シンゴ旅日記インド編(75)インドの南北関係の巻 

私が住んでいた愛知県はその昔に『尾張』と『三河』に分かれていました。 名古屋のある『尾張』は商人の国、岡崎がある『三河』は農民の国です。 三河の人は尾張の人をずる賢い嘘つき、金の亡者と思っていました。 それが岡崎の味噌小屋に忍び込んだ秀吉の物語の現れていると司馬遼太郎が『街道を行く』に書いていたと記憶しています。 秀吉は店の人に見つかり、井戸に落ちたと見せかけて石を投げ込んで逃げました。 その味噌屋さんは今でもあり、その井戸も残っています。 そして矢作川を渡る国道一号線の橋の尾張側に秀吉と蜂須賀小六の石像が建っています。 戦国三英傑の信長、秀吉は尾張の人で、次の家康は三河の人です。 前者は2代と続かず、後者は15代続きました。 楽市楽座を行った尾張武士と鳴くまで待った三河武士の違いでしょうか? そして言葉も尾張弁と三河弁では違うのです。すみません、前置きが長くなりました。   インドでも『北の人』は『南の人』に嫌われているようです。 北の人はずる賢い商人、嘘つきのように見られています。人種が違うのでしょうね。 インドは昔アーリア人が北西からやって来て領土を広げて行きました。 金属鋳造をもった遊牧民であるアーリア人が先住民であり農業国であったムンダ人やドラビタ人を征服して行ったのです。 そして先住民は南へ、南へと追われるように逃げていったのです。 ですから今の南インドの人たちにとって北インドの人は坂上田村麻呂、織田信長のような存在なのではないでしょうか。 インドの公用語のヒンディー語は北インドの言葉です。 インドでは州毎にそれぞれの地方語を話します。 なぜならインドは独立後の1956年に州を言語別に再編したからです。 そして、その時にムンバイとパンジャブは2言語の州でしたので、その後にムンバイはマラティー語のマハラシュトラ州とグジャラティ語のグジャラート州に別れ、パンジャブはパンジャピ語のパンジャブ州とヒンディー語のハリヤナ州に分かれました。 現在インドには28州がありますが、言語はヒンディー語が公用語で、英語が補助公用語です。これらを含めて18の主要言語と800以上の方言があると言われています。 そして南インドにはヒンディー語を話せない人がいると言います。 ヒンディー語を教えない学校もあるそうです。 インドの識字率は65%と言われますが、これは地方語を含めての数字です。 英語もヒンディー語も自分の州の言葉も話せる識字率は何%でしょうか? 英語を話し、書ける人は10%に満たないのでは無いでしょうか? うちのスタッフはマハラシュトラ州生まれです。 この前チェンナイに一緒に出張しタクシーに乗ったら、運転手が何を言っているのか分らないとブツブツ言っていました。 彼もチェンナイには13年前に一度来たことがあるだけなのです。 チェンナイはタミール・ナドゥ州です。タミール語なのです。 南インドにはドラビタ系の4言語があります。 タミール、カンダナ、テルグーそしてマラヤラムです。 それぞれ文字が違うのです。 チェンナイ空港のフライト掲示板には3つの文字で表示されます。 英語、ヒンディー文字、タミール文字です。 右の写真はバンガロール空港での水を飲む場所の表示です。 英語、カンダナ字、そしてヒンズー文字表示です。 インド人で営業をする人は5言語は話す必要があると言われます。 英語にヒンズー語、自分の州の言語と南インド、東インドの代表的な州の言葉です。 日本が明治に入ってまず行ったことは言葉の統一でした。 軍隊で命令が方言で指示したりしていては統率が取れないからです。 インドの言語事情、南北問題がこれからの国の発展の妨げにならなければいいのですが。 丹羽慎吾

新加坡回想録(35)イーストコースト・フードセンター

さすがシンガポールは港町だけあってどこでシーフードを食べてもおいしいが、イーストコースト・シーフードセンターにはぜひ立ち寄ってほしい。日本ではなかなか手が出ないアワビ、エビ、カニなどの高級魚介類をふんだんに食べても安いのが特徴。爽やかな潮風に吹かれながら生きのいい海鮮料理に舌鼓を打つ、これぞシンガポール美味求真の醍醐味である。 地元の常連客が多いせいかメニューがなかったりあっても値段が書かれていなかったりするが、腹いっぱい飲んで食べてもお一人様20~30シンガポールドル(約1300~2000円)という安さだ。 オーチャードロードからタクシーで飛ばして約30分でも行く価値がある。 現在8件のシーフードレストランが営業しており、どの店も日本の海の家、かつてはそれぞれが東部一帯の漁村に点在する小さな食堂であった。それらがモダンな建物に一同に集められたのはリークアンユー首相が推進する「クリーン大作戦」の一環であった。 場所は空港に続くイーストコースト・パークウェイから少し入ったところにある。週末は混むので予約して行った方がよい。(上記は、1987年当時の事情なので最近の状況をご存知の方は教えていただきたい。) (西 敏)

追憶のオランダ(52)近代建築の実験場

以前に「市庁舎はなぜ無傷で残った」でも少し触れましたが、ロッテルダムの街は他のヨーロッパの国々の歴史ある街に比べ少し変わったところがあるのです。この街は第二次世界大戦開始早々にドイツ軍の空襲により壊滅的な被害をこうむり、何カ所かの建物を除き瓦礫の山となりました。このような街はオランダ以外にも他に幾つもありますが、戦後他の街の多くは破壊された戦前の建物(歴史的に価値のある建物も多かった)を市民ができるだけ忠実に細部に至るまで復元することに情熱を注ぎ、実際瓦礫を拾い集め組み立て直したように元通りの街並みを再現しているのです。それは「復元・復旧」への情熱というよりも執念でしょう。その一つが有名なポーランドのワルシャワの旧市街です。 そのような例があるかと思えば、一方ではロッテルダムの市民はそれとはまったく異なった考え方をしていたのです。彼らが以前住んでいた旧市街の建物に未練がないわけではなかったのでしょうが、むしろそれより更地になってしまった以上は、昔にはこだわらず、思い切って全く新しい建物をどんどん建てて「復興」しようとしたのです。「復元・復旧」とは違い、「復興」なのです。古い様式にはこだわらず、新感覚の近代的なビルを建て始めたのです。その結果、数十年が経ちオランダ第二の都市ロッテルダムは実に奇抜な(あるものは奇抜過ぎるところもある)建物がたくさんたっているのです。ある意味では、新しい建築の実験場のような感じさえするのです。 この写真は、ロッテルダム中心部のBlaak(ブラーク)という広場で毎週青空市場が開かれる所ですが、右端に見えるサイコロのような建物(しかもそのサイコロが角で立っている)通称キュービックハウス、また写真中央の鉛筆のような形の建物、通称ペンシルハウス。いずれも普通?のアパートなのです。そして、写真左に見える白い建物にはまるで工場のように黄色い太いパイプがめぐらされています。これはなんと市の図書館なのですが、外観を見ただけではとても図書館には見えません。実は、筆者もしばらくここが図書館だとは気づきませんでした。かと思えば、折角きれいに四角に造った高いビルを袈裟懸けに斬ってずれた様な感じにしてしまったビルもあり、実にユニークな建物のオンパレードです。 筆者がロッテルダムを離れてから随分なりますので、今どんな新しい建物が建てられているか想像もつきません。以前にも増してユニークな建物に面食らうか、場合によっては呆れてしまう可能性が大であります。これぞ、ロッテルダマー!オランダ気質の真骨頂。要は、何でもあり、なのです。  

シンゴ旅日記インド編(74)我輩は牛でんねんの巻初めまして(下)

話それましたな、インドと日本の関係でんがな。 戦争が終わってな、最初のインドの首相になりったネルーさんが日本に象さんを贈ったんですわ。 なんで我輩らを贈らへんかったんやろな。 1949年でっせ。あんさんまだ生まれてませんか、その頃? 日本がサンフランシスコ条約で独り立ちする3年前でっせ。 その象さんの名前知ってますか。インデラちゅうんですわ。 ネルーさんの娘さんの名前ですわ。その娘さんね、後でガンジーって苗字になるんですわ。なぜか知ってはりますか? ガンジーさんの隠し子ちがいまっせ。不謹慎やな我輩の発言。 まあ、その訳はちょっとややこしいんで省略しますわ。 そのインデラ・ガンジーさんはお父さんのネルーさんの後をついでインドの首相になりはるんですよ。 でもな、ガンジーさんもインデラさんも暗殺されてしまいよるんですわ。 この辺もまたややこしいさかい省略しますわ。 そんでな、インドと日本が仲が良かったんわその頃までですのや。 その後は日本はアメリカの仲間になって、お金儲けにまっしぐらになったり、 インドがアメリカの敵さんのソ連の仲間になってしもて、社会主義にはまって、貧しさをみんなで分け合ったりして。そんで中国に追いつけちゅうて核実験したりしたんですわ。 そんでもって日本との仲がさらに離れていったんですわ。あんさん、聞いとります か?あんまり、歴史に興味がないんでっか? 道端で寝てるヒトの方に興味があるんでっか。 寝てるヒトは撮らんといてね。それはジンギちゅうもんでしゃろ。 えっ、どうしても撮りたい。しょうがおませんな。 そんならあの角で座ってひげ剃ってるちゅうのはどうでっか。 あれっ、もうカメラ向けてまんな。一回5ルピーですねんよ、あんさん剃ってもらったらどないです。いつ床屋さんに行ったんでっか? えっ、この屋台の軒にぶら下がっているのは何ですかって? あんさん、変なとこばっか見て、変なもんばっか気が付かはるね。 これはね『7  チリー  1ライム』って言いまんねん。 悪霊払いちゅうか、ドラキュラとニンニクの関係ちゅうか、まあいろんなところにぶら下げるんですわ。 車にも付いてますやろ。毎週土曜日に道端で売ってますんや。 日本でも年の初めに車にライムの代わりにミカン付けて走るそうですな。 それってインドから来た風習ちゃいまっか?それと似たようなもんちゃいまっか。 そういえば日本では2月か3月に小さいお魚の頭だけつけて玄関に飾る祭りがあるそうですな? 豆をまくんですって、もったいないですな。 畑にまかんと家の中や、庭に放るんですって。悪魔が来んようにですって。 家のなかで芽えーでるんかいな? えっ、我輩の話を聞いとったらお腹が空いたんですってか? なんかファーストフードはないかってですか? ありまんがな、マックが。KFCが。どんなハンバーグ出しとるかってですか? そんなん、我輩がお店の近くまで連れて行って上げるさかい、あんさん、中に入って自分の目で見てみなはれ。 ここでんがな。えっ、マックにも、KFCにもベジとノンベジがあるのかってでっか? ありまっせ。窓の写真の看板をよーく見てみなはれ。 旗のマークの緑色がベジで、赤色がノン・ベジでっせ。 包む袋やポテトチックの入れもんや、コークちゅうんですかあの黒ろーて匂いのする水の入っている缶にもそのマークが付いるそうでっせ。 飲み物いうたらコーヒー頼むとき気を付けないかんらしいですわ。 この国ではBlackかwith  Milkははっきり言わんといかんのですわ。 言わんとミルクが入ってきますで。 また砂糖の袋が大きいようですなあ。日本では2gとは3gがあるようですな。 ここでは8gか10gでっせ。それも二袋付けてくれまっせ。 この前聞いた話では日本のヒトが二人でひとつの砂糖の袋を分け合って入れていたらしいですわ。 まだもったいないの精神が残ってるんですな。 えっ、ビーフバーガーはないのかって、あんさん、恐ろしいこと言い出しはりますな。そんなんあったら店を壊されまんがな。 ほんまでっせ、マックがインドにきたころに壊された店ありまんのやで、昔。 ノン・ベジゆうてもチキンかフィッシュでっせ。 マックで一番ごっついのんがマハラジャちゅうやつですわ。 けど、KFCさんはよろしいな。チキンだけやよってに。 あんさん、お店の中が見えまっか? ぎょうさん若い人が入っとりますやろ。街では並んで歩くとこあんまり見んカップルもおりますやろ。 きょうびの若いもんはこんなん食べてまんのや。あかんで、インド人にはインド人のファーストフードちゅうもんがあるやないか。何ですかって? ドーサやがな。こんな安すーて栄養のあるもんあるのにそれを差し置いてバーガーやて。バーカーじゃないの。あかん、ヨシモトが出てもた。 えっ、ヨシノヤはないのかって。何ですそれ? えっ、ギュウドン?それって我輩ら牛の肉でっか、ビーフでっか? えっ、マツヤの方が美味しいですってか? あんさん、何回言ったら分かってもらえるんやろ。ここはインドでっせ。ヒンズー教の国でっせ。牛の肉たべんヒトがようけおる国でっせ。ヨシノヤやマツヤみたいなもんがあったら、我輩ら道で寝てることできませんがな。 ヨシノヤさんにゆうといて、ここではちょっと商売できませんよって。 けどな、内緒やけどな、バンガロール産のビーフは美味いちゅう噂でっせ。 この街にもあるんやろか、そのバンガロールのもん食わせるところが。ちょっと 仲間に聞いときますわ。 あかん、マックやKFCの前へ来たら、我輩もお腹空いてもうたわ。 あんさん、もうええから、マックに入んなはれ。そんでもってお腹一杯になったら、写真撮るのもええけど、インドのこともっと勉強しなはれ。 そんじゃ、我輩も食事に行きますわ。 じゃ、今日はここで、サイナラしますよって。また今度、町で会うたら、一緒にお話しましょな。えっ、我輩が一方的にしゃべっとるだけやないかって。すんませんな、モウ。

シンゴ旅日記インド編(その73)我輩は牛でんねんの巻初めまして(上)

モーぅし、モーぅし、そこのおっさん、こっちゃや、こっちゃや。 なにキョロキョロしてまんねん。我輩ですがな。 目の前の牛ですがな。分りましたか。 えっ、なんで牛が言葉しゃべっとるってですか? ちゃいまんがな。テレバシーちゅうもんでんがな。 声出さんと我輩の頭からあんさんの頭へと直接話してまんのやで。 この能力な、一部の動物かヒトさんにしかできませんのや、神さんがくれたんですわ。 我輩の家系ちゅうか牛系がその能力もろうてまんのや。 神様から内緒にしときやー言われてまんねん。 そやからヒトさんには話かけたら本当はあかんのですわ。 せやよってに、このこと内緒にしといてね。 そんなん、我輩が言葉を話せるゆうことが分かったら『言葉をしゃべる牛』ゆうてテレビに出なあかんがな、綺麗な女優さんとドラマ共演しなあかんがな、写真集出さなあかんがな、DVD出さなあかんがな、我輩困っちゃうな、モウ。 でもな、そうしたら、あかんのですわ、神さんとの約束ですさかい。 よって、いつもどんなこと聞いても知らん顔してまっせ。 そやけどな、声掛けるときに口をモグモグって動かす必要があるんですわ。 このこと内緒にしといてね。ほんまに。 えっ、そんなら、何であんさんに声掛けてるのかって? すんまへん。日本のヒトとちゃうかなと思ったんで、知らんうちに声が、いやテレバシーが出てしモウたんですわ。 我輩ね、実はね、内緒にしといてね、日本のコーべの牛とのハーブでんのや。 ワギュウの血が入ってまんのや。 つまりオトンがワギュウで、オカンがインギュウでんねん。 なんでかちゅうとね。戦争前ですわ、戦争ゆうても中印戦争とか印パ戦争と違いまっせ、その前の第二次世界大戦でっせ。 そのころ日本とインドは仲が良かったんですわ。 そんなんで日本の食糧事情が良うないんちゅうんで、インドと日本の牛の交配をさせて、ちょびっとの草でぎょうさんの肉の取れる牛を作ろうちゅう内緒の計画があったんですわ。 インドの牛は粗食やさかいにね、これワギュウ+インギュウ=ワインギュウ計画て言いましたねん。 これも内緒の話しでっせ、誰にも話したらあきませんで、疑われまっせ、あんさん捕まりまっせ、憲兵に、特高に。あれっ、そんなもん、もうありませんてか? あんさん、そんな計画あったことを知りませんてか? まぁ、よろしいおますわ。戦争前のな、日本の食糧改善計画ちゅうわけですわ。 そんで日本のコーべや、マツサカや、センダイや、ヒダや、タジマやらいっぱい牛たちがここに連れて来られたんですわ。 でもね、その計画ね、日本が戦争に負けはったんで中途半端のまんま終わってしもうたんですわ。 インドもイギリスの植民地に戻ったり、お金がないさかい日本から連れてこられた牛や、生まれた我輩らをそのまんま、ほったらかしにしたんですわ。 そんで我輩ら子孫がインドに散らばっておるちゅうわけですわ。 我輩らは戦争孤児、いや戦争牛児でんな。 あれっ、年が判ってしまいがんがな。けど吾輩のオトンもまだ生きてまっせ。 あれっ、オトンいくつになったんやろナ、そう言えば日本が中国かロシアに勝った時に提灯行列がコーべの街を埋め尽くしたのをロッコーの山から子牛ながらに見たことあるて言うてましたで。 オトンな、最近は昔の日本は良かった、良かったでぼやきながら草食ってまんのや。 もう年なんやろね、 きっと。そんなんでオトンから日本のことを、オカンやジージ、バーバからインドのことを道端で一緒に食事しながらよーけ聞いて育ったさかい、いろんなこと知っとりますんや。 日本の戦争ゆうたらチャンドラ・ボーズさんですな。 えっ何教の坊さんやてか?坊さんとちゃいまんがな。 日本軍と一緒にイギリスと戦ったヒトですがな、あのインパール作戦ですがな。知りませんか、あの作戦? きょうびの日本のヒトは何も知りませんな。 でもあんさんくらいの年やと知ってると思うてましたがな。 へぇ、戦後生まれでっか?我輩より若いんですか? あんさん、見た目は老け取りまんのにな。放っといてくれってですか。 すんまへん。あんさんら、あの戦争のこと詳しく学校で習ったことないってですか? いつも歴史の時間では昭和の戦争になると時間がなくて駆け足で授業進んでいくってでっか? 先生たちが戦争のことあんまり教えてくれんかったったでっか? おかしな国でんな。 自分たちがしたことを、きっちりと子供たちに教えていかないかんのにね。 まぁ、ええですわ。あのね、日本が大東亜共栄圏やゆうてアジアのみなさんに声掛けて一緒にがんばろうって叫びはった頃にでんな、インドでもイギリスと戦って独立しようちゅうグループがあったんですわ。 日本で有名なガンジーさんね。このヒトのことは当然知ってはりますやろな? えっ、詳しくは知らんて?学校の図書館にありましたやろ、この人の伝記が。 まぁ、ええわこれも。ガンジーさんとボーズさんは同じ国民会議派ちゅう仲間でしたんや。けど二人は考え方が違うたんですわ。 ガンジーさんは暴力はあかん、我慢や、辛抱やゆうて独立をしようとしはったんですわ。 でもねボーズさんは、それではあかんて言いはってな、ドイツへ亡命したり、潜水艦で日本に運ばれはったり、シンガポールで日本の捕虜になったインドの兵隊さんとインド国民軍ちゅう軍隊つくって総司令官になりはって、そんでインパールに行かはったんですわ。 さしずめ日本の同志、戦友、盟友ちゅう訳でんな。 けどボーズさんな終戦の年に台湾上空で飛行機事故で死んでしもうたんですわ。 かわいそうにね。 その遺骨が東京に保存されてまんねん、そして多くのインドのヒトたちがそのお寺さんにお参りに行かはるんでっせ。 そやそや、あの戦争ではインドは連合国側やったから戦勝国でんがな。 でも知ってはりますか、インドは日本に賠償を求めへんかったんですよ。 インドネシや他の国はようけ貰いなはったな。 でもインドは要らんゆうて放棄したんですわ。 日本もそれに応えてな、お金ができてからお金貸してくれはったんですわ。 円借款言うんでっか?1958年くらいやったと思いますわ。早い時期ですわな。 そして2年後には皇太子さんが奥さん連れて来られましたんや。綺麗なヒトでしたな、ミチコさん。きっと日本のヒトたちがインドにありがとうって言いたかったんやね。 日本のヒトといえばミチコさんの旦那さんヒトという名前が付いてましたな。 あんさん、聞いとりまっか? 戦争についてもうちょっとしゃべってよろしいか? あの戦争の後に裁判あったん知ってはりまっか。インドのパール判事知ってはりますか?えっ、知らんてですか。ホーン。 戦争終わった後の東京裁判で裁判官の一人でしたんやが、あんまり長い判決書を書いたさかい、アメリカさんから読むこと許されず和訳も許されへんかったんですわ。 『A級戦犯』は全員無罪や、アメリカの原爆投下は国際法違反やって指摘しはったんですわ。 インドのヒトは日本が昔に中国やロシアと戦って勝ったことにごっつい共感と尊敬する気持ち持ってはったんですな。 あんさん、トルコなんか生まれた子供に『トーゴー』とか『ノギ』ちゅう名前を付けたらしいですよ。 そんで、東京裁判がおかしいって声出して言ったんはインドだけでっせ。 このパールさんの記念碑が日本の各地にが建てられているって知ってはりますか? 日本のヒトたちが尊敬しはったんですわ。 ソンノージョーイのお侍さんとおんなじ心持ちやゆうて京都の東山霊山にもあるんでっせ。 ところであんさん、最近ここらへんでよう見かけますな。いつも休みの日にカメラぶら下げてあっちゃ、こっちゃ写真を撮ってますやろ。生まれはどこでっか? ギフ県?そうでっか。あんさんの国では、久しぶりってのを『やっとかめ』ていいますやろ。『八百十日目』って書くんですって? おもろいことばですね。 じゃ、やっとかめでんな。 違うって?『やっとかめやなも』っていうんでっか?難しいでんな。 えっ、なんでそんなん知ってるかって? 先に言いましたやろ、ヒダのハーフ仲間がおりまんのや。 奴といつも話してまんねん、仲がようおまんねん。そやさかい、時々ギフ弁を教えてくれまんのや。 (下)につづく 丹羽慎吾  

新加坡回想録(34)水泳教室

私自身は海のそばで生まれ育ったこともあって泳ぎは小さい頃から何となくできた。特別に習うでもなく遊びの中で覚えたので、選手のようにきれいなクロールはできないが、海や川に落ちたときにしばらく立ち泳ぎで浮いていることは問題ない。 その点、都会で育った子は水につかるということを敢えてしないと泳げないということになりがちだ。夏休みに一家で親の実家に帰省して水泳を覚えるなら最高だが、だんだんとそういう機会が減ってくると「水泳教室」が流行ることになる。 現に、我が家の長女も有名な「〇〇スイミングスクール」に通った。おかげで平泳ぎだけでなくきれいなクロールまでできるようになった。次女が水泳を覚えたのは、丁度シンガポールに住んでいる時だった。日本のように〇〇スイミングスクールはなかったので、個人レッスンをうけることになった。幸いにして住んでいたフラット(マンション)に大きなプールがあったので、そこで習ったおかげで一応クロールまでできるようになった。 ところで、シンガポール・現地の子どもたちが習う特殊な訓練があることをご存知だろうか?それは、靴を履き服を着たまま水に飛び込んで泳ぐ訓練である。この時服はパジャマを着ることが多かった。つまり、普段、海や川に落ちたときに慌てず、水の中で靴を脱ぎ、服も脱いで泳ぐ方法を教えるのだ。考え方がじつに合理的なので私は大いに賛成である。 日本の子どもたちもこれに習って小学校でこれを習えばいいと思ったがそれはなかった。考え方の違いなのか何故なのか未だによく分からない。 (西 敏)  

追憶のオランダ(51)海を渡ったお雛様

いつもこの季節になると、否応なしに思い出されることがある。我が家のお雛様は海を渡ったんだと。 我ら夫婦は一男一女に恵まれた。私がオランダ転勤の時には、息子はその春ちょうど高校に入ったばかりであったこともあり私の両親に息子を預け日本に残して行くことになった。その引っ越しの時、女房は荷物の中に娘のためにお雛様も入れていた。そのお雛様というのは、岳父が孫娘のために贈ってくれたもので七段飾りの大きなもの。貰った当時は私たちはまだ公団の2DKの団地住まいで、そんな大きなものは飾る場所に困るだけといったのだが、店に勧められてついに買ってしまったらしい。多分、七段飾りというのはその頃の流行りだったらしい。案の定、2DKには大きすぎた。飾る時期には、とたんに我々家族の寝る場所がなくなってしまい、親子4人雑魚寝になった。この写真がそのお雛様である。 そんなお雛様、オランダにいる間だけは随分ゆっくりとされたことだろう。一部屋を完全に占領でき、青い眼の人たちに好奇と賞賛の眼差しで迎えられ、さぞ満足もされたことだろう。はて、何十人に見てもらっただろう?お雛様を初めて見るオランダ人にとっては、ほんとうにどのように映ったことか。一緒に何枚もの写真を撮って皆さんに差し上げた。最初に住んだ家の隣の三姉妹、2軒目の家の隣の小さな女の子をはじめとして、会社の同僚たちやら日頃親しくしていた友人たち家族の人たち、さらに近所のおじいさん、おばあさん・・・、要はこの時期に我家を訪れる人すべてにご披露させてもらった。そして、この近所のおじいさんは若い頃(前回の東京オリンピックの前後らしい)日本に来たことがあるというビジネスマンで、東京で大手企業H製作所の工場を訪問したことがあるという。聞くと、その場所というのは、まさに私が結婚して最初に住んだ足立区にある住宅公団の団地の場所なのだ。つまりH製作所が移転した跡地に住宅公団が大きな団地を作り、私たちがこのハイムに引っ越してくるまで10年以上住んでいたところなのだ。何か、因縁を感じることでもあった。その時、御夫婦は既にかなりの高齢であったので今はもうこの世にはおられないかもしれない。でも、お雛様を見て大感激してくれた二人の顔を懐かしく思い出す。 なお、オランダから帰ってもう20年を超えるが、その間ずっと我が家がこのお雛様の保管場所・飾り付けの場所になっている。また、今年もその季節になった。二人いる孫娘たちのために急いで部屋を片付けないと・・・。