シンゴ旅日記インド編(その52)帰りは怖い茶壷の巻

子供の時の遊び歌で『遠りゃんせ』と『ずいずいずっころばし』の歌詞がずっーと気になっていました。神社は怨霊を鎮めるために作られたと言われています。なぜ帰りが怖いのでしょう? 『ずいずいずっころばし』は左手で作った穴に右手の人差し指を入れます。何か卑猥な意味があるのでしょうか?  (とおりゃんせ) とうりゃんせ とうりゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ ちょっと通してくだしゃんせ 御用の無いものとおしゃせぬ この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ 7歳までは神の子、昔は乳幼児の死亡率が高く、7歳に無事になったことを祝い、生まれた時に貰ったお札を天神様に返しに行きました。行きは子供で帰りは責任ある大人と言う意味でしょうか。この歌の発祥地は埼玉県川越市の三芳野神社(807年創建)と言われています。 祭神はスサノオとクシナダヒメ、菅原道真、ホンダワケノミコト(応神天皇)を祀ります。 天神様が城内にあったので入る時はお札があり本人確認ができますが、帰りはお札を納めたため何も確証がないので城内を探った間者ではないかと厳しく検問を受けたため、帰りは怖いと唄われたようです。別に怨霊ではありませんでした。 ちなみに『からすの子』で、からすは山に、かわいい七つの子があるからと言います。 7匹の子でしょうか7歳の子でしょうか?それとも答えは、からすの勝手なのでしょうか。 (ずいずいずころばし) ずいずいずっころばし、ごまみぞずい、 茶壷に追われてとっぴんしゃん、ぬけたらどんどこしょ。 俵のねずみが米食ってちゅう、ちゅう、ちゅう、ちゅう おっとさんが呼んでも、おっかさんが呼んでも行きっこなあーしよ 井戸のまわりでお茶碗欠いたのだあれ 茶壷とは将軍が飲む宇治の新茶の入った信楽焼の壷です。その茶壷を大名行列みたいにして宇治から江戸に向かって運ぶ『お茶壷道中』と言うのがありました。 この歌の意味は沿道の庶民がこの将軍様へ献上するお茶壷行列を見てはいけないので慌てて家に入り、戸をぴしゃりと閉めて、ゴマ味噌を舐めてじっとして、一行が去った(抜けた)後はドンドコショと遊ぼうという歌です。ジットしているためネズミが米を齧る小さな音が聞こえたり、慌てたために井戸で洗っていた茶碗を落として欠けさしたのです。 でも童謡には『かごめ、かごめ』のように鶴と亀がすべるなど意味不明のものがまだあります。 これって『ツルっと、甕がすべって転んだ』という意味ではないでしょうね。

新加坡回想録(11)シングリッシュⅡ

前回、シングリッシュについての特徴や、どのようにしてシングリッシュが生まれたのかを私の推測を含めて紹介してきましたが、今回は、実際に使われている場面や考え方について少し捕捉したいと思います。 【代表的なシングリッシュの例】 シングリッシュの例として私が気にいっているものに次のような使い方があります。 あるお店での会話。 ——————- 客 :Discount, Can?(安くできますか?) 店員 : Can!              (できますよ!) 客   :Can?              (本当に?) 店員:Can, can!         (もちろんできますよ!) お分かりのように ”Can” だけで会話が成立している好例です。このような会話は、お店だけでなく事務所でも街中でもあらゆるところで実際によく耳にします。どうでしょうか?日本人にとっても分かりやすく、これなら英語が苦手と言う人でも簡単に会話できるのではないでしょうか。 他にも語尾に「ラ」を付けて、”Can lah” ”OK lah” (「できるよ」「いいよ」という意味)という表現も頻繁に使われています。この「ラ」は私は、中国語の「了(ラ)」から来ているのではとずっと思っているのですが、確かめたことはありません。 シンガポール人のシングリッシュと英語の使い分け シングリッシュは長らく、外国人に理解されない間違った英語だとみなされてきました。リー・クアンユー元首相をはじめ政府は、シングリッシュを「シンガポール人に負わせてはならないハンディキャップ」とし、正しい英語を話すよう国民に呼びかけてきました。 現在シンガポールのテレビなどの公共放送では、シングリッシュの使用が禁止され、一般的な英語で放送が行われています。政府のこうした働きかけにも関わらず、シンガポール人は自分たちならではの言語として、シングリッシュを好んで使い続けてきました。私見ですが、今やシングリッシュの使用は、文化がないと言われるシンガポールでこれこそが一つの文化であると言っても過言ではないかもしれません。 親しい友人との日常会話はシングリッシュで、ビジネスなど改まった場での会話は正しい英語で、というように使い分けるシンガポーリアンが多くなったようです。また、同じ民族の人との会話にはシングリッシュと中国語、シングリッシュとマレー語のように、シングリッシュと自分たちの母語をごちゃ混ぜにして使うことも多くあるようです。使い分けることができるということは正しい英語も話せるシンガポーリアンが増えたという証拠でもあるのです。 以上のようにみてくると、どんな言語を使おうと相手ときちんと意思疎通ができれば問題ない、というシンガポール人の言語に対する柔軟な考え方が感じられます。先に書いた ”Can”  だけで会話が成立する例など、笑い話のようでもあり、揶揄する人も多いですが私自身は嫌いではありません。むしろ、異文化のひとつとして聞いていて楽しくなります。 政府の熱心な正しい英語教育にもかかわらず、そして使い分けも出来るにもかかわらず、依然としてシングリッシュを使い続けている様子を見ていると、これは私の勝手な解釈ですが、このシングリッシュこそが多民族で構成されるシンガポーリアンのアイデンティティなのではないかと思うのです。 (西 敏)

フランスあれこれ(17)フランスのマイスター

まず右の写真をご覧ください。古いアルバムで見つけたものですが、1995年のステンドグラスのアトリエで撮影したものです。 アトリエでは新しい作品が完成するとシャンパンを抜いてお祝いをするのが慣習となっていました。作品の制作者が招待するので正確には内祝い、或いは新作の披露宴という事でしょうか。この日も当日の出席者10名くらいが集合したと思います。しかし作品はなく写真の二人からのご招待だったのです。 「暫くの間でしたが息子がお世話になりました。この度中学を卒業、新しい世界に旅立つことになりました。将来の夢パティシエを目指して南仏の専門店に勉強に行くことになりました。」非常に仲の良い親子でした。子供の方はちょっとした小物を作っていましたが、それなりの作品で、親子の会話も作品に関するもので、時に子供が父親にアイデアを話すようなこともありました。それにしてもこの年で親元を離れ、しかもとても日帰りも出来ない遠方にと思ったものでした。 この留学について色々話が出たのですが一言で言えば丁稚奉公(使用禁止用語?)で、この表現が一番ぴったりだと思います。彼らは盛んにメイトル(Maitreフランス語でマイスターを意味する)と言う言葉を使っていましたが、そんな制度がフランスにもあったのか!と言うのが正直な印象です。三食付きで住み込み、しかも無給だと言います。いや逆に無償で技術を貰うのだと言う印象すら伺えます。この親子はお父さんが学校の先生らしい。子供の成績や希望を聞いての決断だろうと思います。日本と比較して隔世の思いです。 二人が帰ったあとマイスターの話しを聞くことが出来ました。ドイツではしっかりとした制度になっている様子。しかしこの制度が出来るまでは職人と師弟の間の不和があり、職人が組合を作って共同で対処、これに対し弟子の方はある程度腕が出来た段階で職人(師匠)から離れ、時には流浪の旅に出て自分の腕を確かめ、時には新しい師匠を見つけ更に上を目指す、或いは新しい独り立ちの環境を見つける。しっかり確かめたわけではないが師匠を継ぐとか、暖簾分けのような環境は全くないという事。流浪の旅のあとしっかり自分の腕を磨き元の師匠の隣に店を開き、強引に自分で暖簾を勝ち取った例もあるとか。かくして専門店街が出来、お互いに切磋琢磨して繁盛したというハッピーエンドの話も。 以来約25年、坊やも今や40歳前後、フランスのどこかで、いやパリの一角で一流のパティシエとして頑張っていることと信じます。 この間ドイツのマイスター制度も進化して我が国でもしっかり知られる制度になっていることはご存知の通り。 フランスにも呼び方は異なるがマイスターに近い制度があります。上級技術免許(通称BTS)で、高等教育をベースとした国家資格でちょっとドイツの制度とは異なるようです。フランスで習ったステンドグラスの先生も国立高等工芸美術学校(通称 Ecole des Metiers)のステンドグラス科の卒業と聞いています。 ところで皆さん、「川崎マイスター」と言うのをご存知でしょうか。私の知人の一人も川崎マイスターなのですが、どういうことでこの称号を貰われたのかご本人に伺うのを躊躇しています。  

荻悦子詩集「時の娘」より「塊あるいは魂」

塊あるいは魂 手を触れるだけでばらばらと落ちる小さな舟型をした緑の植物 の塊 地に落ちた肉厚の塊のひとつひとつが残らず根を出し 朽ちて行く古い塊の先には見る間に数個の芽が花びら状に寄り 合って吹き出す おびただしく殖え続ける塊 もう五年もそれを見てきた おび ただしく殖え続ける肉厚の塊に侵食されて私の肉は次第に削が れて行く 何度目かの雨の後 舟型の塊をびっしりと付けた中心の茎は蛇 のようにくねり出しさえした 塊と書こうとして何度も魂と書 いてしまう私は思う 私の肉がそがれていく分 私の魂が増殖 するのだ この植物の殖え方のようにむくむくと重く醜く 帰れない もう戻れない ふうわりと私の魂が帰るはずだった 場所 杉・樫・椎の木々のくらがり 雛壇状に配列された幾十の石塔 幼くして逝った者の丸い墓石 苔が覆いもう刻字も読みにくい 地蔵型の墓石 その並びのなかに あれは会ったことのない父 の母そして父の妹 細い道を隔てて他に一家系の墓所があるのみの深閑とした斜面 茅をかき分けて坂を降りれば刈り場に続き やがて 川  幹に空洞を抱えて何百年を生きた杉の枝にそっと止まって 辺 りの草木を数えていたかった 緑の塊の陰に蛇苺の花に似たあせた黄色の見ばえのしない花を 見つけた夕暮れ 私は手あたり次第その植物を茎から手折って ダスト・ボックスに投げ入れた 小さな舟型をした植物の肉厚 な塊は乾いた音を立てて八方に飛び散った ダスト・ボックス の中でもすぐ芽を吹きそうで私は急いで蓋を閉めた 私が折り返し 棒の如く土に立っていた折れ茎は 二2週間後 ひとつ残らずその先端に赤色を帯びた粒状の芽を吹き出した 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

追憶のオランダ(28)パナクック

パナクック (Pannekoek) って何だろう? これは小麦粉をベースにして焼いた薄いお菓子で、日本でも一般的なホットケーキあるいはパンケーキの先祖で、オランダではこう呼びます。ということで、一度パナクックなるものを食べてみようと専門にやっている店に行き、メニューを見て、一瞬、おやっと思いました。ホットケーキはバターとメープルシロップをかけて食べるものという既成概念を持っていたため、メニューに書いてあることが信じられなかったのです。小麦粉で焼いたものの上にトッピングとしていろいろな果物を乗せるところまではそれほど無理なく理解できましたが、さらにチーズ・ベーコン・ハムなどちょっとお菓子に組み合わせるにはどうかと思えるようなバリエーションがいろいろ書いてあるのです。もちろん、テーブルにはオランダでは定番のストロープ・シロップという甘いシロップも用意されているし、粉砂糖も置いてあります。これらは好みによって出されたパナクックに振りかけるものです。 いざ出て来たものは、筆者が考えていたパンケーキよりもはるかに薄くペラペラの感じで、しかも直径が30cm前後もあろうかという大きいものでした。じつは、何がお勧めかと店員に聞いてベーコン・チーズ・パイナップルをトッピングしたものを注文したのです。なんという取り合わせとは思ったのですが、食べてみると意外や意外、これはお菓子の類ではなく、腹持ちのする軽食そのものだと感じました。あまりにホットケーキというお菓子の頭があっただけに驚きと同時に新しい世界を味わいました。このようなパナクックを食べさせる店はあちこちにあり、オランダの国民的な食べ物だということがよく分かりました。余談ですが、私が初めてパナクックを食べたデルフトの広場に面した店には、アメリカの大統領ビル・クリントンが来て食べたと、店の壁に写真が貼りだしてありました。 大きなパナクックとは対照的に、ポファチェス(Poffertjes)という極小の一種のパンケーキがあります。材料はパナクックとほぼ同じ、小麦粉・卵・牛乳ですが、パナクックは大きなフライパンで焼くのですが、ポファチェスは大きな鉄板に浅いくぼみがたくさん空いたタコ焼き器のようなものに流し込んでやいたものです。タコ焼き機のくぼみは半球ですが、ポファチェスのものはそれよりずっと浅いのです。注文すると十数個のポファチェスが皿に盛られてその上に粉砂糖がたっぷり振りかけられています。これも結構腹に溜まりますが、これはどちらかというとホットケーキのようにおやつにいいお菓子です。

シンゴ旅日記インド編(その51)ジェットストリームの巻

小学生の時に岐阜の田舎で始めてFM放送を聴きました。 今まで聞いていた中波放送のガチャガチャした番組と違い、時間をゆっくりと使い、 コーヒーを片手に都会の人の会話が続き軽音楽が流れていました。 コーヒーカップがソーサーと当たるカチャ、カチャという音が聞こえました。 なんて田畑の風景とはかけ離れた都会的な番組だろうと思いました。 私にとっては大きな驚きで、それこそ別世界でした。 私も都会にあこがれる年頃だったのでしょうね。   そのFM放送の中でもご存知ですか『ジェットストリーム』という深夜番組を。 長寿番組でした。FM東京で1970年4月26日に始まりました 元は東海大学の実験局であったFM東海で1967年から試験放送として流れていたようです。 私はジェットストリームをFM東海で聞いたのですね。 その『ジェットストリーム』の詩をネットで見つけました。 音楽も映像とともに見ることができました。 都会にあこがれていた子供の頃に戻りました。 まずはあの城達也さんの定番の台詞から。   『遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、 はるか雲海の上を 音もなく流れ去る気流は、 たゆみない宇宙の営みを告げています。 満点の星をいただく、はてしない光の海を ゆたかに流れゆく風に 心を開けば、 きらめく星座の物語も聞こえてくる 夜の静寂(しじま)の、なんと饒舌なことでしょうか。 光と影の境に消えていった はるかな地平線も瞼(まぶた)に浮かんでまいります。 日本航空があなたにお送りする音楽の定期便 ジェットストリーム 皆様の夜間飛行のお供を致しますパイロットは 私、城達也です。』 上記のナレーション以前に使われていたのは次の詩でした。 『太陽が沈んでから、もう随分時が流れました。 昼間の騒音と埃に汚された時間は、 すっかり宇宙の果てしない暗黒の中へはき出され、 今、私たちの周りを音もなく流れている時間は 高度1万メートルの空気のようにフレッシュです。 地球の自転によって成層圏で起こる壮大な大気の流れ、ジェットストリーム。 その神秘的な永久運動さえこの純粋な時間の流れの中では、 夜の潮騒のように私たちの身近に迫ってまいります。 これからの1時間、日曜を除く毎晩、日本航空があなたにお届けする音楽の定期便 ジェットストリーム 皆様の夜間飛行のお伴をいたしますパイロットは私、城達也です。』 そしてエンディングです。 『夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは 遠ざかるに連れ次第に星の瞬きと区別がつかなくなります。 お送りしてますこの音楽が美しくあなたの夢に溶け込んでいきますように・・・。 ではまた午前零時にお会いしましょう。 おやすみなさい。 日本航空がお送りしたジェットストリーム そろそろお別れの時刻が近づいてまいりました。 皆様のお相手は、わたくし、 城 達也でした。』 そして城さんの最終回の1994年12月末の放送です。 『日本航空がお送りいたしました、ジェットストリーム、 そろそろ、お別れの時間が近づいて参りました。 皆さまのお相手は、わたくし、城 達也でした。 25年間、わたくしがご案内役を務めて参りましたジェットストリームは、 今夜でお別れでございます。 長い間 本当に、ありがとうございました。 またいつの日か、夢も遥かな空の旅でお会いいたしましょう。 そして、来年(1995年)1月2日からは、装いも新たなジェットストリームが旅立ちます。 夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、 遠ざかるにつれ次第に星の瞬(またた)きと区別がつかなくなります。 お送りしておりますこの音楽が、美しくあなたの夢に溶け込んでゆきますように。 では皆さま、さようなら。よいお年をお迎えくだい。』 このナレーションの作詞は堀内茂男という人の散文詩です。 城達也さんは放送終了後2ヶ月後の1995年2月25日に食道がんで亡くなりました。(享年63歳)。 このジェット・ストリームは40年以上もJALの単独提供番組でした。JAL再建のため2010年6月にイオンとの2社体制になり、ナレーターも五代目になったとネットには書いてありました。 最近はJALに乗ることもなく、FM放送も聞いていませんので私にとってジェット・ストリームは過去の番組なのです。

新加坡回想録(10)シングリッシュI

シングリッシュとは、シンガポールとイングリッシュを合わせた造語で、シンガポールで話されている独特な英語のことをいいます。シングリッシュはイギリス英語をベースにし、そこにシンガポール国民の母語である福建語やマレー語、タミル語など複数の言語が混じりあって生まれた言葉です。 シングリッシュは「ブロークンイングリッシュ」「なまりがひどい」「文法的におかしい」などと揶揄されることも多いですが、多民族・多文化国家であるシンガポール人の間でそれなりにコミュニケーションの手段として機能していると言えます。 シングリッシュの特徴 英語のわかる人がシングリッシュを耳にすると、最初全くの他言語だと思ったり、何を言っているのかまったくわからず面食らうことが多いようです。その原因のひとつは、次のようなシングリッシュの持つ独特の発音にあるからです。(以下、若干、私自身の推測も入ります。もし間違いがあるようでしたらご指摘ください) ・単語の最後の音が消える シングリッシュでは、単語の語尾にある子音が発音されず消えてしまいます。たとえば ”People’s Park” の発音は「ピープーパッ」と発音され、極端に言うと「ピポパ!」と聞こえます。 “No Need” (要りませんの意味)は「ノニッ」というような発音になります。 これは福建語や広東語など中国南部の方言に見られる現象で、マレー語にも同じような特徴があります。シンガポール人の大部分がこれらの地域の言語を母語にしているので、その特徴がシングリッシュに出ていると思います。勿論、きちんとした英語や米語を学んだことのない人の場合です。 ・ “th” の発音が “t” や “d” になることがある 通常の英語では、”th” は舌の先を上下前歯の間に軽く挟んで「スー」に近い音になります。しかし、シングリッシュの場合、「考える」という意味の “think” は「ティンク」と “t” の音で発音され、「彼ら」という意味の “they” は「デイ」と “d” の音で発音されています。この例は、和歌山県の一部で、「ぜんぜん」ということを「でんでん」という例があるのと少し似ています。 ・文章のリズムや強弱のつけ方に中国語の影響がある 通常の英語は、単語と単語の間をあまり空けず、流れるように発音する特徴があります。たとえば “I like it” を「アイ ライク イット」とは言わず、「アライキット」のように繋げて発音します。しかしシングリッシュの場合には、一語一語をしっかり区切って発音することが多くな多い。このことは英語の不得意な日本人の発音にも同じことが言えるでしょう。 ・一つの文章の中で音を上下させて、複数の強弱をつけて発音する これは一音ごとに声のトーンが変わる「四声」を持つ中国語の発音の特徴が出ていると思われます。文章全体のリズムも、中国語でのリズムに英単語を乗せているように聞こえることが多くあります。 シングリッシュの文法上の特徴 シングリッシュでは、英語本来の文法を大胆に単純化することがあります。これも、日本人が単語を並べて何とかしようとしている姿がダブります。 ・動詞の変化が少ない 過去形、未来形など時制による動詞の変化がない。たとえば “I meet him yesterday.” のように、時制を表す副詞やほかの単語を一緒に使うことで “I met him yesterday.” のように動詞を過去形に替えることをしません。これはまさに中国語やマレー語の文法に則しているように思えます。 ・3人称単数の主語の場合でも、動詞の語尾に “s” が付かない ・主語や to be動詞 などを省略する ・名詞を複数形にしない ・同じ言葉を繰り返す  同じ単語を2回3回と繰り返し使って、「強調」の意味を持たせる。これも中国語やマレー語の特徴を受けていると思われます。(因みに京都ことばでも「大きい大きい」と繰りかえしで強調することがあるのと似ています。) ・文末に「ラ」や「マ」をつける シングリッシュと言えば「OKラァ~」というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。シンガポール人が語尾に多用する「ラ」は “lah” や “leh” という綴りになり、「ラァ」と少し伸ばすような発音になります。この「ラ」自体にあまり大きな意味はなく、日本語の「~だよ」「~ね」に当たる音だとされています。 ~シングリッシュ(下)につづく~ (西 敏)

荻悦子詩集「時の娘」より「ハチソン街・秋」

ハチソン街・秋   Ⅰ スーパーマーケットでクッキーを手にしたら 腰の曲がった老女がすり寄ってきて 濃い紅の口元をもぞもぞさせたが ベリ・スウィートしか聞きとれなかった あの老女が帰っていく先は 歩く人の足元に窓が開く地下室か ―――一人暮らしの私の老母は もう一年も掃除をしません 猫をたくさん飼っているので すさまじいものです どうすればいいのでしょう――― ―――精神分析医にお見せなさい――― 画家が古い建物を細密に描き写している ハチソン街の信号のそば 地下室の窓の内側で レースのカーテンが閉まる Ⅱ アントニオにはドラスティックな姉がいる 昨日 フェルナンドがそう言った 髪を洗いながら反芻する ドラスティックな姉 ドラステシックな姉がいる 文法あやしく語彙力乏しい彼らが 常に雄弁であるとはどういうことか アントニオはペルーからやって来た 動詞の変化もあいまいだが 大学に入りたいらしいのだ フェルナンドは頭髪の薄くなったメキシコ男 スイスの経済学士を持っているのが自慢だ ハーバードでドクターを取るのだと 言い放つ彼らのタフネス 河口の町で トーキョーで ドラスティックな姉ですらなかった私よ 髪は今日もさっぱりと洗い上がらない Ⅲ 窓の金具をはずすと 一枚のガラスが鎖の長さだけ中に傾き 淡い青い空が見える 洗面所の窓から外を覗くと パリの裏町の地理がよくわかったという N先生の言葉がふっと浮かぶ ここには迷路はない 平行に並ぶ街路の表と裏 未舗装の裏道のガレージの入り口 ガーベッジの収集場所 激しい州選挙戦が展開されていると 新聞やテレビは報じているが ポスター一枚見かけないハチソン街 埃っぽい草の上を リスがちょろちょろ走る Ⅳ ピーターは「ともだち」のマリーを連れて現れた 厳重に包まれた袋の中にバラが数本 雪ににじんだカードには ピエールとマリーより フランス系のマリーと暮らし始めて ピーターはもはや絶対ピエールなのだ ―――選挙にはケベック党に勝って貰いたい――― オタワのカレッジに入るまで 英語をしゃべったことがなかったマリーと ケベック州で生き抜くには フランス語が必須であると思い始めたピーター アルバムに花嫁衣裳の写真を見つけて ―――わたしの夢――― マリーがつぶやくと ピーターは気のない笑い方をした ガレージが暗い口をあけている夜の裏道に 粉雪まじりの風が吹いて 気温は一挙にさがって行く 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。  

追憶のオランダ(27)不思議な醤油瓶

ある土曜日の午後、デルフトの運河沿いにたくさん並んだ骨董市を覗きながらブラブラ歩いていると、胴の張った銚子のようでもあり、一輪差しの花瓶のようにも見える陶器製の奇妙なものが目に止まりました。手に取ってみると、これまた何やら妙な手書きの文字が書いてあります。NIPPON SHOYUとアルファベットで書いてあるのはちゃんと読めますが、後は漢字の形を真似て書いたらしい漢字にはなっていないものが書かれています。明らかに、漢字を知らない人がそれらしく書いたのがすぐに分かりました。物好きだと自分自身も思いながら、興味本位ですぐその場でその奇妙なものを買いました(写真1)。正確な値段は忘れましたが、20ギルダー(1000円強)程度だったと思います。そして、その次に何週か後にまた似たものはないかと骨董市を捜してみると、意外にもよく似た形の瓶で「商標 富士 日本醤油」あるいは「商標 藤 日本醤油」などと青く印刷され陶器製の瓶が見つかりました(写真2・3 )。 江戸時代、長崎には醤油・酒などの輸出組合(コンプラと呼ばれていた)があり、波佐見焼の陶器製の瓶(写真4)に入れた醤油や酒などを輸出していました。瓶の表示は「JAPANSCHZOYA」とか「JAPANSCHZAKY」となっています。私が見つけた2つのものは明らかにそれとは違います。特に、「商標 富士」と書かれたものは、日本に商標制度が出来てから以降のものであるはずなのです。因みに、日本に商標制度ができたのが1887年(明治17年)ということなので、それ以降に作られた瓶ということになります。実際、その後も骨董市ではいくつか似たものを入手することが出来ましたので、やはり明治期以降はいくつかの醤油製造業者が各自の商標で輸出していたようです。 さて、最初に見つけたちょっと怪しい醤油瓶ですが、商標をつけて取引されていたものを意識的にコピーする形で日本以外の漢字が読み書きできない国の何者かがいわゆる海賊版として販売していたのではないかと疑われます。また、商標を使うことは遠慮したのか、書かれている手書きの文字様のものからは、「本場」という漢字を書こうとしていることが窺えます。また醤油の「醤」の文字が形になっておらず、結果として日本人から見れば実に不思議なデザインになっている瓶なのです。つまり、この瓶を使って醤油らしきもの(?)を販売していた者、またそれを買う者にとっては、NIPPON SHOYUとさえ正しく書かれていれば、後の漢字は雰囲気だけで別に正しくなくてもよかった。それらしい単なるデザインだったのかもしれません。 しかし、一体どんな人物・組織がかかわっていたのか?少なくとも日本人ではなく、さらに漢字を正しく読み書きできる国の人間ではないことだけは確かでしょう。オランダかどこかヨーロッパの国の者で、日本から醤油を輸入すれば売れる、儲かることを知っていた者ということが推測されます。果たして、内容物が本当の醤油だったかということさえも疑わしくなります。この謎は未だに解けてはいません。しかし、正体不明のまま、その怪しげな瓶は20年以上も我が家に鎮座しています。   写真1 写真2 写真3 写真4 江戸時代のコンプラ瓶 写真1・2・3は拡大できます。  

シンゴ旅日記インド編(その50)インドの航空会社の巻

インドの航空業界は1991年の経済開放から自由化が進んでいます。 しかし競争が厳しくなり、かつての国営会社エア・インディア、インデァン・エアラインズは多額の債務を抱え政府の管理下に入っています。あれっ、日本もそうでしたっけ。 民間航空会社が乱立しており、生き残るため機内サービスを有料とする格安航空会社が増えて来ています。 エア・インディア(AI):かつての国営航空会社。国際線がエア・インディア、国内線がインディアン・エアラインズ(IC)に分かれていました。2007年に合併し、エア・インディア一本になりました。かつての国有航空会社だけにインド各地に細かい路線網を持っています。しかし、お役所仕事的でサービスは今ひとつのようです。 ジェット・エアウェイズ(9W):1993年から運行開始。民間航空会社の草分け的存在かつ最大手です。拠点はムンバイ。国内42都市とバンコク、シンガポール、香港など海外18都市を結んでいます。2008年からANAと提携しムンバイへの共同運航便を就航。エア・インディアを追い上げていました。最近はキングフィシャー社に人気を抜かれています。保有機台数77機。 ジェット・ライト(S2):1991年サハラ・エアラインとして設立。2000年にエア・サハラに社名変更。2007年にジェットエアウェイズが買収し、ジェット・ライトに社名変更。格安航空会社。 国際線はジェットエアウェイズの路線に引き継がれた。デリー、コルコタ、ムンバイ、チェンナイを中心に国内26都市を結んでいる。 保有機数28機。 キングフィッシャー(IT):ビールで有名な財閥(United breweries社)が2004年に設立。国内線を就航して以来、質の良いサービスと低価格で急成長し、もっとも人気のある航空会社になっています。拠点はバンガロールです。2005年には同じくバンガロールを拠点とするエア・デカン(2003年設立、格安航空会社)を吸収しました。ロンドン、バンコク、シンガポール、香港のほかにドバイ、コロンボ、ダッカの国際線もあります。ジェットエアウィズを追い抜きインド第二の航空会社となりました。また航空会社の格付けでもシンガポール航空、キャセイ航空と並ぶ五つ星です。保有機台数66機、エアバス380を5機発注済(2014年納入予定)   インディゴ(6E):2005年設立。 2011年1月にインド政府から国際線の運航権が与えられた。シンガポール、バンコク、ドバイ、マスカットを予定。同月エアバスA320neoを150機発注しました。   スパイスジェット(SG):2005年設立。オンライン予約で低価格航空券の販売を売りにしている。ムンバイやチェンナイを中心に国内18都市を結んでいます。2010年10月からカトマンズ、コロンボに運航し国際線に進出しました。ボーイング737-800を200機、同900を5機所有     ゴー・エア(G8):2005年設立。国内のみで18都市に運航。A320を10機所有。   以上のほかにエアインディアにより2005年に設立され、中近東を中心にインドと結ぶ国際線を運航するエア・インディア・エクスプレス(IX)があります。