追憶のオランダ(55)ほろ苦い初のイースターホリデー

オランダで家族とともに生活を始めた翌年の春、初めて経験するイースター(復活祭)の休みにギリシャへの家族旅行に行った。慣れぬこともあり、現地案内人付きの団体旅行を選んだ。それも日本人ばかりの20人ほどのグループで。 あちこちとギリシャの3日間を楽しんで帰りの日の日曜日。翌日からはまた仕事が待っているというやや重い気持ちで、その日の昼過ぎ発のアムステルダム行きの便に乗るべく空港へ行き、いざチェックインをしようとすると全員の席がオーバーブックのため全く確保されていないことが判明。当然のことながら、皆一斉に旅行会社の現地スタッフ(うら若き女性)に文句を言い出し、彼女はオタオタしながらも航空会社(KLM)の窓口で交渉を始めた。しかし、一向に埒が開かず、筆者も含め父親連中が揃ってチェックインカウンターでゴネることにした。おそらくは、この添乗員が帰りの便のリコンファームをし忘れたのではないかと思ったが、ともかくゴネ続けた。カウンターの係員は何度も電話で誰かとやりとりしていたが、その結果ブリュッセルで乗り継ぐ便で何席か確保できた。しかし、依然として6名分は席がない。しかもそのブリュッセル行きはアムステルダム行きの便より出発時刻が少し早く、もう出発が迫っており、どうするか決断を迫られた。そして、それぞれの家族が代表して誰が先にこの便に乗るかじゃんけんで決めた。勝ちぬけた家族は負けた2家族の6名にその場でサヨナラをして急いでゲートに向かってしまった。私たち2家族はじゃんけんに負けて残されてしまったのだ。 残されやりきれなかったが、さらに窓口で粘り続けざるを得なかった。もうこの際、「どこ経由でもいいから、モスクワ経由でもイスタンブール経由でもいいので席はないのか、何だこのサービスは。」とか言いたいことを言い続けたところ、これまた不思議、すぐに同じブリュッセル便でさらに3席追加で確保できたのだ。なんだ、6席ではないのかとガッカリしつつ、また、じゃんけんをし、憐れここでも私はまた負けてしまった。よくよく運がなかったのだ。しかし、娘も女房も、反対に喜んでいる様子。「もう一泊して遊んでいける、無理して急いで帰ることないよ、飛行機がないんだもの仕方ない。」と至って呑気なもの。私も一瞬そう思いかけたが、やはり翌日の仕事のことを気にせずにはいられない。 後の3人の家族ともすぐに別れて、今度は一人でカウンターに張り付くことになった。気の利いたセリフも言えないが、冗談らしきことも多少は言いながら、係員と話していた。初めてのイースターで楽しかったが、最後のこの瞬間の出来事ですべて台無しになったというようなことをまくしたてていた。すると、話していた係員が奥に入ってしまったので「これで万事休すか~~、さっき別れた連中はもうブリュッセル行きに搭乗した頃かな。」などと独り言を言いながら半ば諦め気分で待っていた。しかし、しばらくすると先程まではあまり愛想も良くなかった係員が満面の笑みで戻って来たではないか。そして私の名前を呼び言うことには、「お客様、(当初予定していた)アムステルダム行きの便で3席確保できました。すぐにゲートへお急ぎください。」と。何ということだ!一瞬わが耳を疑った。そして、娘はこれにはがっかりしていたようだが、ともかくゲートに急いだ。走りながら搭乗券を見ると3席はバラバラではなく、なんと横一列の続きの席なのだ。 そんなドタバタがあったが、オランダに帰りあとで聞いた話では、じゃんけんに勝って先にブリュッセル経由で出発したはずの他の人たちはアムステルダム行きの接続にかなりの時間があったため、結局家に帰り着いたのは最後までアテネに取り残さそうになった我家の方だったというオチまでついている。じゃんけんも、たまには負けてみるのもいいかな・・・。 この話には、さらにおまけの話がついているのだが、それはまた別の機会にお話しましょう。  

シンゴ旅日記インド編(77)我輩は牛でんねんの巻 郊外散歩

あんさん、あんさんってば、我輩でんがな。 今日はまた、えらい町外れに来てまんのやな、あんさんも。 そやそや、ヒダの仲間から聞きましたで、あんさんの田舎のギフでは男の人を呼ぶとき『アンヤ』って呼ぶんですって。 『兄貴』ちゅう意味ですってね。 これから『アンヤ、アンヤ』って呼びましょか? 恥ずかしいから、止めてくれってですか? ほんじゃ、いつも通りのあんさんで、ようおますな。 えっ、呼び方はええけど、我輩の話は政治や、経済が混じってて、おもろないってですか。 そうでっか。我輩はあんさんに『この国のかたち』を知ってもらおう思うて話とるんですわ。 なんせオトンの国から来たヒトやから、シンキンカンちゅうか、教えてあげなあかんちゅうDutyみたいなもん感じるんですわ。 そんなら今日は政治、経済抜きで話しますわ。 あっ、あんさん、この町外れにはな、昔のもんがいろいろ残っておりますやで。 ちょっと一緒に町まで歩きましょか? ええがな。一緒に歩くの嫌がらんといてなー。実はな、我輩な、今までこの近くの『草むらレストラン』でワイン・ハーフの会の仲間と一緒にフレッシュな草の食事してましたんや。 美味しおましたで。いろんな情報も交換してましたんや。 仲間はな、お腹一杯になったら、どっかへ行ってしもたんですわ。 我輩な置いてけぼりをくらいましたねん。 嫌われてまんのや、きっと我輩。 えっ、そんなに、いじけんなてですか。 おおきに、おおきに そんでな、我輩ね、この辺、久しぶりやから、一人いや一頭で、ぶらぶらしてましたんや。(自分でいうのもなんやけど、我輩って、立ち直り早いな。) そこであんさんを見つけたっていう訳でんがな。 まあ。いろんなお店がありますやろ。 まあ、見てみなはれ、屋台みたいに並んでるお店を、一番左がアイロン屋でっせ。 炭火のアイロンでんがな。 他の店では電気のアイロンを使っているとこもあるんでっせ、 そやけど、この炭火のんが一番ええんですわ。 蒸気が底板から出ませんけどね。 しっくり、いくんですわ。 シャツやズボンの伸びが電気モンと違いまっせ。 不便やないかって? インドでは停電がしょっちゅうあるさかいな、この方がかえって便利なんですわ。 それに省エネですもんね。 日本にも、ちょっと前まであったそうですな。 オトンが言ってましたわ。 えっ、知らんて。あんさん、見たことないって、へぇー、そうでっか。 でもな、これ見るとな、我輩な、仲間がな、オイドにな、ジューって番号を入れられるのを思い出すんですわ。 その隣はミシン屋ですわ。 この国ではミシンが一台あればそんで商売になるんですわ。 この店の主人は孫が遊びに来たんで仕事やめて話しを聞かせとったとこやろね。 このおじいさんイスラムやね。 イスラムの帽子を被って、ひげ生やしてはるもんね。 今は断食の月やさかい、昼間はチカラがでぇーへんのやろね、きっと。 9月の半ばが断食明けのイスラム正月やってね。 あのおじいさん、いやひょっとしたら、お父さんかもわからへんけと。どっちゃにしても、きっと家ではコーランを子供に教えてるはるのやろな。『アラー、アクバル、アラー』って。 アイロンとミシン見て思い出したわ、中国の『客家(はっか)』って種族を知ってはりまっか? あのヒトたちは『三刀』で身を立ててきたんやてね。 髪を切るハサミ、服作るハサミ、料理つくる包丁でっか。 その子孫にはシンガポールのリー・カン・ユーや台湾の李登輝や、フィリピンのアキノさんの祖先におるそうなね。 ヒトさんは、食っていくためには、なんでもええから手に職つけた方がええね。 他のお店が何を売ってはるか解りますか? あれ解りやすいですやろ。タイヤでんがな。パンク修理屋ですわ。 軒にタイヤ吊るしてはるからイチモク・リョウゼンですがな。 この辺のお店は遠くから見ただけでわかるように何でも商品を軒先に吊るすんでっせ。 帽子やサンダルやお菓子や果物や。分かりやすいでっしゃろ。 ほな、これどないだすか?そうでんがな。MR. KEYでんがな。 えっ、DR.でっか?そうでっか? この国な、物騒ですやろ。家にいくつもんの鍵がありまんのやで。 あっこで道を掃除してるヒトがいまっしゃろ。 ほうき見えますか? えらい短いほうきでっしゃろ。 あんなじゃ、ヒトさんは腰を痛めまんのやろ。 我輩らは腰イタは関係おまへんで。 ヒトさんだけやてね。腰イタあるんは。 腰痛って言いまんのか。 なんでも漢字やね、そんで英語やね、最近の日本のヒトは。 なんでヤマトコトバを使わんのでっか。 話がそれてもたね。でもその腰イタな、原因は何ですねん。 えっ、わからへんて?日本では1,580万人の腰イタ患者がおるのにその85%が原因不明やてでっか。 セイシンシッカンと関係あるってでっか? なんですか、そのなんとかドッカンちゅうのは。 ドッカンやない?シッカン。 へぇー、うつ病でっか、腰イタとうつ病とが関係あるんでっか? 初耳でんなぁ。 じゃあ、あのほうきと材料の関係を知ってまっか? 『腰イタ』と『ほうき』と関係があるのかって? ありまんがな『腰イタと掛けて?』『ほうきと解く』』『そのこころは?』『一人では立っておれませんってね。』 えっ、座布団は無しやて。そんな殺生な。一枚くらいおくれーな。 そやそや、あのほうきを何で作ったか知ってまっか。 竹やおませんで。あれやがな、あの木の葉っぱ。 そうでんがな、椰子の葉っぱの筋ですわ。 一個コウたら四個上げる あの葉っぱのな、薄いとこちぎってな、真ん中の筋だけにしてな、それを集めて作ってるんですわ。ところ変われば品変  わるっちゅうわけですな。家で使うほうきは違いますで。あれはイネみたいな柔らかい植物からつくるんですわ。日本でも一緒ですやろ。 だんだん町に近づいてきましたな。 何ですか?おかしいですか? あの『BUY  1  TAEKE  4』の看板がでっか。 簡単でんがな。一個分買うたら、4個持ってけっ、ちゅうことでんがな。 つまり3個タダでんがな。 そんなにおかしいですか?他にもいっぱいありまっせ、 2個買うたら5個タダとか、3個買うたら10個タダとか。あの看板は一個買うたら、3個タダちゅうことですわ。 つまり一個の値段で4個もらえるちゅうことですやろ。 おかしいでっか? 日本でもおますやろ、抱き合わせ販売ちゅうのが。 それと一緒と違いまっか?違うってですか。 そんなもん、もともと一個の値段に4個分の値段が入っとるのですって。えっ。そんなら一個だけ買ったら損ですがな。 ちゃうか、最初から4個もらえるのか。ようわからんわ。 我輩らには。モノ買ったことないさかい。 あんさん、今度は上を見てばっかりでんな。 我輩らな、上見るような体のつくりになってへんのですわ。 何ですか?同じ顔したヒトの看板がようけあるが何やてですか。 あれね、この州の大臣の誕生日を祝う垂れ幕でんがな。 町中にいろんなポーズでありまっせ。 一緒に写ってるヒトが祝ってまんのや。 一種のセザミ・グラインディングでんな? 何やそれはてでっか? […]

新加坡回想録(37)エイプリルフール

海外の企業には、エイプリルフールを思いっきり楽しむ習慣があるようだ。世界的に有名な大新聞社が4月1日の第一面に大ウソのニュースを掲載して、読者を驚かせ、楽しむことがよくある。 それにならったものだろう。シンガポールにも過去に面白いジョークが「The Straits Times」の第一面を飾ったことがある。それは、シンガポールに国内専用の第二空港ができるというニュースだった。 このジョークの面白さがお分かりだろうか。そう、国土全体でも東京都区内ほどの大きさしかないシンガポールに国内便が無用なことは子供でも分かることだ。南北で約1時間、東西で約2時間も車で走れば海にドボンとはまってしまう狭さなのだ。 例えば、飛行機が滑走して上空へ飛び上がったとしよう。もうその時点で海の上に出てしまい降りるのは外国の土地でしかないのだ。もし、国内に着陸しようと思えば、戻ってこなければならない。私はこのジョークが好きである。駐在していた時に、ローカルスタッフと腹を抱えて笑ったことを覚えている。 ついでに、他の国ではどのような記事が掲載されたか紹介してみよう。 1)Burger King(左利き用バーガー) 米バーガーキングはエイプリルフールのためにUSA TODAY紙に広告を掲載。 人気商品「ワッパー」を左利きの人専用に新開発したと”発表”し、全面広告を使って「グリップ感をアップして味を楽しめるよう、バーガーを180度回転させました」などのワケの分からない説明で楽しませた。     2)Metro イギリスのMetro紙は、「食べられるMetro」という記事を掲載。 記事には電車でMetro紙にかじりつく男女の写真が掲載され、イギリス人シェフであるヘストン・ブルーメンソールからのコメントまで登場。 「読んだあとに食べられる唯一の新聞です」と説明されたこの新聞のジョークは、映画『チャーリーとチョコレート工場』から着想を得たという。 (西 敏)

フランスあれこれ30~パリの屋根裏部屋

今から50年ばかり前の思い出です。私がパリに赴任した直後同僚の一人が屋根裏の書庫に書類を取に行くと聞いて私も良い機会とばかり一緒させて頂きました。 事務所はコンコルド広場の近く、超一流のホテル・クリヨンや海軍省が広場に面し、中央をまっすぐ北にマドレーヌ寺院を望むなど一等場所の一角にありました。見事に整然と並ぶオフイス街です。 大きな玄関があり、入ると中庭があり、右に事務所への入り口ですぐ階段、それと手動式クラッシックなエレベーターがあります。また入り口の反対側は管理人(コンセルジュ)の部屋になっています。そして階段やエレベーターは5~6階程度の事務所或いは住宅までで屋根裏には通じていません。屋根裏に上がるには管理人室の奥にある別の小さな裏階段を利用します。途中各階での出口はなく屋根裏まで直行です。薄暗い豆電球で途中ところどころにあるスイッチを入れないと消えて全くの暗闇になります。荷物をもって、或いはお年寄りはなどと考えると如何にも理不尽な事と思わざるを得ません。 さてやっと最上階に到着、ドアを開けてフロアに出ると別世界です。石造りの建物の最上階は完全な木造様式!でビックリです。しかも比較的新しい木材と言う印象さえ持ちます。すぐのところに書庫があり開けて中に入りましたがこの部屋は窓もなく真っ暗、倉庫しか使いようがないという事でしょう。必要な書類を持ち、この機会にちょっと見学しようと考えで廊下を一周することに。垣間見た部屋も木造で内装もなく全く貧弱と言わざるを得ない雰囲気です。部屋の中央付近に小さな窓が一つ、これが明り取りでしょうか。左の間取り図がその一例です。ご覧の通りこの部屋にはトイレが見当たりません。廊下の片隅に共用トイレがあります。1.5m四方程度で中央に一つ穴が開いているだけの簡単なものです。街中のカフェーなどで見かけるのと同じものです。どこかで水の音がしていたり、ちょっと所用でドアを開けたままの部屋があり、この機会とばかり静かにそして恐る恐る中を覗かせて頂いた次第です。ただこの一回だけが私の見た屋根裏部屋の最初で最後の機会となりました。 さて廊下を曲がって、それは丁度その時のことです。どこかの部屋からか静かにすすり泣く女性の声が聞こえたのです。私共の探索はその瞬間にストップしました。私の脳裏をかすめたのは誰か身内の訃報が届いたのか、それとも自分の不幸を嘆いていたのか、脳裏をかすめたのは昔読んだフランスの小説「レ・ミゼラブル」でした。 室内の雰囲気を伝える写真をネットで探しましたが適当なものは見つかりません。やはり時代も変わり昨今ではすっかり内装も行き届き白壁やインテリアなど近代化されています。そう言えば一度だけ当時完全に内装された屋根裏部屋を見たことがあります。それは超一流ホテルに泊まった日本からのVIPに招かれて部屋に伺った時です。立派なリビングにつながる階段で屋根裏の寝室に通じていたのです。白壁に額も掛かり、窓越の素晴らしい見晴らしにもかかわらず私にはやはり屋根裏と言う印象が強かったことを思い出します。 屋根裏の話のついでに地下室の話を追記します。地下なので窓はありません、暗い廊下にドアが整列しています。私が借りた住宅にも地下室がありました。間口3~5メートル、奥行き10メートル位でしょうか。全て物置で、日常必要のないものなど雑物を保存しています。ワインの貯蔵や一時保管に適していることは言うまでもありません。

追憶のオランダ(54)ホテルオークラにお世話になった話

日本にいると、筆者のような一般庶民は日本一流のホテルには何か特別な目的、例えば誰かの結婚式があるとか海外からの来客が宿泊しているとか、そんな時に利用するくらいしかない。それは今でも変わっていない。しかし、不思議なことに、オランダで生活していた時にはホテルオークラが非常に身近な存在になっていたのだ。何かあっても、そこは日本だという妙な安心感と親近感があったことは事実。働いている従業員の大部分はオランダ人だが、そこは変なものである。オランダ人だけの世界にいるという感覚が薄れていた。 一番よく利用させてもらったのは、日本食のレストラン「山里」。本物の、しかも一流の日本食が楽しめる。値段は少しくらい高くてもその誘惑には勝てない。したがって、ロッテルダムから片道75km車を飛ばして家族で月に一度はオークラへ行って好きなものを食べることにしていた。アムステルダムで住む日本人は恵まれているなあ、と思いながら。食事の時には当然のように酒も飲んだが、帰りの車の運転は別に問題なかった。もちろん、運転できなくなる程は飲まない。 それと、ホテルの地下にある日本の本屋には必ず立ち寄ったものだ。価格は大体定価の3倍くらいしたが、これも日本語の活字に飢えていることもあって、高いとも思わなくなって、行けば何冊かまとめ買いをしたものだ。そして、そこにはYAMAという日本食材屋もあり、賞味期限切れ寸前、あるいは完全に切れているもの、そんなのお構いなしで、目ぼしいものはこの際と買い入れるのがお定まりのコースだ。ここでも誘惑の方が財布に対して完全勝利することになる。女房、子供もそれぞれ似た行動をする。 さらに言えば、私はそれ以外にも一人でアムステルダムまでアンティークタイルを探しに骨董屋巡りに出かけたり、美術館巡りをしたりしていたが、その時非常に重宝するのがホテルオークラの駐車場だった。街なか深くにまでは入らず、そこに車を止め、市内はもっぱらトラムで移動する。慣れぬ市内に車を乗り入れるのはなかなか難しいものだ。一方通行が多く行きたい場所を探し探して近くまで行けても近辺に駐車場がなく、今度は駐車場所を探すことになる。扇状に何重にもなった運河沿いの一方通行を走る間に方向感覚を完全に失ってしまい、結局随分遠いところに止めて歩かざるを得ないという失敗も何度かした。そのあと、オークラの駐車場+トラムというP+R(パーク&ライド)に落ち着いたもの。その時も本か何か買い物もしたので、駐車代はゼロ。 ほんとうに、ホテルオークラさん、お世話になりました。でも、残念ながら宿泊だけはする機会がありませんでしたね。

フランスあれこれ29~【緊急投稿】パリの街からカフェが消えた?!

今回のコロナウイルス問題の深刻化でパリの街では食料品店以外すべて閉鎖というニュースが流れました。パリの人達はカフェが閉鎖されてどうしているのだろうか大変気になります。それだけパリの市民に深く関わった存在なのです。カフェにまつわる思い出を緊急投稿させて頂きます。 この写真は、オペラ通り中ほどにあるカフェ、右下がメトロ(ピラミッド)の入り口、事務所がすぐ近くでよく利用した思い出のカフェです。 朝の出勤時間メトロ(地下鉄)から急ぎ足で職場に向かう若い女性。9時少し前なのにカフェに入りました。ビールをお願い!ギャルソンがジョッキに生ビールを注いで渡します。その間に小銭の用意が出来ていて、テーブルに置きます。女性はビールを一気飲み!すぐに飛び出して隣の入り口(事務所)に駆け込みます。皆さん、何を想像されますか? 午後三時頃仕事の帰りに一服と思って事務所の近くのカフェに入ります。常連のお年寄りが赤いワイングラスをカウンターに置いてのんびり時間をつぶしています。時には同じ年頃の老人と話をしています。よく見ると二人とも鼻の頭が赤くなっていました。二人とも常連、しかもアル中。 仕事で関係のある人から電話で「近くのカフェにいます。10分だけ時間をくれませんか?」と。すぐ近くにあるカフェなのでOKして駆け付けました。「実は会社を辞めることにしました。どうもあの社長とは上手くやっていけない。」「それでこれからは?」「この会社から来いと言われて行くことにしました。」渡された名刺は同業の競争相手。私は知っていました、同業の社長同志は競争の相手、しかし従業員は仲間だという事を。日本は逆? 会社で上司と部下が意見が合わずぎすぎすした状態の時上司は帰りに一杯やろうと提案、これは日本でもパリでも同じ。違うのは気楽に行けるカフェがどこにでもあるという事。別れはいつもの握手、時にはアンブラッセ(抱き合って背中を軽くたたく)。 気になる彼女を誘うのはいずこも同じ?友人に頼んで一杯を一緒にやろうとアプローチ、カフェなら実に気楽に一緒できる? 日本ではどこにしよう?! でもこの時は失敗。 シャンゼリセのカフェで見て聞いた話です。日本からの来客と散歩していてちょっと一服と思って立ち寄ったときのこと。部屋の一角に10テーブル分くらいの席が空いています。不思議に思ったのですが、ギャルソン(本来は男の子の意味だがボーイと同じ使い方)の一人からそちらはサービスできませんと言われました。理由は担当がお休みだと言うのです。不思議に思いながら別の席に移動しました。あとで耳にした話しです。担当のギャルソンがその席の権利(サービス料収入)を持っている。その権利は有償で売買も可能、例えばリタイヤーするとすればその権利を息子に譲ることも他人に売却することも可能だと言います。(その後サービス料に対する税法が変わり料金がサービス料込みとなったのでこの制度はなくなった筈です) 昼間は閑散として人気のない田舎町の話を追加します。夕方日が沈むころになるとどこからともなく一人また一人とカフェにやってきます。殆どの人は立ち飲み、或いは二人三人での話はテーブルに腰を下ろし、やがて日が沈むころワイワイガヤガヤ、やがて大声や笑い声で賑わいます。 パリのカフェはノートルダムやエッフェル塔とは異質の文化です。市民交流に必要な文化であり、生活に密着した不可欠の文化です。閉鎖を余儀なくされたパリの市民はさぞや閉塞感に悩まされているに違いないと思います。 東 孝昭

シンゴ旅日記インド編(76)額のマークの巻

インドの人は額に白や赤い色のマークをつけています。 それらにはティルカ、ビンディ、シンドゥールの3種類があります。 項目 ティルカ/ティーカ ビンディ シンドゥール 1.性別 男女とも 女性一般 既婚、夫が在命中の女性 2.材料 練り物あるいは粉 練り物、シールあるいは宝石 練り物 3.目的 儀式、お祈りのとき 結婚式あるいは化粧 既婚の印 4.宗教 インド人一般 ヒンドゥー教徒のみ ヒンドゥー教徒のみ 5.場所 額と他の体の部分にも 額の真ん中 額の生え際に 6.その他 シヴァ神が第3の目から炎を出すときは世界の滅亡の時です。   額は神聖な場所 最近は宝石を付けたりし、ファッションになって来ました。 最初は結婚式で新郎が 新婦に施します。   ティルカにもいろいろ種類があるのです。 写真左はヴィシュ派でVが大きく描かれます。 写真右はシヴァ派です。ティルカの上にも少しマークがありますね。ここに大きく3本の白い線を描く人もいます。 ティルカの白い色はビャクダン(サンダル・ウッド)の灰を使います。 赤い色の原料はキク科のベニハナと言われています。ベニハナから取れる色素には殺菌効果がありミイラの布に使われたり、皮膚病の治療にも使われていたそうです。 私がシンガポールに駐在していた時、かつて同国に駐在して先輩からリトルインディアでインド人が額につける黒い顔料を買ってきてくれ言われました。 白髪染めに使うと一番いいとのことでした。 あれもティルカのことかと思い出し、赤でなく黒いティルカがあるのかとこちらで私のスタッフに聞きました。 あるのです。 通常は赤い顔料ですがヴィシュヌ神が化身するある神だけは黒いティルカをつけるそうです。シンガポールにはその宗教を崇拝するインド人(タミール人)が多いのでしょうね 次の写真は額にビンディと髪の生え際にシンドゥールを施している事務所のメイドさんです。 なぜ額にマークをつけるのか、インドには漢方みたいな自然医学であるアーユルヴェータがあります。 その医学では額には急所のひとつがあり、そこにティルカをつけることにより精神が落ち着くと言われます。 皆さんも一度試してみてはいかがですか? また、額とは別に女性が腕や手に施す入れイレズミ風の模様をメンディと言います。 これは結婚式で新婦やその友人、デバーリ(インドの正月)に多く見られます。 男性も結婚式だけこのメンディを施すそうです。 下の写真は南インドの客先の結婚式で見てびっくりした花嫁の入れイレズミです。 他の地域でも時々見かけるのですが、写真を取らせてもらう勇気がありません。 メンディの原料はへナという草です。 日本でも髪の手入れに使われるなど人気があるみたいですね。 このメンディの写真は私のスタッフから貰った彼の奥さんのです。__  

新加坡回想録(36)ワールドカップで命拾い!?

記事の題名を見て「これは何のこっちゃ?」と思われた方も多いと思います。私がシンガポールに赴任したのは1983年でしたから、まだ、Jリーグは発足前でした。世界中で最も普及し、かつ人気のあるスポーツはサッカーでしたが、シンガポールでもサッカーは最も人気のあるスポーツのひとつです。 FIFA rankingは、現在162位と下位に留まっていますが、日本とは今回のW杯1次予選で対戦した際にはホーム、アウェーとも1点差で敗れはしたものの、相当日本を苦しめました。昨年開催された東南アジア選手権(タイガー杯)では力を発揮して優勝しています。 サッカーが最も人気があることには変わらないのですが、実は、自国のSリーグよりも英国のEnglish Premier League(EPL)の方が人気があります。バーでのTVは必ずと言っていいほど、EPLのゲーム(録画含む)が流れており、週末にはいわゆる4強(チェルシー、マンチェスター・ユナイテッド(MANU)、リバプール、アーセナル)を中心に5、6試合程度が放映されています。 さて、わが社の事務所の運転手たち(マレー人)もサッカーが大好きで、ワールドカップ開催中は自国の代表は出ていなくても、毎日テレビで観戦します。そのこと自体はよいのですが、ここで一つ大きな問題があります。夜中に夢中に試合を見て睡眠不足のまま朝出社するのです。 ある日、私は到着するお客を迎えるために高速を空港へと向かって車を飛ばしていました。勿論、運転は我が部のマレー人運転手です。お客を迎えた後はどのように接客しようかと考えを巡らせていたところ、車がどときどき右に左にと逸れていきます。ふと気が付いて、ドライバーを見ると居眠りをしているのです。 びっくりして、「Kasmidi!」と運転手の名前を呼び、「Stop! Stop!」と大声で叫びました。しかし、ドライバーは、「No Problem!」と言って止めようとしません。そして、また、車はフラフラしています。命あってのものだねと私は、後部座席から身を乗り出してハンドルをつかみ、これ以上出せないという大声で「Stop!」といい、やっとのことで、車を止めさせました。 「完全な居眠り運転じゃないか!」と叱り、運転を交代するよう話をしました。しかし、素直にOKしません。もしそんなことをして総務部に報告されたら首になるか、或いは減給されるかもしれないという思いからです。 私は、「わかった!会社には何も言わないから交代しろ!お前は俺を殺す気か!いや、このままだと二人とも死ぬことになるぞ!」と言って、やっと運転を交代して事なきを得ました。 あの時の恐怖は、忘れられません。 (西 敏)

フランスあれこれ28~議論は尽きない

昔の思い出話です。フランスの得意先の人と夕食を共にすることになり、レストランと時間を約束しました。一般論としてフランスの人は約束時間にルーズと言うか好い加減で大体は遅れてくるものです。時には30分近くも遅れることがあります。レストランのカウンターバーでアペリティフを頂いて時間待ちするのが普通です。 ところがその日は既に来ていてカウンターで居合わせた人と話し込んでいました。私もカウンターで一杯頂いたのですが彼らの話が終わりません。喧々諤々、延々と続きます。ボーイがメニューを持ってきて注文を取りに来ます。彼はアペリティフのお代わりをして席に移ろうとしません。時々私にもうちょっと待ってくれと言い続けて・・やむを得ず私はアぺリティフを持って一人席で待つことにしました。彼が席に着いたのは多分30分は経過してからかと思います。 別の日の話です。あるカクテルパーティーの思い出です。日本のような主催者の挨拶などの儀式も乾杯もなくパーティーはいつともなくスタートします。シャンパンを頂いて、すぐさま「何方から?」「日本ですか!」「こちらに駐在?」と言った具合で会話が始まります。まあ例えばですが日本の話になったとすると、それを聞いていた人もすぐその会話に仲間入りです。一人が日本について発言するともう一人はそれに追加発言をするか異論をはさむか、何れにせよ気が付いたときには私は既に蚊帳の外と言う次第です。 その後私の駐在期間を通して知りえた結論を申し上げると、フランス人の議論好きの根源は教育にあると思います。中学時代にはすでに文学は無論哲学を学び、教室などで二つの立場に分かれて議論をするとも聞いています。そしてその議論は時には政治論議迄とも聞きます。 高校を卒業すると大学進学資格を取るための試験があります。いわば共通一次で合格点を取らないと大学進学が出来ないという感じです。たとえ大学に進学しなくともこれが単に高校を卒業したという以上のステータスになります。そしてこれさえあれば成績によって自分の希望する大学に進学できます。一般には個別の大学の入学受験はありません。問題はこの資格取得の試験(バカロレア)の試験に議論の能力が必須だと言うのです。それは物の本質を見極める、或いは色々な観点からものを見るという習慣を身に着けるという事でしょうか。 この漫画に描いた”Oui!” “Mais non!”(ウイ、メ、ノン)はフランス人の口癖と言えそうです。「分かった、でもね!」と言った感じでしょうか。ドゴール大統領が連合軍、特にアメリカに助けられて第二次大戦を乗り越えたのですが、そのアメリカに対し常に言い続けたのがこの ”Oui mais non”で、遂にはメノン大統領とあだ名されたこともありました。要は一筋縄で相手の意見に賛同しないと言うフランス人のど根性と言えます。でも最後は必ず握手で終わります。

追憶のオランダ(53)キューケンホフ

キューケンホフ、この名前はご存知の方も多いのではないかと思う。チューリップで有名な、アムステルダム近郊のLisseという町にある植物園である。名前そのものの意味は厨房・台所ということで、それにしても奇妙な名前がついている。 オランダの冬は、雪はあまり降らず、凍てつくような寒さが厳しく、近辺の水路は冬の間は殆どがカチンカチンに凍り付く。しかし、3月中旬頃になるとようやく寒い冬もそろそろ終わりを迎え、皆が春の到来を感じる。殺風景な冬も実は2月下旬頃からはあちこちにクロッカスが咲き始め、それを追うように3月頃からはチューリップが芽を伸ばし出す。ちょうどその時期3月中下旬からの約2か月間、5月中下旬くらいまで期間限定でこのキューケンホフは開園する。その間世界中からチューリップを見に多くの観光客が訪れる。私ども家族も何度も見に行った。30ヘクタール以上の広大な園内には、こんな品種があるのかと思うくらいの多くの個性あるチューリップが一面に植えられている。約800種類、7百万株以上毎年植えられるとも言われている。確かにこんな光景はそれまでにもみたことがなくただただ圧倒される。 しかし、よく見ると、これは単なる見せるだけのチューリップを植えた花壇ではないことがわかる。それぞれ品種ごとにそれを育てた(品種改良をした)会社なり組織の名前が品種名とともに表示されている。それは、見て目を楽しませるだけではなく、花卉産業の一大展示場となっていることに気付いた。おそらく、その出来栄えを見て、その後商談が行なわれるのだろう。因みに、チューリップは17世紀に小アジア(現在のトルコ)あたりの野生種であったどちらかというと貧相な花を、オランダで園芸種として改良を重ね、現在のような多種多様なチューリップになっている。一時は、一粒の球根が非常な高値で取引されるなど一大バブルを引き起こし、莫大な財を築いた人、反対に破産をした人を出した歴史も持つことも有名な話である。 キューケンホフに近づくまでに、高速道路を降りてしばらく田舎道を走るのだが、その周りにもずっとチューリップ畑が広がっている。時期によってはまだ花を咲かせていなければ緑に見えて何か野菜でも作っているのかと思うが、そうではなく、右の写真のようにほとんどが球根を育てるためのチューリップ畑なのである。シーズンの土日ともなると、園まで続く田舎道は車の列が連なり、遅々として進まない。このキューケンホフの公園のある場所は、古くは貴族の狩猟場だったようだが、第二次大戦後、公園として整備され現在のような姿になったらしく、チューリップ園としての歴史はそれほど古いものではない。そんなキューケンホフだが、じつは私はこの公園にオランダ人夫婦を案内したことがある。この年配の御夫婦、オランダの一番南のマーストリヒト近くに住んでいて、名前だけは聞いて知ってはいたらしいがその時まで実際にこの場所を訪れる機会がなかったらしい。オランダを代表するキューケンホフに日本人がオランダ人を案内した?おやっ、と思われるかもしれないが、そういうことも実際あったのでした。愉快愉快。