新加坡回想録(29)倒福

「倒福」の習慣(福という字を逆さにして貼る)に関しては明の洪武帝の皇后であった馬皇后の伝承があります。 とある春節に際し洪武帝はお忍びで市井を散策した際にとある人物の描いた年画(春節用の縁起ものを描いた絵)を目にした。そこには豊作を願って西瓜を抱えた女性が描かれていたが纏足をしていなかった。洪武帝は「懐西(西瓜を抱える=淮西と音通)の婦人の足が太い」という画題が、淮西出身の馬皇后が民間の出身で纏足をしておらず気品に欠けると嘲笑したものと考え、年画を描いた者を処罰しようとした。 宮廷に戻った洪武帝は年画を描いた人物を調べさせ、無関係な者の家には「福」の文字を書いた紙を貼るように命じ、翌朝「福」の表示がない家の者を処刑しようとした。馬皇后はこの計画を知ると、無実の罪で処罰される民衆に同情し、明け方までに全ての家に対し「福」の表示を貼ることを命じた。 馬皇后の命により翌朝城内の家中に「福」の文字が貼ってあり、洪武帝の命を受けた士兵はどの家の者を処罰するか分からなくなっていた。しかしその中の一軒が文字を知らなかったために「福」の文字を逆さまに貼ってあることを発見し洪武帝に報告した。 洪武帝は福を倒して貼るということは民衆の生活が苦しいことを皮肉った行為であると激怒しその家の者を斬首するように命じた。またしても夫である洪武帝により無実の民に危害が及ぶことを恐れた馬皇后は機転を働かせ、その家の者は洪武帝の使者が訪問することを知って故意に福を逆さに貼って「福が到る」(※「倒」と「到」の発音が同じ)を表現したと洪武帝を説得し、無辜の民衆に危害が及ぶことなく済んだというものである。 それ以降、善良な馬皇后を顕彰し、除夕(大晦日)に民衆は門上に「福」の文字を大書した赤紙を逆さに貼り、一家が平安であることを願ったと言われている。 (西 敏)

追憶のオランダ(46)カフェバーの鐘

日本流の飲みにケーションではないが、会社の近くのカフェバーに入ってビールを何杯かひっかけながら、オランダ人の仕事仲間と愚にもつかぬ話に花を咲かせることが時々あった。そんな時、仕事の話は殆どしない。普通は仕事が終わるとそそくさと帰宅する連中がほとんどだが、たまにお互いに一杯やろうと近くのカフェバーに入る。 筆者は最初のうちは店の中にある調度品とか壁に飾ってある写真・絵とか様々なものを物珍しそうにしげしげと見ていて、ふと頭の上、カウンターの上からチャペルなどで見るような形の小ぶりの釣り鐘がつるしてあり、紐が下がっているのに目が留まった。どんな音色がするだろうという興味で、何気なく触ろうとした時、一緒に飲んでいた彼が大声で「やめろ。触るな。」と叫ぶ。こちらの方がビックリして、なぜと尋ねると、彼が説明してくれた。 この種の鐘は昔からのカフェバーには必ずと言っていいほどつるされていて、そこでこの鐘をならすことは、その店で飲んでいる連中皆に一杯酒をおごるよ、という合図なのだと。上の写真は私が鳴らそうとした鐘ではありませんが、画面中央にちょうどカウンターの上にぶら下っています。左の写真でもそうです。その時ざっと3-40人は飲んでいたと思うので皆に一杯ずつおごるとまあまとまった金額になってしまったはずだ。「知らぬとはいえ、危うく怖い鐘を鳴らすところだった、有難う。だから今日は君にすべておごるよ。」といいながらまた話は盛り上がり、何杯も何杯も飲んで、ビール以外にも大好きなジェネーバーも飲み過ぎてかなり酩酊してしまった。実際、いくら払ったのか、どうやって家まで帰ったのかもすっかりもわすれてしまったが、鐘のことだけは、しっかり記憶していた。 そう言えば、その後大分経ってオランダのカラオケのビデオの背景動画で、船乗りが陸に上がり港のカフェバーで飲んでいる場面で、一人がうれしいことがあったようでこの鐘を鳴らしその場の皆に酒をふるまうシーンを見たような気がする。Het kleine café aan de haven「港の小さなカフェ」という題名のオランダの流行歌。 皆さん、オランダでカフェバーに入った時、くれぐれもこの種の鐘だけにはご注意を。でも、鳴らせば、少し高くはつきますがその場の全員と一気に仲良くなれそうで、いいかも・・・。  

十男14歳日記 昭和38年8月15~18日

誤字・意味不明、理路不整然日記の続き。中学2年の8月。五十余年後の今「あれから随分成長した」という証(あかし)がないのも事実(日記は原文のまま)。 8月15日 木 ☼ 昭和二十一年八月の今日十五日、私達の母国 日本はポツダム宣言を受諾した。天皇が敗戦を告示。日本国民は泣き叫んだ。そして今日この記念すべき日に戦没者の慰励祭。そして今日を盆という。 今夜は盛大?な盆祭で踊りがあった。僕は皆さんが踊られるのを見て心打たれた。このみじめな敗北を忘れて仮装や子供達は楽く過ごしている。でもこの場、いや全国全民がこのみじめな敗北の浅没者を心から慰さめてないよう私はその事をこの中学生にも知らせたかった。 8月18日 日 ● 全然黒くなっていない。みんな白い。教室中は夏休み前と同じだ。本途に白い。長い夏休みも昨日で私達は終止符を打ち今日登校したが今年は寒かった夏のせいかみんなの元気そうな顔が見えない。残念である。今日は模擬があり昨日さぼったので全然できなかった。で今夜はあれでも三時半まで勉強した。今は八月十九日である。やはり「あやまちて改めざるこれを…」であるな。下関商準決勝へ。池永好投2対1今治西を敗る。巨人久方ぶりの猛打。十対一。絶好調金田をひとひねり。王28、29号。長島29号で一戦に並ぶ。力と伝統の巨人軍。 (吉原和文)

新加坡回想録(28) 春節(旧正月)

春節(旧正月)は旧暦に基づいているため、毎年日付が変わります。1月21日から2月20日の間にある1日になります。2020年の春節は1月25日(土)です。休み期間は、法律上は1月25日~27日の3日間だけですが、一般的には、1月24日(大晦日)から1月30日(木)までの1週間で中国で最も長い連休となります。 中国系の人々にとって春節は、中国暦で最も重要なイベントです。旧正月が始まる数週間前から、チャイナタウンにはきらびやかなデザインのランタンが並び、ストリートのライトアップが正月気分を盛り上げます。 カラフルなお祝いの行列、季節の市場、賑やかな獅子舞などの様々な祝賀行事が行われ、シンガポール中でお祭り気分に浸っています。さらに、再会を喜ぶ人々の話し声や笑い声、幸運を祈願して行われるマンダリン・オレンジの交換、特別な料理を囲む食卓は、お祭り気分を盛り上げるこの時期ならではの風物詩となっています。 2020年干支-庚子年 中国の旧暦は中国の十二支に基づいています。中国の十二支には、ねずみ、牛、虎、うさぎ、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪(豚)の12種類の動物がいます。それぞれの動物は12年のサイクルで循環していて、春節の旧暦1月1日から新しく始まります。今年2020年は鼠年です。 旧正月に欠かせないものとして、チャイナタウンの屋台では、赤色の装飾品を売っています。このシーズンの色と言えば、間違いなく「赤」でしょう。赤は、子どもや若い親戚に配られるお金の入った赤い封筒(いわゆるお年玉)「紅包(ホンバオ)」の色です。人々が着ている新調したての服にも明るい色合いの赤が使われています。 また、特に目に付くのは、大掃除を終えたシンガポール中の家に飾られる深紅色の装飾です。例えば、門に吊るしたランタン、出入り口に飾る春の二行連句、黄色い果実が「金」や繁栄を象徴するキンカンの木に飾る明るい色のリボンなどにも赤が使われます。 日本で、注連縄を玄関に飾るのと同じですね。子供のころ、我が家では、玄関先の大きめの注連縄だけでなく、小さな輪っかになった注連縄を、水道の蛇口にかけたり自転車のハンドルにもかけたりしていたことを思い出します。 旧正月の代表的な料理ローヘイに「ローヘイ(生魚の広東風サラダ)」があります。今でこそ、中国人もマグロなど生の魚を食べますが、昔は正月しか食べませんでした。これは、土地が広大で物流が今ほど発達していなかったことから、生ものを食べる習慣がなく、必ず焼いたり煮たりして食べるのが普通でした。 生魚(中国発音で”ション イ”) 魚は中国語の「魚」の発音「Yu」と「余る」の発音が同じということから春節には欠かせません。魚を食べることで翌年にお金と幸運が余分に舞い込むと言われています。 春節の中心となるのは、家族とのひとときです。家族や親戚が集い食卓を囲むのが定番の風景となっています。その典型が、昔からニューイヤー前夜に行われている親族同士の夕食会です。1年で最も重要な食事を愛する家族と楽しむために、人々は急いで家に帰ります(かなりの遠隔地から帰る人々もいます)。 中国の田舎から都会に出稼ぎに出ている人たちも旧正月だけは、高い運賃を払ってでも家族のもとへ帰ります。そして、親戚や友達を訪問し、新年の幸運を祈る言葉を伝えて大切な人々とのひとときを楽しみます。 (西 敏)

フランスあれこれ27~フランス人は日曜大工がお好き(2)

フランス語で日曜大工はブリコラージュ(bricolage)と言いますが、字引を引くと「古いものの復活」と言う意味と受け取れます。 今から50年位前の話です。 ある日曜日、朝から下のガレージで人声と共に金属音が聞こえました。何だろうと思って下を覗いてみました。駐車場の一角で車のエンジン部分ボンネットと後部のトランクを大きく開けて何か作業をしていました。当初は車のトラブルだろうと思っていましたがいつまでたっても音が止まりません。暫くして再度眺めてビックリ、エンジン部分を完全解体してその部品を整然と並べています。 私は外出の際挨拶を兼ねて何の作業ですかと尋ねたのですがエンジンの分解掃除で、相棒は私の息子ですと紹介されました。まだ高校生くらいの感じでした。それにしても親子でエンジンの分解掃除とは私には想像も出来ないことでした。数時間後帰宅した時もまだ同じような状態で四苦八苦しているのではないかと想像していました。 やがて日が傾きかけ夕刻が近づきます。私は聊か心配になってきました。このまま夜になるととても作業は難しくなります。何度か窓を開けて上から覗きますが依然として部品が並んでいます。他人事ながら心配が募ります。 丁度日が沈んで辺りが真っ暗になった頃「ガリガリ・・ブルルン~~!」正しくエンジンの音です。ヤレヤレ、良かった~!私の気分もこれで一安心でした。 ・・・・・・・・・ 今の時代になって自動車は電子部品の集積のようなもの、とても素人の手に負えるものではありません。ちょっと私自身の昔の思い出話を付記します。 (1) フランスで最初に買った車はイギリス・フォードの中古のアングリア。値段も安いぼろ車でした。郊外での話ですが、エンジンが突然かからなくなりました。何度やり直しても、少し時間をおいてもかかりません。途方に暮れていた時、たまたま通りがかった人が車を止めて相談に乗ってくれました。自分の車からドライバーを持ち出してエンジンの部分と近くの配線を繋いで、火花を散らせながらバリバリと言う音と共にエンジンを再起動してくれました。その上丁寧にそのやり方を教えてくれた上使用したドライバーを私にくれました。何のお礼も出来ず感謝感激でした。その後ガレージに立ち寄って相談したのですが、外国車でしかも大変古い。部品を取り寄せて交換するのもどうかと思う。どうしてもと言うなら家の近くの修理屋に相談することを勧めるという事でした。 (2) 後日車を買い替えて、今度は新車で郊外を旅行しました。この時も自分のミスで車のキーをトランクに置いたままで閉めてしまいました。本当に困りましたが通りかかる人が念のためと色々なキーを差し込んだのですが、結局は両手を挙げてどうしようもないというジェスチャーでした。そんな折通りかかった人が最後の手段だと言って車を持ち上げたりしながら車を大きく回転するように揺さぶりました。何度目かにガチャ!と音がしてトランクが開きました。彼曰く「私の経験で知ったトリックです」と。   これはイギリス・フォードのアングリア1965年モデル。ネット情報では173万円で売却済みと出ていました。  

追憶のオランダ(45)ヒートホーン

ヒートホーン(Giethoorn)はアムステルダムの北東120kmに位置する小さな村で、聞くところによると、ここは「オランダの小さなベネチア」と呼ばれているそうだ。 まず、その地名について一言。筆者自身、会社の同僚から一度観ておくといいよと勧められた観光地の一つ。地図にも出ているからということで、地名のスペルまで聞かず、後からロードマップで調べればすぐわかると思っていた。しかし、いくら調べてもなかなか見つからない。地名を聞き間違ったかなと思った。確かにヒートホーンと聞いたのだが・・・。なかなか地図上で場所を探し出せなかったその理由は、オランダ語のGから始まる言葉の難しさのためだった。このGから始まる言葉の音は日本人には殆どはなじみのない音で、あえてオランダ語の発音をカタカナ表記すると、ヒートホーンかヒートホールンとなる。最初の頃はこんなヘマをよくやっていたものだ。 余談だが、ある程度年配の方々ならご存知だろう、1964年の東京オリンピックの柔道無差別級で金メダルに輝いた巨漢、アントン・ヘーシンクを。彼の名字はGeesinkと綴り、これでヘーシンクと読むのだ。 もう一つ言うと、それもオランダで割と有名だったサッカー選手、フリット。彼のことを調べようとした時も苦労した。「フ」で始まるから、FあるいはVのところを調べたが出ていない。実はこれもGから始まる名前だったのだ。書くとGullitであるが、そんなの日本人には想像できるか! 因みに、Vの発音も澄んだFの音になるので、これも最初違和感があった。あの有名な画家ゴッホもオランダ流発音は「フィンセント・ファン・ホッホ」としか片仮名表記できない。日本で言い慣わしている「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」という表記は実際の発音からは程遠い感じがする。 つい、話が大きくそれてしまったが、本題に戻ろう。 「奇妙な地形(1)」でもご紹介したが、ここヒートホーンでは昔泥炭を掘り取った後に出来たボーベンワイド(Bovenwijde)という大きな水溜まりとその水を排水するための水路を観光にうまく活かしているのである。実際、そこには3000人程度の人が生活をしていながら、自分たちの住居の周りの水路から観光客に自由に見せているのである。見る方も、見られる方も、実にあっけらかんとしている。排水のための水路が村を縦横に巡っており、その水から少しだけ(ほんの少しだけ)高い陸地の部分に昔ながらの茅葺の民家(それも古民家というべきか)が立っている。いずれの家もきれいに手入れされ、家周りの貴重な地面は庭としてきれいに緑に覆われて、花壇なども作られている。おとぎ話にでも出てきそうな風情さえ感じられる。ただし、それらの家々を結ぶ道路は殆ど見あたらない。言わば、水から少し顔を出している浮島のようなところに皆それぞれ住んでいる格好だ。どうやって生活しているの?心配にさえなる。主な交通手段は、水路を走る舟である。その水路を行くと、たまに家と家とを連絡する水路を跨いだ木製のアーチ状の橋がかけられているところもあるが、いわゆる道路で結ばれているわけではない。 訪れる観光客は、この村の入り口付近の駐車場に車を止め、水路を行き来する小さな観光用のボートで村の中を巡る。 「オランダの小さなベネチア」、水と住居の関係から言えばそう言えなくもない。日本なら、水郷ということになろうが、やはり生活するにはかなりの不便さが付きまとうのではなかろうか。前述のレーウワイクでは細いながら対面通行こそかなわないが、一応車で自分の家まではたどり着ける道路があるが、ここヒートホーンではそれもない。なんという徹底ぶりか。それがむしろ、この村の「売り」なのだろう。

十男14歳日記 昭和38年2月4~7日

誤字・脱字・意味不明・理路不整然、しかも下手な字。信号機もない、塾もない、家庭教師とも無縁の田舎の中学2年生の日記。公開する勇気が“恐い”。(日記は原文のまま)  2月4日 月 雪 毅兄へ手紙出す 大雪である。昼からの休みにバスケットを初めて試みた全然上手ではないが仲々おもしろいものである。まだルールを完全に完成していないのでよく分からないが覚えて行こうと思う。夜、父が意地をはって「俺は当選したから嬉しいで」と言っておられたがこの前の夜はのんで情けないと言っておられた。めったに言わない父である「良かった~~」の連発である。父の心は良くわかる。いや僕にも計り知れない苦しみがあるのだ。「いいからいいから」の調子で進むことを望むだけだ。今日書取のテストがあった。医療の療の字を尞と書いた。最高九十八点はいきそうである。直今日のは二十七回公民館で「かわなみ-ン」をかる。 2月5日 火 晴 日直 本文略 2月6日 水 晴後雨  本文略 2月7日 木 晴 すっかり雪もやんだ為か夕夜一時頃なったサイレンはなだれの事故であった。山根下の山根敏さんたかの家が高さ百米の所から雪なだれがしてつっこみ寝ていたおっさん、長男、嫁、子供二人計五人が生き埋めになった。死亡された。下校中現場を見るとおもちゃ、家具などあちこちに。「無残」であった。その取材の為 各方面から飛行機で飛んで来て計十一機が来る始末であった。誠に恐いものである。これをきっかけとして匹見町も今日は雪かき。皆さんも無事に一生を送りたいものですね。ハイ ソレマデヨ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 誤字・脱字・意味不明・理路不整然、しかも下手な字。信号機もない、塾もない、家庭教師とも無縁の田舎の中学2年生の日記。公開する勇気が“恐い”。(日記は原文のまま) ***************** 吉原和文

シンゴ旅日記インド編(67)ビザ更新

インド駐在2年目となりました。(注 この日記の記載事項は過去の出来事です。) インドの雇用ビザ、労働許可は今まで一年更新でした。 日本人駐在員は日本に帰国しビザを延長して再赴任し、こちらで労働許可を再取得していました。 昨年、日本人駐在員の間で雇用ビザの延長が帰国時に東京の領事館が受け付けないけど大阪の領事館なら更新してくれるとか、その逆とか、またはインドでしか延長できないとかちょっとした騒ぎになりました。 各地の日本人会から日本大使館に報告が行き政府間で雇用ビザの延長はインドで行うこと、期限は今までの一年から最高3年まで認めることで決着しました。 インドの省庁にとってのビザ延長の費用という利権に対する分捕り合戦がインドと日本と言う国を跨いであったのでしょうか。 今年になってその問題は下火になりました。 私の雇用ビザ/労働許可も4月が期限でした。 現地で延長すべきですが、4月から駐在員事務所から法人化することを理由に日本に帰国し新法人の雇用ビザを取得して再入国しました。 今回は2年期限の雇用ビザがもらえました。 ただし、その後のビザの延長はインドですることと記載されています。 インドに戻ってから今度は労働許可証の取得=外国人登録の手続きです。 昨年の外国人登録は簡単に済んだのですが今年は違いました。 外国人登録はビザに記載があるように入国後14日以内に行う必要があります。 私は3月下旬の水曜日にムンバイに入り、翌日の木曜日の午後に事務所のあるプネに到着しました。 私の会社の総務担当に早く登録手続きをするよう指示しました。 しかしその週は出勤日が翌日の金曜日しか残っておらず何も手続きをしませんでした。 翌週になると総務担当が登録手続きは昨年と大幅に変更になったので、新しく書類を取り直す必要があると言って来ました。 しかし、その週は法人化に伴い資本金の入金や登記手続きがあり忙しいので次の週に外国人登録の手続きをすることにしました。 次の週の月曜日は祝日でした。 水曜日が入国から2週間の私の登録期限になります。 総務担当に登録に行けるのは火曜日と水曜日の2日間しかないが大丈夫かと念を押しました。総務担当はインド流に問題ないと首を横に振り、火曜日で登録を終了しますと言い切りました。 登録手続きで昨年と変わったのは ① 入国して24時間以内にホテルあるいはアパートのオーナーから宿泊人あるいは間借り人であるとの証明書を取得すること、 ② ②居住地の警察で在住証明書を発行してもらい、それらの証明書を添付し外国人登録を行う ということでした。 総務担当が言うように登録期限の前日である火曜日に登録が終了すると考え、水曜日午後から客先を回り金曜日にプネに戻りそして土日を過ごして、次の週の月曜から水曜日までまた出張することにしました。 新たに必要になった書類のひとつである間借り人証明書は私の入国後24時間以内に取れませんでした。 と言うのは、私が借りている部屋のオーナーはアメリカに住んでいて、管理は親戚に任せているためです。でも何とか管理者の署名を貰ってきたようです。 もう一つの警察の在留証明書がなかなか取れませんでした。 総務担当は警察から期限前日というか私の登録予定日の火曜日の夕方に来いと言われました。 そして夕方に一緒に警察に行くと今日は担当官が帰ってこないとのことです。 そして私の申請の期限となる明日(水曜日)は警察の行事があるので処理ができないので木曜日に来てくれとのことでした。 私は火曜日に登録を済ませるつもりでおり、水曜から金曜まで出張予定にしていたのでプネにいないと説明しました。 そうしたら出張から帰った土曜日に来てくれとのことでした。 おいおい、それでは水曜日の期限に間に合わないではないかと思いました。 総務担当は警察の都合でと登録が遅れたので到着後14日以内のルールを守らなくても許してくれると言いました。 それで期限内登録はあきらめました。 きっと領収書のない支払いで解決するのだろうなと腹をくくりました。 出張から帰り、土曜日に警察へ証明書を貰いに行きました。 これまた、担当官不在で証明書がもらえませんでした。 そちらで土曜日の10時に来いと言っておいて何事かと思いましたが、ここはインドとあきらめました。 担当補佐は明日何時に担当官が来るか連絡するのでその時に書類を渡すと私に付き添った運転手に担当官の携帯番号を教えました。 翌日曜日です。朝11時に運転手から電話があり、警察から今すぐに来いと連絡があったので直ぐに迎えに行くとの連絡がありました。 二人して警察に出向きました。 事務所に入ると相変わらず担当官は不在で昨日と同じ担当補佐の人から言われました。 『今日は日曜だけどおまえのためにわざわざ出て来たのである』(運転手の通訳) そして封筒に入った証明書を渡されました。 それを受け取り運転手と一旦掘立小屋のような事務所を出て、駐車場に戻りました。 私は運転手に聞きました。『一体いくら払えばいいのか?』 運転手が答えました。『2千ルピーです。』 彼はまた一人で警察の事務所に引き返し支払いを済ませてきました。 そして入国から14日を超えてしまった4月のある日に外国登録を行いました。 登録時間は午後3時から5時までなのです。 まず、午前中に総務担当が一人で登録局に行き私のアパートの遅延登録の根回しです。 そこで領収書のもらえないお金8000ルピーの支払があったと連絡が入りました。 そして午後は正規の登録です。 私も出向きました。入国後14日を越えた登録のため正規の遅延料のUS$30相当のルピー貨を払って手続きが終了しました。 今回はお金がいろいろかかりました。 また、今回は私の登録だけでなく、その前の週に赴任してきた増員者も同時に外国人登録を申請しました。 彼は初駐在であり、ホテル宿泊なので書類は直ぐに作成できました。 しかし、もめました。 外国人は年収がUS$25,000.-なければ承認できないと言うのです。 つまり、インドでの現地給与が10万ルピー(20万円)/月以上なければ登録承認できないと言うのです。 私の現地給与は10万ルピーとしたので問題がなかったのですが、日本人スタッフの現地給与は生活費の安いインドでの受け取りを少なくし、また新会社の費用負担を少なくするために現地給与を10万ルピー以下にして雇用契約書を作成していたのです。 登録局の役人さんはその雇用契約書をみて外国人最低年収ルールに違反しているとしたのです。 こちら側の言い分は日本のインド領事館では雇用ビザを発行してくれたのに、なぜプネでは労働許可が下りないのかと食い下がりました。 しかし、大使館と労働局ではルールが違うようです。 結局、日本人駐在員の現地給与を増やして10万ルピー/月として許可を取ることにしました。 この外国人最低年収US$25,000ルールは昨年の11月に出来たルールです。 これは中国がODAでインドの港湾整備建設などをしており、そのため大量に入って来る中国人労働者を追い出すためのルールのようです。 中国は他の国にもODAで資金+労働者を提供しています。 私の会社へは二人目の増員者がその翌週に来ました。 雇用契約書を作り直し、即座に申請しました。 そして入国後2週間以内の木曜日に申請に行ったのですが、受け付けてもらえずに戻ってきました。 理由を聞くと登録局で待っている間に停電となりコンピューターが止まったため処理できなかったとのことでした。 そういえば木曜日はプネ市の電力メンテ(停電)の日でした。 翌金曜日はGood Fridayで祝日結局月曜日に申請となりました。これがインドなのです。 丹羽慎吾

新加坡回想録(27)世界の駐在地ベスト3

シンガポール(Singapore)は赤道直下の国のため1年中夏の気候で日本のように四季がありません。熱帯気候ばかりが強調されるものの、日本人駐在員にとって、治安、医療、教育、食事など家族生活全般に亘って他の駐在地と比べると非常に恵まれたところで誰もが希望する駐在地でした。当時、世界に数ある駐在地の中で、シドニー(Sydney)、サンフランシスコ(San Francisco)と並んで”世界の駐在地ベスト3″=”3S“のひとつと言われていました。 人が生活する上で大切なこととして「衣食住」とよく言われますが、その前にもっと大切なことがあります。まず、治安の良さは日本人駐在員にとって最も大事な要素と言えます。世界には、政治や宗教、民族など歴史的に長きにわたって治安の悪い国が依然として少なくなく、そのような国に駐在することは仕事とはいえ大変なリスクを伴います。従って、治安の問題があるような国には家族同伴ではなく単身で赴任することが多いです。 次に、医療事情も重要な要素になります。健康な人でもいつどこで病気なるかもしれません。まして外国には日本では考えられないような病に罹ることもあるので注意が必要です。怪我や病気をしたときに信頼できる病院があれば一応安心できますが、世界にはまだまだ医療事情に問題がある国がたくさんあります。当時、インドネシアの駐在員が健康診断のためにシンガポールに来ていたことがありました。 教育面でいうと、当時、シンガポールには世界で最大の日本人学校がありました。日本人学校小学部及び中学部では、文部科学省の学習指導要領に基づいた教育を受けることができ大変恵まれていました。多くの海外駐在地には日本人学校のないところも多く苦労された方もいると聞いています。当時は、日本人幼稚園と高校はありませんでしたが、私が帰国した後に、幼稚園も高校もできたようで更に環境はよくなっています。 さて、「衣」はシンガポールではほとんど心配は要りません。極端に言うとTシャツと短パンがあれば生活できます。むしろ、いろいろなファッションを楽しむということが出来ないことを嘆く日本人女性がいるくらいです。我々も、秋から冬にかけてセーターがいらないことにある種の寂しさを感じたこともあります。 「食」についても、シンガポールは文句のつけようがありません。現地の料理で問題ない人は非常に安くあげられますし、少々高いのを我慢すれば、世界各地の料理が楽しめる環境にあります。日本から大手デパートや一流料理店も進出しており日本料理も十分楽しむことができます。むしろ、日本ではあまり行かない(行けない?)ような高級料理店にも(仕方なく)家族で出かけることもありました。 このように、「世界の駐在地ベストスリー(3”S”)」といわれたシンガポールに駐在できたことは非常に幸運であったと思っています。 (西 敏)