孫まで掘ってあるものもありました。 余談: 寝仏 お釈迦様が涅槃に入る時の姿を仏像にしたものが寝仏像です。 その眠る姿勢は右胸を下にするでしょうか、左胸を下にするのでしょうか? 私の知っているタイの寝仏はほとんどが右胸を下にしていました。 ですから、お釈迦様は心臓が悪かったので左胸を上にして、血液を体に回りやすくしているのだと私は皆に冗談で説明していました。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(80)我輩は牛でんねん 円高ドル安の巻

我輩は牛でんねん 円高ドル安の巻 (2010年9月記) いつもやったら、この時間にあのギフのおっさんがここら辺を通るンやけど、今日は見かけんなあー。 あのおっさん、休みの日に一人でカメラ下げてブラプラしてはるけど、大丈夫なんやろか? うちでヨメさんが待ってるんとちがうんやろか? でも、いつもリュック背負っ取るか、買い物袋下げとるから、きっとヨメさんにちょっとスーパー行ってコオーて来てチョウダイって、優しくコキ使われてれてるんのやろな。 でも、あのおっさんな、ギフのヒトやからあんまりパッとせんな。 言葉も顔もはっきりせんし、カンサイ弁とナゴヤ弁の混じった日本語を話しとるし、日本語の基本が出来ておらんとちゃうかなあ? オトンが言っとったでギフ出身のな、芸能人は昔からあんまりおらんて。 あの若いノグチ・ゴローくらいやないかって? もう、若くないのかなあ。 でもデビュー曲は『博多みれん』らしいなあ。 いつから東京の私鉄の駅の改札口で待っとるようになったんやろ。 落語家でもギフ出身のヒトの名前聞いたことないって言うとったわ。 エンラクの跡継ぎを争ったエンジョーはナゴヤ出身やてな。 なんでギフ出身の有名なヒトおらへんのやろ? ギフの言葉が邪魔するのやろか?   あれっ、噂をすれば何とかや、オッサン、歩いとるがな。 いつものガニマタで、こっちに来たがな。 おーい、ギフのオッサン、ここやで、我輩や。オッサン。 えっ、あんまり、オッサン、オッサンと呼ぶなって、恥ずかしいやないかってですか? そんで、大声出して他のヒトに怪しまれないかってですか? 大丈夫でんがな、テレパシーでんがな、誰も気付づかへんで。 ただ我輩がな、あんさんの近くで口をモグモグ動かしとるくらいにか見えませんで。 あんさん、今日もたくさん買い物袋をブラ下げて、どないしたんでっか。 えっ、この先のスーパーで一週間分の買い物したんですってか、ホ~ン。 あんさんとこ、メイドさん、おらんのかいな。 ヨメさんからアナタ、たくさんコオーて来てチョウダイって優しく言われてまんのか? えっ、タンシン・フニンやって。 ブフッ、そりゃ、あんさん、タンシンではニンシンできませんやろ。 違うって?一人で住んどることをタンシン・フニンて言うんでっか。 ヘェー、きょうび、そんな言葉があるんやな。 知らんかったわ、覚えてこ。 今日は何や、エロー、浮かん顔してはりまんな、どないしましたんや。 えっ、エンダカで困っとるってですか? 自動車レースですか?あのアフリカの?それはパリダカやってですか? じゃあ、何でんねん、聞いてもエンダカ? えっ、冗談を言うなってですか。 そんで、85を切ったってでっか、よろしいおすがな、85切ったんでしゃろ。 体重ですか?ウエストですか、それともゴルフでっか? えっ、タワケってですか?なんです?そのタワケって。 田舎の言葉でアホちゅうことやってですか? へぇー、おもろい言葉でんな。 そんで、85を切ったエンダガがどうしていけませんのや? えっ、日本から輸出する設備が高うなって、売れへんようになるからやってですっか? 何ででっか、設備は設備やないですか? 日本とアメリカは、お金の種類が違うからやってですか。 そんで昔は一ドルが360円やったのに今は80円やってですか。 あんさん、ちょっと待っておくんなはれや。 そんなアホな、そうやったら安うなっとるやないですか? 360円から80円ですやろ。 お金を使わん我輩でも分かりまっせ。 あれっ、また、タワケって言いましたな?(もう、訳のわからん言葉は止めて欲しいわ、タワケ、タワケって我輩はワケノキヨマロか? (誰やねん、このキヨマロってヒト?自分で言っといて誰のことやわからへんわ。) 何ですか? 1ドルが360円から80円に安うなったということは、逆に円が高くなったということやってですか?ほんならドル安と言うのとちゃいまっか? そうとも言うってですか。 なんかもったいつけはるな、あんさん。 そんなら一ドルが何ぼや言うて、ドル相場やーって言うべきやないですか? オトンが言ってましたで、米相場ちゅうんはお米がいくらや、小豆相場ちゅうのは小豆がいくらやって言うもんやったって。 1ドルが85円やってゆうなら、そりゃドル相場ちゅうもんですがな。 円相場って言うんでしたら1円が0,012ドルと、アカン、これやとあんまりコンマイんで、100円が1ドル20セントとか言うべきでっせ。 えっ、そんなにオレを責めるなって、日本では新聞、テレビでは円相場と言うたら一ドルがなんぼやって言うとるてですか。おかしな国ですねえ。 なんでエンダカになるんでっか、アメリカと中国のせいやってですか? アメリカのファンドが円を買っとるんでっか、中国がようけある外貨をドルから円に換えとるんですか? 何ですか?そのファンタちゅうの、ジュースちゃいまんのか? ド・タワケってですか?何ですノン、そのド・タワケって? えっ、関西でいうとド・アホちゅう意味ですって。 あーびっくりした。フランス語かと思ったわ。 そんで、ファンドちゅうもんは、お金持ちから、お金を集めてバクチ打つヒトたち、やってですか? 悪いヒトでんな、まるでヤクザでんがな。同じようなモンやてですか、ホ~ン。 そんでファンドが今一番安全なのは円やからドルを売って円を買っておるんですってか? お金でお金が買えるんでっか、お金で買うのはモノとちがいまんのか? あんさん、またド・タワケっていわはりましたな。 かなわんなー、あんさんの田舎の言葉でタワケ、ド・タワケって言われると、我輩にはホンマもんのアホのように聞こえまんのや。 お前はサカタやって言われてるような気がしますんや。 分かりまっか、このシャレ?知っとるけど、笑えんてですか? そうやそうや、カントーの仲間はな、反対のことを言ってましたわ、アホって言われると本当のバカ呼ばわりされてるみたいで、気ィ悪るーするて。 あのな、でもな、カンサイ生まれにとってはな、アホちゅう言葉はな、半分褒め言葉なんやて。 ワテもアホやけど、あんさんもアホやなーちゅう思いやりちゅうか、愛情が入ってまんのやで。 タワケって言われるとな、愛情ゼロ、憎しみ100ちゅうもんでんがな。 えっ、わかったから、話を戻せってですか? モー、どこまで話したか忘れてしモーたわ。エーと、モーどうでもエエわ、 そやけど、なんで中国が円を買うんでっか? えっ、買うのは円やないって、日本の国債を買っとるんやってですか? どうしてでっか? 中国はぎょうさん持っとるドルを使こうて、中国の元が高くなっとるんで、競争力を取り戻すために円をこうて円高にするんやってですか? ホ~ン。ようわかりませんわ、そやけどな、アメリカと中国が円を買うっちゅうことは、円に魅力がありまんのやろな。 日本ってそんなに景気がエエんでっか、金利が高いんでっか? えっ、景気はさっぱりワヤ、金利は無いも同然ですってか? そんでも、アメリカも中国も円を買わはるんですか? えっ『トーキ』ですって、それって、セラミックでっか?セトでっか?イマリでっか?マイセンでっか? ちがう『スペキュレーション』やってですか? よう、わかりませんなあ、おかしいんとちゃいまっかコーラの考えは。(これ、ファンタをコーラゆうて外したけど、おっさんの反応があらへんな、よっぽど、エンダカで困っとんやな、よっしゃ、励ましたろ) そんでも、エンダカやったらエエんとちゃいまっか、あんさんのお給金が増えるんやないですか? えっ、何でっか、給料はルピーでもらっとるんで、エンダカは損やてですか?(あかん、おっさん、もっと沈んでしもた。) えっ、おもろないから、話題を変えるってですか? おかしいといえば、NHKの海外放送の『海外安全情報』ちゅう外務省の番組がおかしいってですか?あんさん、急にコロッと話題が変わりますなあ。 忍者ですか?歌舞伎ですか?ミカワ・ケンイチですか?(あれっ、これって前にも言うたような気がするな。 おっさんが気付かん内にごまかそっと。)あんさん、ついてけませんで、我輩は。 何ですかNHKとかの番組は? バンコクにおるとき見とったテレビのミニ番組やけど、その内容は、どこどこで暴動があったんで行ったらアブナイとか、どこどこで病気が流行っているからアブナイいんで気をつけて下さいとか、どこどこの町は渡航者へのひったくりが多いんでアブナイから気を付けて下さいという世界アブナイ情報をやってるんですってか? そんで、そんなら『海外危険情報』に名前を変えろってですか? そりゃそうですわな。 我輩もな、おかしいゆうたらな。知ってまっか、インドもケイタイがよーけ増えてきましてな。 えっ、我輩の話が急に飛んでるってですか? そうかなあ。そうは思わんけどね。 そんでね、インドはケイタイが多いでっしゃろ。 歩いてるヒトも、チャイを飲んでるヒトも、車を運転してるヒトも、見てみなはれ、ラクダに乗ったヒトまでケイタイしてまんがな。 […]

新加坡回想録(40) マレー語とインドネシア語

インドネシア語とマレー語とはほとんど同じだとよく言われるが、はたしてどうのだろうか? マレー語とインドネシア語は同じそれとも違う? マレー語とインドネシア語は、共に7世紀にマレー半島やスマトラ島の東海岸で話されていたマレー語(Bahasa Melayu)が起源の言葉である。現在はインドネシア、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、タイ南部、フィリピン南部などで話されており、インドネシアではインドネシア語、マレーシアではマレー語(マレーシア語)と呼ばれている。 もともと同じ言語なので、インドネシア語とマレー語でコミュニケーションは可能だが、単語のスペルや意味が微妙に違ったり、全く別の意味や単語になることもあるので注意が必要だ。実際にインドネシア人とマレーシア人が話をしてお互いに誤解することもあると聞く。 マレー語の文字については、イギリス植民地時代にそれまでマラッカ王朝が採用していたジャウイ文字が現在のアルファベットに置き換えられ、マレーシア独立の際に正式に採択された。もしも、ジャウイ文字による綴りが採択されていたら日本人には簡単に読めないマレー語になっていたかもしれない。 インドネシア語とマレー語はよく似ているが、全く同じというわけではない。 1.意味は同じでも、スペルや発音の多少違う単語 日本語 インドネシア語 マレー語 8 delapan ドゥラパン lapan ラパン 警察官 polisi ポリシ polis ポリス バス bus ブス bas バス タクシー taksi タクシ teksi テクシ 駅 stasiun スタシウン stesen ステセン 菓子 kue クエ kuih クイ 麺 mie ミ mi ミ 2.スペルが同じでも、意味の違う単語 インドネシア語やマレー語の意味を知らずに次の単語を使うと、話が食い違ってしまいます。 インドネシア語・マレー語 インドネシア語の意味 マレー語の意味 pejabat プジャバッ 公務員 事務所 kakitangan カキタンガン 部下・手下 会社員 ibu イブ あなた(目上の女性)・母親 母親 kereta クレタ 列車 車 (西 敏)