荻悦子詩集「時の娘」より「城」

城 風化が進行する高い城壁 ひと群れ 菊科と思われる草がとりつき 橙色の花を咲かせている 肋骨交夜穹窿 堅固な梁でドームを支え 高く より高く 鈍化への烈しい希求 絶対を求める精神は 血まみれの手を要求した 嫌悪 憎しみ 一切の感情が漂白され 相手が人でなくなる一瞬 動物を縊る 玩具を壊す 新教徒の夥しい死体が 胸壁をはみだし 城門にも吊り下げられた 切りそろえられ 積み上げられた無数の石 少しずつ 少しずつ 欠け 崩れ 四百年は かつての人間の縛り首の場 裏手の城壁のアーチ型装飾を消した 城壁の頂上近く ひと群れ 橙色の草花 ふえ続けるがいい 土の塊と化した 胸壁 城門 びっしりと橙色の花で 埋め尽くされる朝 その早春の朝の空   荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

追憶のオランダ(33)奇妙な地形-1

オランダの地図を見ていると奇妙な地形があることに気付きます。10万分の1の縮尺の地図であれば、それははっきりと分かります。そこは水であることを示す青色で塗られていて、○○Meer(メーア), △△Plas(プラス)と 書かれています。池か、沼か、はたまた湖かと思われるのですが、その形が何とも奇妙なのです。広い面積の水の中に細い紐のような道が見えるのです。下のReeuwijk(レーウワイク)の地図をご覧ください。 Reeuwijkは、チーズで有名な Gouda(ハウダと読みます、日本ではこの地名がついたチーズをゴーダチーズといいますが。)の近くの小さな村です。その青く塗られた中に見える奇妙な紐のような細いものは確かに道ですが、その道幅は車が一台通れるだけのものなのです。その奇妙な道に車を走ることになったのは、筆者が漆を習っていた先生のお宅がこの地図の右端に見える Oukoop(アウコープ)の先にあったからなのです。毎週土曜日ロッテルダムから通っていたのです。初めてこの細い道を走った時は、路肩の崩れやすそうな様子にちょっと不安な感じがしたのを思い出します。しかも、この道は一方通行ではないのです。もし対向車が来たら、そのままではすれ違えません。さて、どうするのか。道のところどころ(ほんとうに所どころ)に、待避所のようなものが設けられていて、車がお互いに出くわすと、おそらく「とても親切な人」か、「気の弱い人」がそこまでバックで下がって対向車をやり過ごすことになります。しかし、この道をバックで待避所までさがるのは、下手するとかえって脱輪しそうで、これまたとても怖いのです。したがって、向こうから対向車があると分かれば自分から早めに待避所に入って対向車をやり過ごして、対向車のいなくなったのを確認してから進むのが安全です。また、この道は、両側が水というところが結構多く(この地図で青いところはすべて水です)、その水面は路面から数十センチあるかなしかなので、風の強い日などは、両側から水がバシャバシャと路肩を洗い、路面をも簡単に乗り越えてきて、一瞬道路が全く見えなくなることさえあります。 ある晩秋の嵐の日、行きはまだよかったのですが、夕方の帰り道は最悪の状況になっていました。その時はさすがに心細さを通り越して恐怖さえおぼえたものです。この時期オランダでは日の暮れが早く既に辺りは真っ暗闇、明かりというのは自分の車のライトだけ。今思うと、何だか Stand by me の歌い出しのようでもありました。この道には街灯もなく完全な無灯火なのです。唯一の明かりである自分の車のライトも吹きつける雨のためフロントガラス越しには滲んで、視界は一層悪くなっていたのです。「どこが道だーー!」と思わず一人で大声で叫んでいました。この道に乗り入れてしまった以上、ゆっくりでもいいから前に進むしかない。後ろに下がっても問題は解決しないばかりか、より危険。ということで、四苦八苦の末になんとかその場を切り抜けることができました。このあたりに住むオランダ人でさえ時々路肩から脱輪して車ごと水没することが度々あるそうです。筆者のこの先生も、また近くに住む先生の友人も車を水没させ、結局、新車を買わざるを得なくなったとか。 しかし、そんな場所を観光名所にしている地域もあり、オランダ人はなかなか商魂たくましい。この地形ですが、もともとはライン川に下流に出来た低湿地に太古の時代から生えていた植物などの堆積物から出来た泥炭を燃料として長年掘り採った後の窪地に水がたまったものなのです。したがって、溜まっている水は植物のタンニンが溶け出して褐色をしています。「クラーリンゲンのお化け屋敷」でも書きましたクラーリンゲンプラスというのも「クラーリンゲンの水たまり」ということなのです。それと、現在は水こそ溜まってはいませんが、オランダには□□veen(フェーン)という地名がたくさんありますが、例えばアムステルダム郊外で近年発展している町Amsterveenなども昔は泥炭を掘った後なのです。ということで、その一帯は掘り取った分だけ周囲よりは地面が低くなっています。しかし、土地が低い割には全くジメジメはしていないところが面白いところです。

末っ子十男 命名の怪

私は農家の十男。きょうだい全11人の末っ子。長女が生まれて以来、男が十人、私はそのトリ。今なら「テレビ番組の大家族特番」だ。姉兄とは母親父親ほど年齢が離れており、すでに上8人は黄泉に旅立った。 進学時の申請書や会話の時に「十男」と知った時の相手の反応が一番興味深かった。ニヤっとする先生や友達が多かった。「お前んとこ、にぎやかでいいなぁ」と羨む人もいたがそれは少なかった。もし両親が「もう子供作りはそろそろ」と理性的?な判断した折には、今のボクは存在しないので改めて両親に感謝、感謝だ。 昭和23年(1948)暮れ瀕死状態で産まれた。「産めよ増やせよ」の時代から戦後まで産み続けた40歳の母体は耐えられなかったのだろう、羊水が流れ、産声も出なかったという。命はなんとか一週間持ち命名の日、祖父が「顔はあんまり可愛くない(いらぬお世話)し、もし生きたとしてもまともに育たないだろう。しかし、最低限、自分の誕生年ぐらい言えなければ。昭和23年だから「和二三」・かずふみ・でどうだ」と提案した。何ともいい加減な命名だが事実そうなった。 出生届け役の叔父に窓口の人が「和二三」では可哀想です。読みは「ふみ」なので「文」にしたらどうですか」と進言、そして戸籍は「和文」になった。父親の承諾もえずOKした叔父も叔父だが変更させた窓口も役所らしからぬ“越権”だった。  問題は「和文」になった事を肝心の本人に知らせていなかったことだ。当然、自分を「和二三」と信じ小学校に入学した。1年生の1学期の終業式の日。 「吉原君、どうして自分の名前をいつも真面目に書かないの?」と担任女先生。 「えっ?和二三と書いとるけぇ、なんでいけんの」 「あなたの名前ここに書いてありますよ」 先生からもらった通信簿の名前欄を指差した。「和文」とあるのを見て本人は目を丸くした。 「先生、これが僕の名前ですか」 先生「そうだけど・・・・・?え“っ~~ッ?なんで――っ」 今度は先生が目を丸くした。 短い命だろうと思った子が無事に学校に入るまでになったことに産婆さんはじめ親族や集落のみんなも驚いたという。だが自身の正式な名前を知った時の驚きはその比ではなかったと自分では思う。 (吉原和文)

シンゴ旅日記インド編(その56)寅さん 天竺を語るの巻

お兄ぃさん、ちょっと声をかけさせてもらってよろしゅうござんすか。 さっきからお見受けしていますと、こんな飲み屋の食いモンを旨そうに食べておられますが、そんなに旨いもんでございますかね?えっ、久しぶりの日本の飲み屋なんで、何を食べても旨いもんだらけだっていうんですかい。へぇー、そんじゃ、どこかよその国にでも住んでいらっしゃるんですかい?えっ、インドですかい?遠いところでございますね。 まあまあ、お近づきのしるしに一パイやっておくんなさい。 ええ、あたしゃ、さっきからビール一本で、結構、出来上がってましてね。けっこう毛だらけなんでございますよ。おばちゃーん、シイタケの焼いたやつ頂戴。 お兄ぃさん、インドと言いなすったんですよね。インドと言やぁ、天竺(てんじく)、天竺と言えば三蔵法師、そして孫悟空でござんすな。それに沙悟浄、猪八戒の西遊記でございますね。孫悟空と言えばエノケンさんのオペレッタ西遊記、面白うございましたよ。死んだ親父が兄貴とあっしを浅草に連れて行って見せてくれましたよ。戦争が始まるちょっと前の昭和15年でしたかね、確かあっしが4つくらいの時でございました。歌い手さんは確か李香蘭さんでしたよ。 お酒が入ると昔のことをしっかりと思い出すもんでございますなあ。 でも天竺と言えば唐土(もろこし)の中国でございます。中国ではインドのことを天竺と書く前には『身毒』とか書いたそうでございますね。そして次に『印度』でございますよ。インドの川の名前をね、あれ、その~、そうそうインダス川って言うんですかい、それを声に出して言って、漢字に当てはめたんでございますのでしょうね。あれっ、インドにはインダスじゃなくって、ガンジスって言う川が流れているんじゃありませんでしたか。チャラチャラ流れるガンジス川ってね。 えっ、何でございますか、インドではみなさん立ちションベンをされてるって言うんですかい。 そりやあ、いいやね、立ちションベン良くぞ男に生まれけりってですかい。 ええ、日本でもね、ちょいっと前まで女の人でもやらかしたもんですよ。おばちゃんがちょっとかがんだなと思ったら、ぺロットお尻をまくって用を足したもんでございますよ。ですから四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋なねえちゃんたちションベンてなことを申したんでありますよね。 おばちゃ~ん、おばちゃんも若い時はそうだったよね。えっ、そんなことは知らないって、それに今でも若いっておっしゃるんですか?お見それしやした、じゃ、ビールをもう一本頂戴。 お兄ぃさん、でもホテルでは西洋式の便所が多いじゃありませんか、あれでございますよね、あのパタンパタンとフタを開けるやつ、何て言うんでしたっけ、そうそう、風邪薬と同じ名前のやつね。ありゃ、いけませんや。あたしなんざぁ、こう、しっかりと腰を落とさないと何か、用を足した気になりません。モノが全部出て行った気がしないんでございますよ。それにあたしぁ、早飯早糞芸の内って申しましてね、じゃがんだって思ったら、スーッと出て行ってしまうんですよ。この前なんか用を足す前にケツ拭いちまいましたよ。えっ、おばちゃん、可笑しい? そう言えば、昔の日本人はね、世界に三つの国しかないと思っていたんでございますよ。 日本、唐土、天竺のこの三つなんですよ。ですからね、昔しゃ、とびっきりの美人や嫁さんを褒める時にね、『よっ、三国一の美人』とか『三国一の花嫁だぁー』とか言いやしたもんですよ。 天竺って言やぁ、そりぁー日本から遠―い国のことと考えられておりやしてね、オランダの国から入って来たダリヤの花なんかも『天竺牡丹』なんで言ったそうでございますよ。えっ、インドのチェンナイってところに『天竺牡丹ダリア』って日本の居酒屋があるんでございますか?旦那がかなり年季の入った日本人で、奥様が日本語ペラペラのインドのご夫人ってんですかい。へぇー。 また、天竺って言やあ、あたしたちバイ仲間ではインド木綿のことを単に『天竺』って言うことがあるんですよ。 それにあのモルモットのことを『天竺鼠』って言うんだそうですな。なんでもオランダが昔、南米からヨーロッパに持ち込んだ時にリス科のマーモットと間違えたというんでございます。それでね、モルモットは実験台に使われますから他人に利用される方のことも『あの人は天竺鼠だ』って言うそうですよ。えっ、大阪の吉本というところのお笑い芸人に天竺鼠っていうお名前の人がいるってのですかい。へぇー、そいつぁ、知らなかった。 そいでね、笑っちゃいますのが、天竺を『唐(から)過ぎる』に掛けまして、『辛すぎる料理』のことを言うんだそうですね。『天竺みそ』、『天竺ひしお』なんてぇーのがあるそうでございます。 日本には天竺っていう屋号のカレー屋さんも多うござんすね。 そういやぁ、富山に天竺温泉ってぇーのもありましたね。あそこのかみさんにね、一時惚れちゃいましてね。しばらくご厄介になったもんでございますよ。天竺川ってもたしかありましたよ。 えっ、柴又の帝釈天様はインドから来られた神さんですかい? わたしゃ漢字で書くから、てっきり唐土の神様かと思っていましたよ。 お兄ぃさん、インテリだね。おばちゃん、サバの照り焼きある?えっ、ないの。 インドの女(おなご)さん方は日本の男をどう思っているんでしょうね。ヤマト魂とか、サムライのように思っているんじゃ、ございませんか?えっ、インドの女性はみな西洋を向いているってですか?そんでもってインドの女性は外国人と結婚する場合は西洋の男が多いってですか、逆にインドの男性は日本の女性と結婚したいっていうのが多いのですか?へぇー。あっしが毎日取り扱っておりやす、統計の本にはそのようなことは書いてありませんでした。   天竺の人は肉を食べないんですってね。ヘェー、牛が神様のお使いなんですかい。それで牛を食べないんですかい。そりゃ、ようござんすね。肉なんてものは西洋人の食べるもんでやんすよ。日本人は肉なんてちょっと昔までは食べていませんでしたよね。義経や謙信や信長がステーキ食べて戦争したって聞いたことがありませんや。 おばちゃん、イカの天麩羅を、もう一皿頂戴。 お兄ぃさん、この『天麩羅』の由来をご存知ですかい? 天は天竺、麩は小麦粉、羅は薄い衣を表すんでございますよ。 まぁ、天竺から来た浪人が売る小麦粉の薄物って言う意味なんでしょうな。 江戸時代の戯作者が名付けたらしいんですよ。『天婦羅』って書くのは当て字だそうです。 なんでもね、この天麩羅ってのは、室町時代に入った来た料理らしいんでございます。ポルトガル語とかスペイン語が基になっているとも申しやす。たいしたもんでございますよ。たいしたもんだよかえるのションベン、見上げたもんだよ屋根屋のふんどしでございますね。 おばちゃ~ん、この天麩羅はころもばかりで身がないよ。   丹羽慎吾

新加坡回想録(15)映画

シンガポールはよく文化のない国といわれます。文化のない国などあるはずがない、大なり小なりあるはずだと反論する方もおられるでしょう。考えてみるとどちらも正しい一面があります。要は、何をもって文化と定義するかの問題です。 ただ、歴史の長短がひとつのポイントになることは間違いないでしょう。まず単純に、独立して半世紀しかたっていないシンガポールでは所謂、長期間に亘って醸し出される民族伝統の文化が育つ素地はありませんでした。 国民は、中国、マレーシア、インドというそれぞれが長い歴史を持つ国から流れてきた人々が大半です。彼らは元いた国の文化を持ってこの国に来ましたが、その文化を自分達の民族社会で引き続き守っています。シンガポーリアンとしての文化はまだ育っておらず、これから何年もかけて新しい文化を作っていくことになるのでしょう。 たとえば映画の事情を見てみましょう。シンガポール人は映画が大好きです。映画館も充実していて、あちこちにありとにかく安いのがうれしい。聞くと最近は、9ドル(750円)~13ドル(1100円)程らしいですが、35年前は、2ドル(240円)~4ドル(480円)でびっくりするほど安かったのを覚えています。おまけに、ハリウッド映画が日本より早く来るケースも多く、もう見たよと言うのがちょっとした自慢になったこともあります。 ただし、字幕は中国語字幕で日本語字幕はありません。英語をよく理解できなくて何度も同じ映画を見た人もいました。そうでなくても好きな映画なら何度も見ることがありますから安いことはこれ以上ないメリットでした。 ハリウッドをはじめ、ヨーロッパ、日本、香港、台湾、インドなど世界中の映画を見ることには事欠かないのですが、地元の制作会社作った映画と言うのは聞いたことがありませんでした。映画製作の盛んな国と言うとやはり大きな人口をかかえているという背景があります。比較的安いチケットで大衆が楽しめるようにするためには、やはり多くの観客を対象にしていなければ採算が取れないのでしょう。たかが数百万人の人口では事業として見合わないということです。 ただ、シンガポールは当時既に発展途上国から先進国の仲間入りを果たした国でしたから、国民はそういった文化、特にエンターテインメントを楽しむ余裕は充分出来ていました。おそらくこの30年の間に事情は大きく変わっていると思います。最近の事情をご存知の方は是非教えていただきたいと思います。 (西 敏)  

荻悦子詩集「時の娘」より「湖」

湖 160年あまりも昔 ひとりの詩人が 湖を眺めにかよったという丘の上 記念碑のそばに座ると 黄色い野の花がそよぐ草原の先に 浮かびあがる湖 鈍い灰青色の湖面 ぽつりぽつりと小舟の帆 突風に襲われた病身の女性を 救った青年詩人の舟 秋から冬へ 保養地での二十日間の出会い それをしも愛と呼ぶか 白く咲く桜 萌えでたばかりの木々の若葉 対岸は うっすらと銀色を帯びてけむり 修道院を包む斜面の林が いきなり湖へ ** 湖水の鈍いきらめき 離れていく白い帆 絶えず変容していく幻影  (恋歌は書けなかった) ひんやりと冷たい夕暮れの風が 野の花を揺らし 湖に浮かぶ帆を さらに遠くへと運ぶ すでにあなたではない 誰でもない わたしのなかのあなた  (愛はもっと苦手だ) 丘の上の樹陰の石碑 ひえてくる レリーフの詩人の横顔 刻まれた詩句 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

追憶のオランダ(32)KLMのおまけ

オランダのナショナル・フラッグ・キャリアのことを日本ではKLMオランダ航空と呼んでいますが、KLMの正式名称 Koninklijke Luchtvaart Maatschappij にはオランダという国名はついていません。逐語訳すれば、王立航空会社というだけのこと。しかし、民営の会社で、「王立」の名称の使用が許されているという航空会社なのです。英語名にして、初めてRoyal Dutch Airlinesということでオランダの会社ということがわかるのです。 私はオランダ勤務時代それほど頻繁に飛行機を利用することはありませんでしたし、利用するにしてもほとんどがエコノミークラスでビジネスクラスに搭乗することはそれほどありませんでした。KLMはビジネスクラスに搭乗すると、必ずあるものがもらえるのです。それは、オランダの17世紀頃の建物を模したデルフト焼きの小さな瓶なのです。左の写真をご覧ください。各ページの左に見えるのがその瓶です。その中には私が今も愛飲するオランダのスピリッツ、BOLS社のジュネーバーが入っています。瓶自体小さいので封を切るとほんの一瞬で中身はなくなってしまいます。一番最初にそれをもらった時は、「なーんだ」くらいに思っていましたが、帰りの便でもう一個形の違うものをもらいました。それで隣の客を見ると、これまた違う形の瓶をもらっています。その後、KLMのFlying Dutchmanというメンバーに加入して分かったのですが、このジュネーバーのはいったデルフト焼きの瓶はKLM名物のコレクションアイテムになっていたのです。何十個も、オランダ各都市で有名な実在する建物を模したシリーズ物になっていたのです。私がいた頃は70数個のコレクションになっていました。聞くところによると、かなりのファンがいて、お互いダブっているものを交換する会などもあるようでした。それ以降、できればビジネスクラスを利用できることを期待もしていましたが、残念ながらそれほどの数にはなりませんでした。 ある時、メンバー向けのサービスとして、それまでに作られた全建物(瓶ですが)を網羅し解説をつけた小冊子を無料で配布するということで、すぐに申し込み入手することが出来ました。右の写真です。どの町の、どの通りにある、何という建物か、何年に建てられたか等々詳しく記されているものでした。上の写真は中の解説をしたページです。 しかし、日本に帰国するまでに集まったのは、たったの9軒ですが、今我家の食器棚の中で他の食器類と同格にオランダの街並みを再現して並んでいます。アムステルダムなどの運河沿いにずらりと並んだ建物と同じように。それにしても、なぜ5往復分10軒ではなく、9軒(4往復とあと片道分)になったのか・・・。

シンゴ旅日記インド編(その55)インド駐在員の話の巻

昨年の正式赴任前にインドに出張し日系企業のお客様にご挨拶して回りました。 その時に駐在員の皆さんからお聞きした話です。 こちらからの質問は単身赴任なので次のようなものでした。 『食事はどうしているか?』 『掃除はどうしているか?』 『休日はどうしているか?』 『会社の特別手当はどうなっているか?』 『帰国休暇はどうなっているか?』   メーカーの工場長:休みの日に自分のアパートの部屋をメイドに掃除してもらうって? とんでも無い、休みの日くらいはインド人の顔を見たくないのだよ。 毎日会社で顔を見ているだけで十分だよ。   メーカーの総務担当:駐在員の皆さんはそれぞれにこだわりがありますよ。 歯ブラシ、歯磨き粉。シャンプーとか。 インド製では駄目で皆さんが日本に帰国したときに買って来られますよ。   メーカーの主任さん:子供が大学生と高校生で教育費の支払い、住宅ローンの支払いが まだあります。お金が掛かるのです。 ここは特別手当が出るので単身赴任で我慢しているって感じです。   銀行の次長さん            :私はミラノ、ドバイに駐在しインドに来ました。 今回は家族は日本です。私は単身赴任です。 自分で言うのも何ですが、料理を作るのが好きなのです。 毎日自分で作った手弁当です。今日は『すき焼き弁当』ですよ。 日曜日に作り溜めをしておきます。冷凍しておけば結構長持ちしますよ。   メーカーの部長さん:バンコクに次にいつ行けるのかを楽しみにしています。 タイとインドは天国と地獄です。 タイはマッサージもあるし、居酒屋もあるし、DVDもあるし。 そして買ってくるものは玉ねぎと生卵です。 大きな冷凍庫がアパートにあります。 そこに保存して置くのですよ。 こちらの玉ねぎは硬いのです。それに小さくて柔らかくないのです。ここの卵は生では怖くてとても食べれませんよ。 唯一インドが好きだと言われた方がいました。 プネ在住9年間の東京外語大学ヒンディー語出身の方でした。 東京と大阪に違いはありますが、私も外語大出身ということで話が盛り上がりました。 でもこの方はタイの大学に招待されていて、そこでインドのヨガ哲学を講義されております。 プネにいるのは年に2-3ヶ月のようです。 奥様は日本人です。お会いしたときはサリーを召されていました。 短時間のお話でしたので、話題がコロコロ変わります。コ―ヒー・ショップでの昼の会話です。 ここ2-3年ですよ、インドが注目されて来たのは。 この前もNHKが放送すると言うので私にインタビューに来ました。 それまではインドに住んでいるというと変わり者扱いでした。 でも面白いですよ、インドは。 政治はなんといっても国民会議派が面白いです。 またインドはアーリア人が征服したと言われていますが最近の研究ではそれが違うという学説が出てきました。 3大財閥のうちタタはペルシー(ペルシア人)、つまりゾロアスター教なのです。 貧民救済、慈善事業を社会貢献と考えています。 リライアンスはグジャラティ商人で、株主に貢献することが社会貢献としています。 ビルラはジャイナ教です。ラジャスタン州のマルワ-ル商人です。 インドと日本の間で時間的、空間的に宗教、文化、言語がどのように伝播していったかに興味があります。現在はタイの大学でヨガ哲学を教えています。 日本に帰国した時は帰りに中国や台湾に寄って調べています。 インドネシアのヒンズー教、言語にも興味ありますよ。 インドネシア語やその文化について今度教えてください。   上記の他に私が赴任した時にこんな話も聞いたことがあります。昔のインド駐在員で帰国時に空港でチェックインした後は見送りの人に振り向きもせず一目散に飛行機に乗り込んだ人がいたというのを。   そして今、私は赴任二年目を迎えました。先日デリーの日本大使館、ジェトロの人たちとお話をする機会がありました。そこの若い人たちはインド大好き人間が多かったのです。希望して二回目の駐在をしている人もいました。インドは変わりつつあります。デリーなど大都市ではもう昔の不便さはなくなってきたのでしょう。   私も好きになりました。モヘンジョダロ、ガンダーラ、ゴダイゴ、モンキーマジック、あれっどっかで違ってしまいました。インドって知れば知るほど面白い国ですよ。   丹羽慎吾

新加坡回想録(14)半袖スーツ

シンガポールは赤道直下の熱帯の国です。その暑さは半端ないものなので、服装は当然それに合わせたものになります。休日ならTシャツに短パンで充分で衣装入らずということもできますが、それが却って、ファッションを楽しむことができないと嘆く女性もいたようです。 その分、家でも事務所でもエアコンをガンガンに効かせている場合が多く、しかもそのエアコンは当時冷やし過ぎを調節できないものでした。半袖でいると寒くなるので事務所では、カーディガンを着たり長袖のシャツを着ているのが一般的でした。外でも強烈な紫外線を避けるためには長袖の方がよかったのです。 ただ、初めて会うお客さんに上着無しのシャツにノーネクタイでは失礼だと思った時に便利なものがこの半袖スーツでした。シンガポールやインドネシア、マレーシアの駐在員は大体一人一着は持っていたようです。アンダーシャツにこれを着てノーネクタイでいると割合と過ごしやすかったように思います。 日本でも一時、当時の羽田首相が着て話題になりましたが、その後人気が出ず結局はすたれてしまったようですね。今は日本でも夏場のクールビズが当然のようになっていますが、それでも未だにノーネクタイはダメと言うところは多いのでしょうか。IT企業などを中心に、働きやすい事務所環境とともに、服装も自由になってきているのはいいことだ思います。 (西 敏)

荻悦子詩集「時の娘」より「白馬」

白馬 内海の白浜を 疾走する白馬 ざわめき揺れあがる おまえの豊かなたて髪は 波よりも優美な白銀の流れ 砕ける波頭よりも繊細な 瞬時のきらめき カマルグの原野 潮のさす沼地に戻れば おまえの仲間とともに 闘牛の牛たちも放たれている 複数の人間に痛めつけられ 地に膝をつく牛 とどめを刺す更に別の人間の小刀 血はほとばしらない 角に縄を回しかけられ 首をねじり 顎を空に 敗惨の牛 それを引くのはおまえの仲間 鈴を鳴らす二頭の馬 牛が六頭 次々に あっけなく殺されていく田舎の闘牛場 五頭目の牛の時 私は念じた 柵など飛び越えてしまえ すると どうだろう その牛はほんとうに柵の外に躍り出た 闘牛士たちは総出で走りまわり 場所ならぬ場所で緋の布がひるがえった 海水を浴び尾をはねあげる白馬よ おまえには トロンボーンに合わせて行進し 闘牛の開始を知らせる姿は似合わない 黒ずくめのピカドールを載せる馬にもなるな 首をさしのべ 曇天を見上げ そんなにも典雅な足を運びで 牛と鷺の群れる沼地に帰っていくな 稲妻 鋭い閃光が いま さあ その精悍な四肢を思いきり蹴あげ ひと飛び 空へ 次第に近づいてくる不気味な雷鳴 草が乱れ散る 水鳥が騒ぐ おまえが顔を埋めた一面のひなげし その堤も もはや崩れる すさまじい雷雨が湿原を裂く さあ空へ 天空へ たて髪をぼうぼうと振りたて いまこそ 天翔ける白馬 手綱も鞍もない 光るその背には 私を 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。