フランスあれこれ26~フランス人は日曜大工がお好き(1)

フランスの人は自分の家の内装や壁紙の張替えなどはいとも簡単という事だと思います。私の二度目のパリ赴任で借りた家の壁は完全に白一色でした。要は、インテリアはご自分のお気に召すようにという事だったのでしょう。この時私は敢えて白い壁のまま、実にフランスらしくない内装で過ごしました。 日本語で日曜大工と訳しているフランス語は”Bricolage”(ブリコラージュ)と言います。念のため辞書を引いてみますと「古いものの復活」となっています。 右の写真はパリの大手百貨店の一つで通称”BHV”です。BHVは”Bazar de Hotel de Ville” 即ち日本語に直訳すると「市役所市場」と言うところです。この百貨店の特徴は地下一階が全てDIY、あらゆる種類の日曜大工用品で一杯です。週末は多くの人で賑わいますが、中にはメモをもって店員と相談したり、夫婦でインテリアの品定めをしているのを見かけます。 日曜大工用品店はここだけではありません。郊外などのチョットした町にもDIYの店が存在します。特に日曜日などは大変な賑わいで店員さんがてんやわんやです。この種の店は単に材料を売るだけではなく、必要な道具も貸してくれるし、相談にも乗ってくれます。 私の知人の一人が週末になると必ずノルマンディーに出かけます。最初は農園でもやっていたようですが、そのうち息子と二人必ず週末は一緒という事で、その理由は二人で家を建設中と言うことが判りました。農園の一角に小屋がありそこで寝泊まりしていたようですが本格的な家を建て、まずは週末の別荘、そして将来は永住の故郷をという事でした。 約3年位かけて完成して一度お招きを頂いたのですが残念ながら私の都合で実現しませんでした。話によると素人のバラック造りなんてとんでもないという絶賛を貰っていました。 私の日曜大工の経験はただ一回だけ、50年以上前にフランスで家具付きの住宅を借りたときです。家主さんと最初に訪問してすぐに気に入ったのですが、玄関を入った正面に大きな鏡がありその周りの壁が少し汚れていたので、将来私の責任ではないという事を耳に入れておこうと思って指摘したところ、家主さんからはご自分で好きなように張り替えて下さい、そして必要あれば費用を請求して下さいとの返事を貰いました。どうしようか考えたのですが思い切って近所の日曜大工店に出かけました。週末で店員さんが忙しく、とても対応してもらえる状態ではなかったのですが、幸い来客の一人が得意げに色々教えてくれました。面積分の壁紙と言っても接着剤のついたものを購入、カッターとローラーを借りて何とか完成しました。後日家主が見に来て「これは良く出来た!これで家の格も上がったので家賃の値上げだ!」と冗談。これが私の最初で最後のブリコラージュでした。 そういえば我が家に”Interieurs Parisiens”(パリっ子のインテリア)と言う分厚い本があります。どこで手に入れたものか、誰かに頂いたものか良く分かりません。内容も余り真面目に眺めた記憶もありません。この種の本は本屋は無論、日曜大工店などでも手に入ります。お金を出してまで、購入する本かどうか私には疑問です。

追憶のオランダ(44)ホームドクター

外国で病気になるほど不安なことはないと思います。筆者はもともと元気な方で、冬場に風邪をひく程度であまり医者にはかかったことはありませんでした。ただ、海外赴任前の健康診断の時、あることで今後は半年に一回は定期的に検診を受けるようにと医者に言われ、多少気になることがありました。 着任してしばらくはバタバタと忙しくしていましたが、4ヶ月ほど経って自分でも行動できるようになり、また家族も来たので先輩格の同僚に病院のことを尋ねました。近所ということもあり、「紹介するから、俺たちがかかっているホームドクターに見てもらったらどうか」ということで、さっそくドクターを訪ね、我が家のホームドクターになってもらいました。 オランダでは、仮に病気になっても、日本のように自分で勝手に探して医院や大学病院などに直接受診しに行くのではなく、地域ごとに皆各々ホームドクターを決めており、まずそのドクターの診察を受けることになります。そのドクターがさらに専門の大病院などでの受診が必要と判断すれば、彼から紹介状を書いてもらうというシステムです。日常の風邪ひきや腹痛などのちょっとした病気ならこのホームドクターで十分対応でき、処方箋を書いてもらって薬局へという形です。 オランダに来て半年経ち、例の検診をする時期になったので、最初の挨拶の時以来の2度目のホームドクター訪問でした。要件を話すと、すぐに近くの大病院を予約してくれ、数日後に無事検診が受けられました。そして、その大病院での診察券を作ってもらいました。 しかし、問題はさらにそのあと半年後の検診でした。私は、ホームドクターからも半年ごとの定期的な検診が必要だと言われていたので、2回目はその言葉通り診察券だけ持って直接その大病院に行きました。すると、受付で問題になったのです。まず、「なぜ君はここに来たのか?君のホームドクターは誰なのか?予約など入っていない。」等々、一方的に言われ、何が何だか分かりませんでした。そして、これまでの経緯を説明しました。結局、病院側とホームドクターとで電話で話してもらい、その時は何とか飛び入りという形で受診はできましたが、制度をよく理解していないがゆえの大失敗でした。あとで理解できたのは、要は、大病院などでの診療はすべてホームドクター経由でなければ話が進まないということです。 また、ホームドクターにも当然休診日がある訳ですが、そんな時病気になった時は連携する近所の他のドクターに見てもらうことも出来る体制になっているようですが、幸い帰国までにその経験はありませんでした。  

十男9歳 埋葬のヤギを掘り出す!?

近所で飼っていたヤギが病死した。おじさん数人が畑に埋葬した。夕方、ボクの兄貴分・隣の兄ちゃんが弟分4人を引き連れて埋葬場にこっそり集まった。「人間は死んだら骨になると聞いた。ヤギは1日でどう変わるかなあ」と小学3年生のボクが聞いた。「じゃ明日、堀り起こしてみよう」と兄貴が言い、密かに発掘することが決まった。 翌日、5人がスコップなど持ちより、掘った。子供なのでずいぶん時間がかかったが掘り起こした。しかしヤギは死んだ時のままの姿で骨にはなっていなかった(当たり前)。 その時「コラーっ」と背後に大声がした。埋葬したおじさんに見つかったのだ。「おまえら何しとるんじゃ」。仲間の一人一人が 「熊とかイノシシは」 「死んでも食べられる」 「ヤギは死んでも」 「食べられんから、かわいそう」 「食べることが」 「できるかもしれんと思って」 「掘っただけじゃ」 と途切れ途切れに屁理屈を言いながら、走りながら、ボクたちは逃げた。 しかし、それが後に大変なことになった。 「吉(よし)仲屋(なかや)(僕の家の屋号)の和ちゃんらはヤギを食った」と集落で評判になった。「それも掘り起こして生(ナマ)のままだったらしい」と尾ヒレがついた。5人組はすぐ逃走したので食べることなどとてもできなかったのだが。半世紀たった今も集落の人が「ヤギを食べた子供たち」の〝汚名〟を思い出しはしないかとビクビクしている。 昨夏 帰省の折、ヤギの元埋葬地に立った。草木で覆われていた。当然だが掘った跡形もない。そばの大きな柿の木は、ところどころ朽ち、かろうじて佇んでいた。怒り・追っかけたおじさんと5人組の一人も泉下の人になった。ヤギの墓標のことを知る人は少なくなった。 吉原和文

新加坡回想録(26)幻の炒飯

長年の友人との再会を喜び彼らの取材旅行に協力して以降も、会社の顧客や同僚以外に家内の弟家族や長女の幼稚園のときの先生など個人的な知人、友人も大勢来星してくれてそれぞれ再会を楽しむことができた。国内にいてもなかなか会えない人たちにも、外国にいるからこそ会えるということがあるものだ。 暫くして、友人から待望の一冊が届いた。彼がシンガポールで取材し、私がわずかながらも協力したあの一冊「海外食べあるき・ショッピング シンガポール」(1988年10月初版発行・S社)だった。慌ただしくページを繰って見る。もちろん「幻の炒飯」がどのように扱われ掲載されているのかを一刻も早く知りたい。 見ると、あの「幻の炒飯」は、どの高級レンストランよりも、どの一流ホテルよりも大きく、見開き2ページに亘って紹介されていた。やるな!やっぱり感性は一緒だった!うれしかった!おまけに、あいつ、協力者として、私の名前まで巻末に(パンパシフィックホテルの次)紹介してくれていた。クリックで拡大) でもこの本はもう、古本屋以外では書店で見ることはないので、「幻の炒飯」のページのみここで紹介したいと思う。(記事は1988年現在のもの) ◇究極の炒飯ここにあり◇ シンガポールに住んでいる日本人の間でつとに有名な幻の炒飯に遭遇することができた。 店の入り口左に炭火のかまどがあり、ここが調理場。痩せたおばさんが煙のなかで大きな中華鍋を握っていた。彼女の細腕の右の力こぶだけは小さなお餅をのっけたように盛り上がっている。鍋から空中に放り投げられた飯が炎と交差する時、ジャッと音が出た。香ばしい匂いが店内に漂う。 おばさんは米の一粒一粒がくっつかないように、しかも米の一粒一粒に卵がまんべんなく絡むように力を込めて鍋をかきまわし、飯を宙に舞い上げる。まるで、炎と決闘しているようだ。声をかけたが、口も利きいてくれない。注文は別のおばさんがとりに来た。 9卓の丸テーブルは全部ふさがり、お客は黙って待っている。その上をふたつの扇風機がゆっくり回っている。奥には神棚があり、その下には油でテカテカ光っているオレンジ色の電話機。隣の食器棚のガラス戸には12枚の茶色に変色したサッカーチームの絵葉書が貼ってあった。 30分たって、大きな皿に盛った3人前の炒飯ができ上がった。カニ肉をはじめとしてシーフードもたっぷりと入っている。口に入れてみると、ふわふわでしかもパラッとしている。口一杯にカニ肉のいい香りが広がった。実に気品のある、この逸品だった。 この店の名前は「榕光」(YONG KUANG)。チャイナタウンを横切るサウス・ブリッジ・ロードからネイル・ロードに入ってカントンメント・ロードの1本手前を右に入ったところにある。左斜め前が広東料理で有名な「マジェスティック・レストラン」だ。 ちなみにこの炒飯のお値段、1人前で10Sドル(標準の3倍)、3人前だと25Sドル。シンガポールで料金が一番高い究極の炒飯である。 「榕光」(YONG KUANG) 31, Teo Hong Rd. 11:00~16:00(無休) (文:ライター・YIさん) このお店、もう一度行ってみたいが。今もあるのかどうかわからない。 (「蓬城 新」こと 西 敏)

追憶のオランダ(43)オールドアムステルダム

「オールドアムステルダム」これは私が一番好きなオランダのチーズの銘柄です。オランダのチーズなのに、なぜか英語の名前なのです。別に宣伝するつもりはありませんが、いろいろな銘柄を試した結果私自身が一番気に入ったものなのです。日本流で言えば、ゴーダチーズ(オランダ語では、ハウダ・カースと発音します)ですが、数ある銘柄の中でも最も旨味が凝縮して感じられるのです。約6年の任期を終え帰国する時には、丸ごとを持って帰りたかったくらいです。しかし、実際は直径が約35cm・厚さ約11cmほどのゴロンとした12kgもの塊をまさか手荷物で持って帰るわけにもいかず、また丸ごとならいくら現地では日本より安いと言っても値段は馬鹿になりませんので、結局4分の1にカットされたものを2個だけ(要は半分)で我慢しました。 チーズが好きだからと言って、オランダ人が食べるほどは食べませんが(ある統計によるとオランダ人は日本人の10倍くらい食べるという数値が出ています)、何ケ月か経って最後の一切れを食べ終わってからのさびしかったこと。輸入チーズを売っている店にもあちこち足をはこびましたが、今から20年以上前にはオールドアムステルダムを置いている店はなく、諦めていました。それが、いつの頃か偶然銀座のあるデパートのチーズ売り場で小さい幅の扇形にカットしたものが並んでいるのを発見し、女房と二人で、「やった!」と大喜びしたことを思い出します。その夜は、我が家は急遽オランダ飯になりました。何ということはない、オランダ飯と言っても我ら夫婦が勝手にそう呼んでいるだけで、チーズ・ジャガイモ・ソーセージ、それにビールとワイン、これが食事のすべてです。質素そのもの。このワインというのも、本当のワインももちろんですが、オランダのスピリッツであるジュネーバー(これをかの地ではコーレンワインと呼びます)は欠かせません。これを欠くと、ドイツと差がなくなります。また、その頃ほとんど手に入らなかったホワイトアスパラガスかムール貝などが手に入った日には、我家はいつも自動的にオランダ飯になったものです。 最近はいろんな所(小田急系のスーパーでも)でオールドアムステルダムを見かけるようになり、今では我家の冷蔵庫には小さく扇形にカットされてはいますが、常備されるようになりました。娘も、時々「見つけたから買ってきたよ。」と言って、持ってきてくれます。爺が食べ、母親も食べるので、小さい孫までが喜んで食べるようになっています。食習慣とは恐ろしいものです。小さい時からチーズを食べ続けるとオランダ人のように背が高くなるでしょうか?でも、オランダ人並に食べないと期待はできないかもしれませんね。  

十男8歳 人魂(ひとだま)(火の玉)を見た

隣家のおじさん(主人)は物知り博士だった。でも病気がちで働いているのを見たことがない。天気のいい日は一人、縁側で日向ぼっこ。眼鏡、痩せて、顔は青白く、芥川龍之介という人に似ていた。 いつもラジオを聞いていた。訳の分からない会社の名前と値段を言うだけだった。ボクはいつのまにか「○○製薬ひゃくふたじゅうなな円5円やす」「××製菓ひゃくふたじゅうえん、3円だか」と暗記できるぐらい覚えた。何でこんなものが面白いのだろう、と思った。また「広瀬城」の山中鹿之助や「扇の的」を的中させた那須与一。信長の「鉄砲戦略の話、広島に落ちた「原子爆弾」の話まで色々教えてくれた。時々来る紙芝居より楽しかった。おじさんに耳垢(あか)をとってもらうのも好きで「早く耳垢が溜まらないかなぁ」と思ったくらいだ。 ある夏、おじさんが亡くなった。多分40歳くらいだった。土葬(当時)が済んだ夜8時ごろ、火の玉、いわゆる「人魂」が飛んだのを目撃した。色は青白く、少し黄色っぽかった。一緒にいた高校生の兄(八男)も「見た」。家の前の田んぼの上空約20mを右から左へゆっくりと飛んでいった。 「あっ火の玉だ、ねっ、火の玉だろ?」とボクが言うと、兄は「あぁ・・、確かに・・」と息をのんだ。時間にして10秒くらい。でもボクらは怖くなかった。 「おじさん……、だよね」とボク、「そぅじゃな(そうだな)」と兄。 あの火の玉はおじさんがボクたちに「さよなら」を言いに来たのだと思った。 母は「このことは誰にも言ってはいけないよ」と僕たちに言った。理由は漠然と分かったのでそれ以降、その話はしていない。日記には書いた。 (吉原和文)

新加坡回想録(25)ガイドブックの取材協力

赴任して2年少し経ち、新しい外国生活にも慣れた頃、トラベルライターである友人から取材協力をお願いしたいとの連絡が入った。旅行雑誌の取材でシンガポール出張が決まったので、現地事情の提供に是非協力してほしいとのことだ。地図で名のある出版社Sが発行するガイドブックの編集長としてカメラマンとライターとを引き連れて三名で来星するという。 取材班は、カメラマンのMさん、ライターのIさん、リーダーの友人Mの3名のチームだ。今回の彼らの仕事は、海外旅行ハンドブック「海外食べあるき・ショッピング」シリーズのシンガポール編を担当するものだった。その時までに、①ハワイ、②香港、③台湾、④韓国と刊行済みでシリーズ5番目となるということだ。この種のガイドブックは履いて捨てるほど溢れているので何か他誌にはない特徴を持たせたい、できれば現地在住の日本人しか知らないような穴場的なところを教えて欲しいという。 実は、私には彼から連絡があったときにすでに一つの腹案があった。この友人とは小学校一年生でクラスメイトになって以来の長いつきあいで、私自身の人生にとって多かれ少なかれ影響を与えた人物である。その彼からの依頼に喜んで応じたのは言うまでもないし、彼が何を期待しているかは聞かずともわかる間柄であった。彼との思い出話は数多くあるので別の機会に改めて書きたいと思っているくらいだ。 どんなガイドブックでも外す訳にはいかないグルメスポットやレストランをひと通り回った後、そこに連れて行った。目的の小さな食堂は、チャイナタウンの一角にあり、おばちゃんが1人で腕を振るって評判をとっていた。そこで提供される炒飯が、当時、日本人の間で話題になっていて、それは「幻の炒飯」と呼ばれていた。 特徴はとにかく蟹がいっぱい入っていて他では味わえない豊かさを感じることのできる大好きな味だった。値段は、通常の3倍(S$10)するので、後でもめることを避けるためでしょう、おばちゃんが、10ドルだけどいいんだね?といつも必ず確認してから作り始めるのだった。 当時の私の仕事は、何でもいいからこの支店で一人食べていけるようにすることが課題だったので、とにかく東南アジアを歩き廻っていた。とりわけ、シンガポール国内のレストランやホテルを廻り、食品原料の流れなどを調査することも仕事の一貫として必要なことだった。 あちこちのレストランと親しくしていたおかげで取材にも協力的だったので、時間の許す限りできるだけ沢山のところに連れて廻った。でも、チームが最も気にいったのは結局「幻の炒飯」で、この本の目玉にできるととても喜んでくれた。私としても「してやったり」で小さい頃から「ウマが合う」と言われてきた、友人と私の感性がぴったり一致したということの証明だった。 取材が一段落したころ、このチームに自宅に来てもらい食事を楽しんだ。家内も、彼が2度目の世界一周旅行直前に大阪で会って以来の再会だった。家内に故郷の話をするときはいつでも彼の名前が登場したし、よく知っている存在だったのでお互い遠慮も無用で話がはずんだ。さらに初めて会う二人のメンバーからも最近の日本の状況などを聞きながら杯を交わし楽しい一夜が更けていった。 上記の私の友人「M」は、後に、代官山蔦屋が新業態で華々しく開店した時に、旅行本コーナーの初代コンシェルジュを任された人物です。ここを訪れて彼にお勧めの本を聞きそれを読んで旅行したお客さんが、その本のおかげでとても良い旅行ができたとお土産まで買ってお礼に来てくれたというエピソードがあるほど人気を博しました。おかげでテレビやラジオの取材も多く彼は一時有名人になっていました。充実した人生を送っていた彼でしたがほどなく病気で帰らぬ人となってしまいました。せめてこの記事を読んでくれていたら嬉しいと思ったのですが・・・。(合掌) (西 敏)