シンゴ旅日記インド編(その48)言葉遊び・神様の巻

江戸時代から伝わる言葉遊びから日本の仏様、神様を見てみます。 『恐れ入谷の鬼子母神、そうで有馬の水天宮』 鬼子母神の元はインドのハーリーティと言う女性神です。音読みし訶梨帝母(かりていも)とも呼ばれます。最初は人や馬の肉を食べるという女の鬼(夜叉)でした。 ある町でこの鬼に子供が食べられるという事件が続き人々が釈迦に惨状を訴えました。 その鬼には子供が500人とも1000人とも居ました。釈迦はその鬼が一番可愛がっている末っ子を托鉢の鉢の中に隠してしまいました。すると鬼は7日7晩捜しあぐねて釈迦に助けを求めにやって来ました。そこで釈迦は『お前は子供を一人でも失って悲しいのであるから人々の悲痛さが分かるだろう』といって隠していた子供を返してあげました。その後この鬼は仏教に帰依し安産と育児の守護神である鬼子母神になったのです。 鬼子母神像はシンボルとして豊饒を表す柘榴を持っています。 奈良時代に伝えられたこの神さまは平安時代に貴族の間に子供の守護神として信仰され、 鎌倉時代には法華経の守護女神として日蓮宗の中で大きく広まって行きました。 水天宮はご存知水と子供を守る神様です。水難除け、農業、漁業、海運、水商売で信仰されています。犬が出産を簡単に行うので戌の日にお参りしたり、妊娠五ヶ月目の戌の日に腹帯を巻くのです。江戸にはその水天宮が有馬藩邸の中にあったのです。総本社は福岡県久留米市です。水天は神仏習合で日本のアメノミマクリノカミ、クニノミマクリノカミと同一視されました。 この日本の神は子供と関係が無かったのですがミマクリが『みこもり』(御子守)に通じ子育ての神様となりました。 日本の神様ってここでも語呂合わせ、シャレで祀られるのですね。水天は梵天、帝釈天と同じく仏教に帰依したインドの神様で、十二天の一人で西方の守り神です。 イランのゾロアスター教では水天はアフラマズダという最高神です。 ゾロアスター教は古代ではアーリア人の宗教でしたそして現代のインドではパールシ(ペルシャ)教として信仰されています。その教徒にはインド財閥の一つのTATA一族がいます。 『堪忍信濃の善光寺』 『牛に引かれて~』の善光寺は長野にある無宗派の寺院です。 天台宗と浄土宗により運営されています。 このお寺にあの朝鮮の聖明王から538年に欽明天皇が頂戴した仏像(一光三尊阿弥陀如来像)が祀ってあると言うのです。この仏像は欽明天皇が蘇我稲目に預けていたのですが、その後、都に災いがおこり廃仏派の物部氏により川に捨てられていたのを信濃国司の従者の本田善光と言う人が拾って長野に持って来たという由来があるのです。 戦国時代末期には信長が岐阜へ、秀吉が京都へ、家康が尾張へ持って行き1598年にまた長野に戻って来たといわれています。 この仏像は絶対秘仏で住職も見ることができません。そのレプリカとして前立本尊金銅阿弥陀如来像があり、7年に一回ご開帳されます(次回は2016年です。) 『伊勢屋稲荷に犬の糞』 江戸の町に沢山あったものの例えです。頭に『火事 喧嘩』が付くこともあります。 『伊勢屋』とは大阪商人、近江商人と並ぶ伊勢出身の商人のことです。 伊勢商人は戦国時代から木綿を主体に全国に販売して財を築きました。 そして、家康の江戸開府とともに江戸の町にやって来ました。 伊勢商人では三井家が1673年に創業した呉服屋越後屋が有名です。 なぜ、伊勢商人が越後を名乗るのか? それはこの三井家が代々越後守を名乗る武家だったのです。 江戸幕府のご用達となり、今では映画、ドラマで『越後屋、お主も、なかなか、、、』と言われ悪徳商人の代名詞のように使われます。 この越後屋は明治に入り呉服店では儲からなくなり、他のグループ会社(銀行、物産、鉱山)に大きく差をつけられ三井の事業から切り離されました。 1904年から百貨店として営業し、1928年に社名を三井呉服店から『三越』としました。 同じく伊勢と名の付く『伊勢丹』は米穀問屋『伊勢又』に養子に入った小菅丹治が命名した『伊勢屋丹治呉服店』(1886年創業)が省略して呼ばれるようになったものです。 その伊勢発祥の大手百貨店2社が平成になって合併するのは何か歴史を感じますね。 『稲荷』は伏見稲荷の祠のことです。元々渡来人の秦氏の氏神です。 農業神、食物神だったものが商売繁盛殖産興業に結びついて行き屋敷神ともなりました。 江戸には武家屋敷にも稲荷神の祠があったそうです。 稲荷はインドの人食い女神ダキニ天と神仏習合しました。 住友商事が製作協力した映画『憑神(つきがみ)』(2006年)も稲荷神絡みです。幕末の武家の次男坊がフリーター状態の時に開運を稲荷に祈ったところ、間違えて貧乏神、疫病神、死神に取り付かれてしまう話です。『鉄道員(ぽっぽや)』『蒼穹の昴』の浅田次郎の原作です。 伊勢屋の旦那が出てきます。でもそれは死神でした。西田敏行が好演していました。 『犬の○○』は説明省略します。綱吉の生類憐れみの令も関係してくるのでしょうね。きっと。 『焼餅や こがしゃかとなる 摩耶夫人』 これは、焼餅を『焦がしたら硬くなる』と『子が釈迦となる』をかけた言葉遊びです。 『摩耶さん』はお釈迦さんのお母さんです。 『七福神』余談 七福神の出身国はインド(大黒(シヴァ)、毘沙門、弁才天)、中国(福禄寿、寿老人、布袋)、日本(恵比寿、大黒)です。アジア三大国・神様連合ですよね。 中国には八仙人信仰があります。ジャッキー・チェンの『酔拳』と言う映画は『酔八仙拳』が基です。八仙人のお酒の飲み方、酔い方を表し映画化したものです。 また孫悟空と言えば日本では『西遊記』が有名ですが、これには東西南北の『四遊記』からなる物語なのです。八仙人は『東遊記』で孫悟空と一緒に竜王と闘ったりします。

新加坡回想録(7)強い通貨・弱い通貨

シンガポールの通貨はシンガポールドル(S$)。お札は、円よりも米ドルよりも小さめで、一見おもちゃの札のようでもあります。初めて見たときは、何だか「まだまだ発展途上国です。ひとつよろしくお願いします」と遠慮がちに言っているような感じがしたのを覚えています。 マレーシアの通貨リンギット(マレーシアドル)とも何となく似ているのは元々同じ連邦国だったこともあるでしょう。1983年、私が赴任した当時の為替は、1シンガポ-ルドル=120円程度でした、米ドルが240円であったので丁度その半分です。この時のマレーシアドル(リンギット)はシンガポールドルより少し(10%ほど)弱かったと思います。 紙幣のデザインはどうでもよいですが、各国通貨の交換レートつまり為替の動きは非常に重要なファクターでその国が他国と比較して経済発展をしているのかどうかの良い指標となります。私が駐在した5年半の間にシンガポールドルは対日本円で、ざっくり言うと驚くなかれ何と120円から60円になりました。この間、日本円はというと対米ドルで、1ドル=240円から120~130円になっていたのです。シンガポールドルは米ドルにリンクしたように動き、ドル円の比率に従って同様の動きを見せたのでした。 当時日本は継続的に好調な経済を維持しその後のバブル崩壊に向かってまっしぐらでした。シンガポールは独立後まだ20年と経たない発展途上国ではありましたが、他の途上国に比べて驚異的な成長を遂げていました。豊富な国土を持たないデメリットを逆手にとり、外国資本の技術をうまく取り入れ、軽工業から石油精製などの重工業に切り替え、80年代になると土地が不要な金融や観光事業に力を入れました。あの時既にロンドン、ニューヨークに続いて世界の3大金融センターと言われるまでになっていました。(その後香港にその地位を譲ることになりますが) 私が帰国した1989年の後に、シンガポールが隣国のマレーシアと比較して経済発展のスピードを更に速めて行ったことの証しとして、為替レートの推移を見るとよくわかります。ざっくり比較すると次のようになります。 Year シンガポール(ドル) マレーシア(リンギット) 1983 1 1.1 1989 1 1.4 2019 1 3.0   (1983年~2019年:クリックして拡大表示できます)     (西 敏)

荻悦子詩集「時の娘」より~「あの野原」

あの野原 若葉をつけた木々の枝が 大きく揺れている 桜の花びらが 渦を巻いて舞っているわ ほら ゴッホの野のような渦の巻き方 花びらが待っているのに どうして わたし 厚いコートを着たのかしらね あ 花びらじゃなくて 雪だわ 雪が舞っているのよ 雪にしても 背景が萌えたつ若い緑とは どうしたことかしらね かあさま とにかく わたし でかけなくちゃならないのよ アイボリーのブーツを履いて 会いに行くのよ みんなに あの野原で 待っているのよ 舞っているのよ 女の子たち 男の子たち あの胸像も雪をかぶって 輪郭も溶けていくのよ だから そのまわりで 女の子たち 男の子たち 舞い散る雪と踊るのよ からっぽだった わたしたちの空 からっぽだった ぼくらの海 おまえの顔が おまえの体が 雪に埋まって これでわたしたち安らげる これでぼくらも眠りにつける 胸像のまわりで 話すことはたくさん 聞くことはたくさん からっぽだったわたしたちの空 からっぽだったぼくらの海 ここ数年 あなたは何を? ここ数年 きみは何を考えた? またさりげなく あの子には 伝えてやらねばとも思うのよ 秋の日の長い手紙は あれはほんの気まぐれだったと だから とにかく アイボリーのブーツを履いて でかけなくちゃならないのよ 雪も渦巻く 緑も渦巻く 舞っているのよ 待っているのよ あの野原で 女の子たち 男の子たち 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

追憶のオランダ(24)エッシャーのこと

私はエッシャーの不思議な絵(版画)のファンである。もうかれこれ30年近くは経つと思うが、新宿の小田急百貨店で「エッシャーの不思議な世界展(甲賀正治コレクション)」という展覧会があり、そこで多くの作品をみたのがエッシャーにのめりこんだきっかけである。それまで、白い鳥と黒い鳥が夜昼の田園風景の上を互いに行き違う絵とか、水が無限に流れ落ち続けるあり得ない絵を何度となく見ていたし、それぞれ鮮明な記憶は残っていたが、当時は妙な絵を描く人がいるものだ、それにしても面白い・・・と思ったが、作者までは知らなかった。 この小田急での展覧会は、幸運にもエッシャーの膨大な作品を譲り受けることになった甲賀正治という人のコレクションとかで、その時4分冊になって黒い箱入りの豪華な作品集を買った。結構高価でもあった。上の写真は、その作品集と展覧会のチケット。それ以降、無限に反復・拡散・収斂する連続図形の面白さにもひかれ、その類の書籍も随分読み漁り、購入もした。ただ、彼の作品を表現する時に「だまし絵」という言い方をする方が結構いる。しかし、エッシャーの作品は興味本位で見る人を騙すことを目的にしたものでは決してない。むしろ、無限に反復・拡散・収斂する連続の中に微妙な変化が起こってくるその不思議さを明示してくれているものだと思う。 それから数年して、私は何とそのエッシャーの生まれた国に赴任することになったのだ。版画だから同じ作品が何点もある。それでいろいろ調べた。といっても、その頃はまだ今のように便利なインターネットなどは普及しておらず調べるにも苦労した。その結果、ハーグの美術館にたくさんの作品が収蔵されていることを知り、何度も足を運んだ。また、彼が影響を受けたというアラベスク模様の実物を見るためにスペインのアルハンブラ宮殿などにも行って実物を見て、その空間を埋め尽くす発想に驚かされもした。 いろいろエッシャーについて調べていて、さらに驚いたことがある。彼が父親を描いた作品は有名だ、サンバイザーのような帽子をかぶり、右手に大きな虫メガネをもって何か書類らしきものを見ているドングリ眼の老人。この人こそが、明治初期にオランダからのお雇い外国人技師としてその他のファン・ドールン、デ・レイケなどの土木技師の先輩格として日本に来て、淀川・木曽川など多くの河川の改修、あるいは福島の安積(あさか)疎水開削など数多くの日本の治水事業に貢献してくれた、いわば恩人だったのだ。当時は、日本ではエッシャーとは呼ばず、エッセルという呼び名で呼ばれていた。その父親がオランダに帰国して後に、この芸術家エッシャーが生まれている。絵だけでなく、何と不思議な縁で日本とつながっていたのである。 最後に、甲賀正治コレクションにも含まれていないエッシャーの作品を持っているので、ご紹介しましょう。 それは、オランダ最大の百貨店、バイエンコルフの包装紙です。たまたまこの百貨店で買い物をして、包んでくれたのがエッシャーがデザインした包装紙なのです。白と黒で”DE BIJENKORF(バイエンコルフと読み、意味はと言えば、「ハチの巣」のことです。)”と、反復するパターンです。写真上部には1933年、エッシャーが35歳の時、バイエンコルフのためにデザインしたことが印刷されています(拡大できます)。すぐには気付かず、洒落たデザインだな、くらいに思っていましたが、よく見ると何となんとエッシャー作品ではないですか! というわけで、エッシャー関連の書籍やグッズと一緒に今も大事に持っています。

シンゴ旅日記インド編(その47)神様は仏様の巻

日本の仏さま、神さまって面白いですね。 仏さまは仏教ですから実家はインドです。 しかし当時の本流はバラモン教でした、仏教はそれに反発し飛び出して来た新興宗教です。 仏教にはバラモン教の神さまたちがお釈迦さまに帰依してドンドン入って来ました。 そして、日本に来る途中にペルシャや中国の宗教やその神様も取り入れて来ました。 また、日本の神社の神さまたちも奈良時代から始まった神仏習合、本地垂迹により明治維新まで仏様の生まれ変わりとなっていました。 ということは日本の神さまや仏さまたちはインド人やペルシャ人、中国人との混血だったわけですね。 国際化は昔からそして神様から始まっていたのですね。 日本本来と言われる神様がインドのどの仏さまの生まれ変わりだったのかを調べてみました。 (八幡大菩薩) それはUSAから始まったのです。 神仏習合の始まりは大分県の宇佐(うさ)八幡宮です。 伊勢神宮、出雲大社と並ぶ大きな神社だったのです。 主神は応神天皇(仲哀天皇と神功皇后の子、15代天皇)で、元々は海と日(火=鍛冶)の要素を持つ地方の神さまでした。 八幡と名のつく地名は日本中にあり鍛冶関係が多いようです。 この神社は道鏡と関係があります。 聖武天皇(45代)の娘に当たる称徳天皇(48代)に愛された道鏡が権勢を振るっていた時に、この神社の宣託で道鏡を皇位につけるべしと出たため、朝廷は和気清麻呂を派遣して真意を再確認しました。 そうすると『皇族でないものは皇位に就けない』と最初と反対のお告げが出て道鏡失脚の原因となったのです。769年のことです。 神仏習合はその事件の前のことです。 東大寺の大仏造立プロジェクト(745年製作開始、752年大仏開眼)が仏像の製作に行き詰っていた時に宇佐八幡宮は『協力して大仏鋳造を達成しよう』と八幡神のご宣託があったとして協力することになりました。 そして749年に東大寺の近くに手向山八幡宮が造営されました。 あの怨霊化する菅原道真が『このたびは 幣もとりあえず 手向山、、、、』と詠んだ神社です。 神社の中で一番早く仏教に結び付いたと言われています。 そして朝廷の崇敬を受け八幡神が『菩薩』の号を貰ったのです。 これが八幡大菩薩です。 平安遷都に対しては王城鎮護のため京の西南に岩清水八幡宮護国寺が建てられ宮と寺が一緒になった『宮寺』という様式が生まれました。 その後、神宮寺という神道と仏教の混じったお寺が日本各地に沢山建てられました。 八幡大菩薩は鎌倉時代には源氏の守り神とされ鶴岡八幡宮が設営されました。 そして武士や庶民の間に八幡信仰が広がって行きました。 話が戻りますが、昔ジーパンにMade In USAと縫い込んであり、アメリカ製と思って買ったら、日本の宇佐であったという笑い話もありました。 (アマテラス) 伊勢神宮に祀られているアマテラスも神仏習合により、最初は十一面観音菩薩そして大日如来の生まれ変わりと見られていました。 確かに太陽神ですから大日如来がふさわしいかもしれません。 また、世界の神話では太陽神は普通、男の神様なのでアマテラスも男の神様ではないかと言われています。 そうですよね、アメノイワドでストリップ見たさに岩陰からコッソリ覗くって男性の要素ですよね。 ちなみに天皇家=アマテラスに対抗して徳川家康は東照権現のアズマテラスとなりました。 権現とは仏が人々を救うために神などの権(かり)の姿で現れることを言います。 (熊野権現) 熊野大社は本宮大社、速玉大社、那智大社と三社あります。 順番にスサノオ、イザナギ、イザナミをお祭りしていましたが神仏習合で阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩が本尊となってしまいました。 (八坂神社) 京都の八坂神社は祇園祭りで有名です。 スサノオと牛頭天王を祀っています。 アマテラスの弟のスサノオは新羅に渡って金、銀、木材を持ち帰り植林を日本に伝えたと言われています。 高句麗から来た八坂氏の先祖が新羅国の牛頭山に祀られていたスサノオを勧請し牛頭天王と名づけて祀ったのが始まりです。 この牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神であり、薬師如来の化身と言われます。 また、スサノオが化身した神が蘇民将来という一族を疫病から守ったという話から祇園祀りでは『蘇民将来之子孫也』という護符を付けたりします。 スサノオ=牛頭天王=祇園神=薬師如来と習合したのです。 祇園祭りは葵祭り、時代祭りとともに京都三大祭りの一つです。 また元旦のおけら詣りではキク科の薬草のかがり火から火を移し、消えないようにくるくる回しながら持ち帰り、仏壇、神棚に灯明を上げ雑煮を煮る火種にすると一年間無病息災が得られるといわれます。 (お稲荷さん) 伏見稲荷が本社です。 稲荷はイネナリで日本の穀物の神様ウカノミタマが祭神です。 この神様の別名をミケツカミといいケツは狐の古語であり三狐神と呼ばれ、狐が稲荷のお使いとなりました。 そして伏見稲荷は真言密教の東寺の守護神となり、真言密教で狐に乗っている神様の荼吉尼天(だきにてん)=白晨狐王(びゃくしんこおう)菩薩と習合されました。 荼吉尼天はヒンズー教のシヴァ神の妻カーリーの侍女で人肉を食べる夜叉でしたが大日如来が善神として立ち直らせたものです。 お稲荷さんは真言密教との関係から呪術的な要素があり除災福招の神として都市部でもてはやされました。武家の屋敷でも祠を設けるほどに流行したようです。 江戸の川柳に『町内に伊勢屋稲荷に犬の糞』というのがあります。 伊勢屋は伊勢商人のことで、戦国時代から木綿の販売で財をなし、江戸時代には越後屋、丹波屋などの商店が多くあったそうです。 (天神さま) 天神さまはご存知の菅原道真(903年没)を祭る京都の北野天満宮です。 この天満宮の社挌は朝廷公認の二十二社の一つでした。 天皇以外の人を最初に祭神とした神社です。 そのため『宮』の文字は天皇一族を祭神とする神社寺社に使われるため、明治時代には北野神社と呼ばれました。 天満宮と復活したのは戦後でした。 天神さまの正式名称は『天満大自在天神』です。 そして大自在天と言えば、インドの破壊の神シヴァ神です。 仏教に帰依し大黒自在天となり天神さまと同一視されています。 道真が左遷され死去した後に京都に多くの災難が襲いました。 雷がなると『くわばら、くわばら』と唱えるのは道真の京都の家が桑原の地にあり、そこだけは落雷の被害が無かったからです。

新加坡回想録(6)シンガポールの教育制度

シンガポールの教育制度は、日本のそれと似ているところもありますが、実は全く違う大きな特徴がります。通常6歳になると6年制の小学校に入学し、その後4年制の中学校に進みます。しかし、小学校の段階ですでに選別とエリート教育がスタートするのです。すなわち4年の終わりに、全員が能力クラス分けの試験を受け、中学に進めるコースと、卒業後は職業訓練学校に進むかもしくは就職するコースに分けられ、この時点で後者のグループは進学の道が閉ざされてしまいます。 小学校の終わりに、前者コースの生徒は、「小学校卒業試験」を受け、80%が合格して中学に進学しますが、残りの20%は職業訓練学校に行くか就職せざるを得ません。中学を終了すると「GCE”O”レベル)」(普通水準教育終了証)と呼ばれる卒業試験を受けますが、これに合格した生徒のうち優秀な生徒(上位10%)は「ジュニア・カレッジ」と呼ばれる二年制の高校に進みエリート教育を受けます。その次のランクの生徒が、「プリユニバーシティ」と呼ばれる3年制の高校に、残りが「ポリテクニック」(3~4年)と呼ばれる高等技術学校に入学することになります。 最後に高校を卒業すると「GCE”A”レベル」(上級水準教育終了証)と呼ばれる卒業試験があり、優秀なものがシンガポール国立大学か南洋工科大学に進学し、次のレベルはポリテクに進みなおします。大学は3年制ですが、優秀な10%の学生は、この後「オーナーズコース」と呼ばれる1年制コースに進みます。 他方、国家奨学金受給生は、まずジュニア・カレッジの1年目末の成績をもとに優秀な生徒がリストアップされ、2年目の成績を見て最終的に決められます。そして、将来エリート官僚となる100名強の高校生は、高校卒業後、国内ではなく欧米の有名大学に送り込まれます。 これがシンガポールの教育制度ですが、同じ年代でも、エリート学生は、小学校6年、中学4年、高校2年、大学4年の道を進み、能力なしと判断された生徒は小学校6年間で終えて、労働市場に放り出されてしまいます。この教育制度の特徴は、試験の成績によって義務教育段階からはっきりとコース分けすること、選別試験に漏れた生徒には復活の道がないことです。浪人とか、もう一度試験を受けるとかの再挑戦の道はありません。 そして、徹底的に振り分けられた優秀な者が、政府(人民行動党)に吸収され国の統治に関わっていきます。そのこと自体は悪いことではないと思いますが、優秀な若者が民間で活躍するチャンスが少なくなることはいかがなものでしょうか。ペーパーテストの成績が悪かった生徒が成長して会社を興し大成功をおさめるケースはたくさんあるので、さしたる心配は不要なのでしょうか。 ここまで読んだ読者の中には、きっと、「厳しすぎる」とか、「人間には大器晩成型やペーパーテストでは計れない豊かな才能の持った人々もいるのに、このような教育システムはそれを伸ばせないだけでなく、その芽を摘み取ることになるのでは」と思う人が多くおられると思います。 このような教育制度やエリート的能力観に対し批判的なシンガポール国民も大勢います。しかし、実態は政府の力が強過ぎてどうしようもないのが実情です。独立以来、人民行動党の一党独裁体制が続いていることで、資本主義国家で最も社会主義国家に近いと言われるゆえんです。 (西 敏)

荻悦子詩集「時の娘」より~「市街図」

市街図 薄緑の街を 大男の司祭が スクーターで行く 英会話のレッスンでは プロテスト・ソングを歌わせる イフ アイ ハッド ア ハンマー 声を張りあげる生徒たち 東洋の島国の 小さな河口の町では 黒人の抵抗歌も 陽気に叫びちらされる 私が次の角を曲がるまでに 司祭は中古車を買うだろう 次の広場では 娘たちがざわめいていた 愛がなければわからないことが あるってこと あなたにわかる? うろたえろ うろたえろ わからないと言え シンメトリーの庭園の 御影の石盤に 七月の黄色い太陽は回りつくし 予感は確かになるのだった この広場からも 私はすでに旅立っていると 司祭はとうにアイオアに帰り 娘のひとりは インフレだからとヨーロッパに行った 初老の夫婦が 庭にキゥイを実らせることを思いつき 辣腕の歯科医は 甘いバイオリンを好きと言う この街は 紫陽花色に彩色しよう 運んできたいくつものまなざしを 淡彩の市街図として凍結し 過ぎてきたいくつかの街を 並列のものとして抱え込む 新しい夏のために 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

追憶のオランダ(23)スヘーフェニンゲンの魚屋

どうも食べることに執着しているように見えるかもしれないが、私自身自分ではそれほど食にこだわる人間ではないと思っている。でも、オランダでの魚の話を一つ。 オランダでも鮮魚がスーパーや市場で売られているが、たとえ新鮮に見えてもやはり熱を加え調理して食べることを前提にしているので、そのまま生で刺身にして食べるには多少のリスクが伴う。やはり、煮たりソテーしたりフライにしたりということになる。また、日本流の焼き魚となると、西洋では魚を焼くにおいは嫌がられるということを事前に聞いていたので、我が家では一度も焼き魚をやった記憶はない。オランダ人がどのような反応をするか、一度くらいはやってみてもよかったと今更ながら思う。 しかし、旅行でポルトガルやギリシャに行った時、海辺の町では直火に大きな金網をのせそのうえでイワシやらサバやらを丸焼きにしていたのを思い出した。イカなども焼いていて、日本の縁日で嗅ぐ懐かしいイカ焼きの匂いがしていた。彼らもこうやって食べるんだと思ったが、これが彼らの本来の食べ方かどうかは不明だ。日本人の観光客も多かったので、日本人を目当ての焼き魚ではないかとさえ思った。 魚と言えばやはり刺身だが、日本人そのものが、太古からの習慣で魚は新鮮なものを生で食べたがるというDNAを持っているのではと思う。オランダに来てすぐの頃、日本人仲間の口コミで、ハーグの先、北海に面したスケベニンゲン(スヘーフェニンゲンという音に近い)に行けば刺身で食べられる鮮魚が手に入ると聞いた。すぐに車を飛ばして行ってみると、何軒もある店のうちある一軒の店では気に入った1尾を客の要望に応じて刺身用に丸ごと1匹をさばいてくれるサービスまでやっている。うろこを取り、頭を落とし、内臓を処理し、三枚におろし、皮も剥いでくれ、あっという間に刺身用の冊ができあがる。あとは、家で小さく切るだけ。自宅でさばくのは確かにチト骨が折れるので、このサービスは大いに助かる。魚の種類は日本ほど多くはないが、やはり土地柄、ヒラメ・サケ・サバなどはうまい。なかでもヒラメは絶品で、よく大きいのをさばいてもらってものだ。縁側もちゃんととっておいてくれる。アラはアラで、身とは別にちゃんと袋に入れてくれる。売る側の企業努力も見上げたものだ。 このスヘーフェニンゲンという地名、日本のテレビ番組などで面白い地名としてスケベニンゲン(すけべ人間)という呼び方で度々紹介される。しかし、実際の発音をよく聞くと、スヘーフェニンゲンと聞こえる。この地は北海に面し、いわばハーグの奥座敷とでも言える保養地として昔から知られ、19世紀初頭に上流階級のリゾートとして建てられ、その後5つ星ホテルとして開業したクアハウスが有名。観光客のみならず多くのヨーロッパの他の国からのVIPたちも訪れる。

シンゴ旅日記インド編(その46)月のウサギの巻

出張先から車で帰る時の会話です。時間は夕方です。 私        『この前は失敗したよ。 ムンバイからの帰りのSAでカーマ・スートラという映画のDVDがあったので直ぐに2個買って観たら中身は真面目な恋愛映画だったのよ。』 運転手は笑っているばかりです。車の外には満月が出ていました。 私        『満月だ。日本ではウサギがお米でお菓子を作っていると言われているよ』 (もちを搗くという英語が出て来ませんでした。) 運転手  『インドでも同じです。美人がパンを作っていると言われます。』 しかし、翌日の昼食時に運転手の話に他のスタッフは異論を唱えていました。   調べて見るとインドにも月がうさぎの形をしているいう伝説があるのです。 その原型はインドのジャータカ神話(釈迦の前世の寓話)から由来しています。   そのお話と言うのは次の通りです。 『昔々、インドに、ウサギとキツネとサルがいました。三匹はいつも仲良く暮らしていました。 いつも話し合っていたことは、「私たちは前世の行いが悪かったため、今はこんな獣の姿になっているのだ。せめて今からでも世のため、人のため良いことをして、何かの役に立とうではないか」と言うことでした。 それを帝釈天がお聞きになって、「なかなか感心な獣たちだ。せっかくだから、良いことをさせてやろう」と考えられたのです。 そして、帝釈天は一人のヨボヨボの老人に身をやつして、三匹の獣の前に姿を現れました。 獣たちは大はりきりです。この老人のお世話をすることにより善行ができると喜びました。 サルは、さっそく木に登って木の実や果物を集めて持って来ました。 キツネは野山や川を走り回って、肉や魚を採ってきました。 ところがウサギは、これといった特技がないので、なにも持って来れませんでした。 それでウサギは思いあまって老人の目の前で焚火をたいてもらい言いました。 「私は何も持って来ることが出来ないので、せめて私の身を焼いて、私の肉を召し上がって下さい」そして、自ら火の中に飛びこんで黒こげになってしまったのです。 これを見た老人は、たちまち帝釈天の姿に戻って、三匹の獣にむかって言いました。 「お前たち三匹は、とても感心なものたちだ。きっとこの次に生まれ変わってきた時には、りっぱな人間として生まれて来られるようにしてやろう。特にウサギの心がけは立派なものだ。お前の黒こげの姿は、永久に月の中に置いてやることにしよう」 こうして、月の表面には、黒くこげたウサギの姿が残されることになったとのことです。』   そんな話を読んだ後で月を見上げるとインドのお月様は何か寂しげでした。 丹羽慎吾

新加坡回想録(5)三つの幸運

1965年、シンガポールはマレーシアから分離独立しました。それまでリー・クアンユー首相率いるシンガポール州政府は、マレーシアと一体となって国として繁栄して行こうと努めてきました。ところが、マレー系と華人系の民族についての根本的な政策の違いにより、はじき出されるという望まない形で独立することになってしまいました。それは言わば、「望まない独立」であったことを知らない人は少なくありません。 シンガポールは独立後、60年代後半、70年代、80年代と驚異的な経済発展を遂げました。そこには、リー・クアンユーというカリスマ的政治家が率いる政府(人民行動党)による的確な政策があったことは間違いない事実でしょう。しかし、それに加えて「三つの幸運」があったことも大きいと私は思います。 まず、第一の幸運として、東南アジアにおける地理的優位性を挙げなければいけないでしょう。この小さな島国はイギリスの植民地時代からこの地理的優位性を生かして東西貿易の中継地点として重要な役割を果たしてきました。活発な貿易を可能にする港湾、道路、通信などのインフラは植民地時代にある程度できていました。これに加え政府は、ジュロン地区の沼地を埋め立ててさらなる一大工業団地を整備しました。そしてこのことが、後の外国資本誘致政策に大いに役立つことになったのです。 次に、二つ目の幸運は政治面でのこと。シンガポールは多民族国家ですが、75%以上を華人が占める華人の国であると言えます。その華人国家が、北と南をマレー系(イスラム教)の国に挟まれ、民族、文化、宗教の面でも相いれない難しい関係にありました。 マレーシアのマレー人優先政策(ブミプトラ)とシンガポールが主張するすべての民族が平等であるとの政策とが相いれず結局は分離独立せざるを得なかった訳ですが、このことから、武力衝突こそなかったものの極めてとげとげしい関係が続き独立後も一触即発の状態でした。 一方、インドネシアは、63年に始めたシンガポールとの貿易禁止措置を独立後も継続していました。対インドネシア貿易は総貿易の三分の一程を占めており、地場産業のない貿易立国にとってこれは死活問題でした。ところが、独立後2か月も経たない65年10月にシンガポールと敵対関係にあったスカル大統領が失脚しました。新たに権力を握ったスハルト大統領は対外的には対立よりも強調、国内的には政治よりも開発重視の政策路線を打ち出したのです。 この事態は、隣国との友好関係なしには成り立っていかない小国の行く末に大いにプラスになりました。外国資本を呼び込むためには自国の政治的安定が第一の条件です。海外進出を図ろうとする諸外国は、治安に不安の残る国には二の足を踏むからです。このように、自助努力ではどうにもならに周辺地域の変化が二つ目の幸運をもたらしました。 最後に、当時、先進諸国の経済成長で世界貿易が飛躍的に拡大していましたが、これに伴って生産工程の分業化で、多国籍企業は安価な労働力を求めて途上国への大量投資・進出を始めていました。このことは、工業化推進のために外国企業を積極的に受け入れようとしていたシンガポールの政策とどんピシャリと一致したのです。そして進出した外国資本は開発に必要な資金、技術、輸出市場を”セット”でもってきました。外国資本は政府や地場産業では創出できない雇用機会まで提供してくれました。これが三つ目の幸運でした。 (西 敏)