シンゴ旅日記インド編(その41)寅さん 帝釈天案内の巻(2)

はい、やって来ましたのが題経寺の入り口の二天門でございます。 『二天門』の二天とは四天王のうちの増長天、広目天です。 この門は明治時代に作られて新しいんでございますが、その中に安置されております木像は平安時代の作と言われているんであります。なんでもお寺が出来たときに大阪の方から頂いたものらしいんですよ。 四天王って言いますとね、これまた御前様の受け売りなんですがね、人が死んでから閻魔様の裁きを受けて行くあの世に須弥山ってい言う高い山がありまして、そこに帝釈天が居て、四天王はその部下で東西南北を守る神さまだそうであります。 増長天が南方、広目天が西方、持国天が東方そして多聞天が北方を守っておられるそうです さて、四天王と言えば数字の四。四角四面は豆腐屋のむすめ、色は白いが水臭い、四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋なねえちゃん立ちションベンてなもんですね。 ちょっと汚かったかな。ねえ。おばさん。そんなに笑わないでおくんなさいな。 この二天門を潜りって境内に入りますと正面に見えますのが『帝釈堂』でございます。 手前を拝殿、奥を内殿と申します。内殿には先ほどご説明いたしやした板本尊の帝釈天をまん中にして四天王の残りの持国天と多聞天が両脇に祀られているのでありあます。 北方を守る多聞天はまた毘沙門天とも呼ばれるのであります。その毘沙門天は七福神の神様でもあります。そして、この柴又には柴又七福神と言うものがありまして、題経寺はその柴又七福神の毘沙門天を受け持っておるんであります。 また毘沙門天と言えば古くは源義経、楠正成、上杉謙信たちも篤く敬っていたことがよ~く知られているのでございますよ。 なお、この帝釈堂の内殿の外側には彫刻が施されておりまして、彫刻キャサリン、いやギャザリン、いや違う、お兄さん、お役者さんが貰うお給金を英語で何て言ったかい?ギャラ?そうそう、彫刻ギャラリーと呼ばれているのであります。最近は直ぐに言葉が出てこない私であります。 はい、そして正面の手前右にありますのが『釈迦堂』でございます。ここには釈迦如来そしてこのお寺を開いた日栄、そして中興の祖の日敬の木像が安置されております。 そして右手奥が『祖師堂』でございます。ここに本尊の大曼荼羅が祀られているのであります。 この題経寺にはこれらのお堂の他に関東一と言われる総ヒノキの大鐘楼、大客殿があります。また、裏庭には昭和に設計された庭園がございます。今日はそれらをごゆっくりご覧頂くことになっております。 (境内の見学を終えて) さて、これをもちまして題経寺の見学が終わりましたんで外に出ることといたしましょうや。 柴又帝釈天が沢山の人で賑わう縁日は庚申(こうしん)の日でございます。 この日には板本尊がご開帳となるのでございます。 なぜ縁日が庚申の日かってぇと言いますと、帝釈天の板本尊が見つかったのが庚申の日だったとされているからなんです。 えっ、庚申の日ってのは何かってですか、庚申の日と申しますのは十干と十二支の組み合わせで出来る『かのえ・さる』の日でございます。60日に一回やってくるのでございます。 昔から庚申信仰と言うものがあるのでございます。人間の体の頭と腹と足には三尸(さんし)と言う虫がおりまして、『かのえ・さる』の日の夜になりますとその虫が人間の体内から抜け出し帝釈天にその人の罪科を報告に行くといわれているのであります。その虫の報告によりその人の寿命が決まるため、身に覚えのある人はその虫が帝釈天に報告に行かないよう寝ないで夜明けを待つ必要があったのであります。しかし、寝ないで待つのは大変でござんしょ、そんでもって要は仲間で飲み会をして夜を明かしたのでございますね。この寄り合いを『庚申講』、『庚申待ち』と申しまして、平安の昔から一種の宴会となっていたのでございます。この庚申信仰は十二支のサルが関係しますのでサルが神の使いとする帝釈天、日吉(ひえ)神社、あの~、この日吉神社と申しますと比叡山は天台宗の延暦寺の守護神社であります。ええ。 それに日本神話でおなじみのアマテラスさんの孫のニニギノミコトさんが天上から地上に降りる時に道案内をしたと言うサルタヒコノミコトと結び付けられ道の神、道祖神にもなったのであります。それでもって。庚申塔や庚申塚で見ることの出来る『見ざる、言わざる、聞かざる』の三猿は巳をつつしみ、悪いことを見ない、言わない、聞かないという意味が込められているのであります。 えっ、寅さんはいろんなことをご存知ですねってですか。おねぇちゃん、良いこときくねぇ。 そりゃそうですよ。私の職業は書籍の出版というかセールスであります。扱う書籍の内容を知っておかないと商売になりません。何を扱っているのかってですか?そりゃ、その、あのですね、そうそう法律とか統計とか歴史、それに加えて英語、催眠術、灸点法、夢判断、メンタル・テスト、諸病看護法、しみぬき法、心中物、事件物などありとあらゆるものを扱っているんであります。こうなりゃ、もう半分やけですよ。やけのやんぱち、日焼けのなすび、色が黒くて食いつきたいが、わたしゃ入れ歯で歯がたたないよってね。 寅さん 帝釈天案内の巻(3)に続く 丹羽慎吾

新加坡回想録(1)シンガポールの歴史(上)

1980年代に仕事の関係でシンガポールに5年半ほど駐在しました。シンガポールは、今ではすっかり人気観光地になり、多くの日本人が連日訪れているようですが、当時はまだ知る人ぞ知る国で、駐在の話が決まった時に同僚の一人が、「シンガポールってマレーシアの一部だよね」と言ったものでした。 もう30年以上も前の話なので記憶も薄れかけていますし少しずつ思い出しながらの記述になりますが、体験したことを中心に書いていきたいと思います。最近の現地の様子と言えば、マリナ・ベイサンズのように様変わりの部分も多いことと思いますが、一昔前のシンガポールと理解してお読みいただければ幸いです。 また、そこはこんな風に変わったよとご存知の方は、コメントなりで是非お教えいただければありがたいです。 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ (1)シンガポールの歴史 シンガポールはマレーシアの南に位置する島の都市国家で、気候は熱帯気候に属し、国内には多様な文化が存在しています。古く14世紀ころまではテマセックと呼ばれていたこの地は、やがてシンガプーラという呼称が定着していました。この名前にも諸説ありますが、サンスクリット語で「ライオンの街」を意味していると言われることから英語でライオンシティなどと呼ばれるようになりました。 シンガポールの歴史を語る上で欠かせないキーワードは、イギリスによる植民地支配、マレーシアなど近隣諸国との関係、多民族国家であること、初代首相リー・クアンユー、そして忘れてはならないのは日本軍がかつて占領していたという事実でしょう。 イギリスによる植民地支配 1819年人口わずか150人程度のこの島に、イギリス東インド会社で書記官を務めていたイギリス人トーマス・ラッフルズが上陸を果たします。ラッフルズは当時何もなかったシンガプーラの地理的重要性に着目し、島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取りつけました。この時、名称も英語風のシンガポールと改め、都市化計画を推し進め、1824年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされるとともに、オランダもイギリスによる植民地支配を認めることとなりました。 近代シンガポール建国の父と言われるスタンフォード・ラッフルズ卿の像は、現在ラッフルズ卿上陸地点とエンプレス・プレイスに2つあり、また、歴史ある優雅な外観とホスピタリティの高さで世界中の旅行客を魅了する高級ホテル、ラッフルズホテルにその名を残しています。 無関税の自由港政策を推し進めたこともあり、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破し、急速に発展していきました。既に所持していた港町ペナンと、新たに獲得したマラッカとともに、シンガポールはイギリスの海峡植民地に組み入れられ、1832年にその首都と定められました。 イギリスの植民地となったことで、同じくイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、そして中国大陸などとの間でのアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割、また、ヨーロッパ諸国の植民地下にあったマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムやすずの積み出し港としても大きな発展を遂げました。 この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、中国南部(主に福建省や広東省、潮州、海南島など)、南インド(主にタミル語圏)、現在のインドネシアなどから多くの移民がマレー半島、シンガポールへ渡来したことが、現在の多民族国家の起源となっています。 シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、インドや中国からの労働力を背景に経済的には発展が進んだものの、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続きました。20世紀に入った後には、一部知識層の間において独立の機運が高まることとなりました。 イギリス植民当局は非常事態宣言を出し、反英活動家に対しては徹底的に取り締まりや弾圧を行いました。逮捕され裁判にかけられた労働組合や学生指導者らの弁護を引き受けたのが、後に初代首相となるリー・クアンユーです。1947年7月、イギリス植民当局は立法会議選挙法令を公布。1948年3月、議席の一部を民選とするシンガポール初の選挙を実施し、20万人の国民がこの選挙に参加しました。 ~シンガポールの歴史(下)に続く~ (西 敏)  

フランスあれこれ(14)7月14日はパリ祭

7月14日はパリ祭です。今までにもテレビなどでご覧になったと思います。朝からシャンデリゼ大通りで盛大な軍事パレードがあり、大統領の閲兵のもと、パレードには陸海空軍は無論、戦車、騎兵隊、更には消防団や看護師などが登場、そして最後を飾るのは退役軍人や外人部隊です。そのさなか空軍の三色旗煙幕が轟音とともに上空を通過します。即ち国を守る集団全てが参加します。午後はエッフェル塔の麓での大音楽祭、更に夜はセーヌ川での花火大会と終日お祭り騒ぎです。 フランス国民にとってパリ祭は特別のもので、この日ばかりはフランス国民の心が一つになります。年中行事となっているストなどすべてを忘れて国を支える人たちへの共感を覚える一日なのです。翌日は一転してバカンスの始まり、南に向かう主要幹線道路に車が溢れ終日渋滞となります。パリ祭を見て、これでひと安心と言うことでしょうか。 ところで皆さん、ご存知ですか?パレードの先頭集団が学生だ!という事を。一見海軍将校集団にも見えるのですがこれがエコール・ポリテクニック(通称ポリテク)と言う最高学府の一つです。しかも理工学部だけしかありません。長いサーベルをもって胸を張って先頭を行進します。大統領の前まで来ると号令一発、高々とサーベルを上げて“頭~左!”と言った感じ。軍国主義の時代を思わせる風情です。この集団の次が陸軍士官学校更には海軍兵学校の学生。こちらは短刀をもっています。 何時の頃かはっきりしないのですが、イラクのクエート進攻、或いはベルリンの壁が取り払われたころだったろうか、いずれにせよ1990年頃だったと思います。この先頭集団、すなわちポリテクニックの先頭リーダーに女性がいたのです。パレードを見ていた人たちから女性だ!と言う声とともに拍手が沸き上がり、「信じられない」「これはジャンヌダルクの生まれかわりだ!」と周囲が騒然となりました。私はそんなに珍しいのかと思いましたが、その後ポリテク卒業の友人から聞いた話では、数年前に女性がポリテクに初めて入学したと言って大騒ぎをした由、その後人数も徐々に増え、当時は例年2~5名くらいの入学があるとのこと。それにしても成績トップならこそ先頭を進むのだという話。フランス人が驚くのも納得です。 皆さんの疑問は「一体パリ祭とは何だ?」でしょうね。それはフランス共和国誕生記念日と言うか建国記念日です。単純に”14 juillet”(キャトーズ・ジュイエ即ち7月14日)と呼んでいますが、1789年フランス革命の発端となったバスティーユ襲撃がこの日なのです。英語では”Bastille Day”です。 ポリテクニックの話を少し追記します。フランスでは高等学校を卒業した後バカロレアという全国一斉の試験を受けて大学入学の資格を手にします。成績に応じて自分の道を進むのですが、一部の秀才は2年間の予備校に進み、再度の厳しい試験に合格してやっとグランデコールに入学します。そのグランデコールの一つがポリテクニックです。大学の授業料は無料ですが、グランデコールの学生は給料をもらうと言います。すなわち公務員としての待遇です。さらに卒業生の大半が官僚や大企業のトップを目指します。日産=ルノーのカルロス・ゴーン前会長もポリテクニックの卒業生です。 もう一つ裏話をお耳に入れます。パリのルーブル美術館の近く、ある日本レストランにミッテラン大統領(当時現役)が隠し子と一緒に現れると耳にしました。可愛い娘さんだとも噂されていました。数年後その娘さんがポリテクニックに入学したと聞きました。今は多分政界或いは官僚として、はたまた一流企業で大活躍していることでしょう。

荻悦子詩集「樫の火」より~「家」

家 両親はドーナツ型の家に住んでいる 数日経ってよ うやく気づいた 向い合わせに窓があり あまりに も明るい室内 両方の窓際にベンチが作り付けられ ている 私は何気なくテニスボールをベンチに置い た ボールは転がって 両側の壁に当たりながら転 がり続け 見えなくなり やがて壁のカーブに沿っ て元の所に戻ってきた 窓際のベンチではなく 畳 の上で私は時々よろめく 柱や建具に頭や肩をぶつ けそうになる 大きな鉢が五つあり 常緑樹の果樹 や花木が植えられている グレープフルーツの木に 実は生らない キウイの蔓に下がったたくさんの実 の下で 母が糸車を回している 木綿糸 絹糸と紡 いでは 何かを織ったり編んだりしている 糸車が 急に回り出し もう止まらない そんな恐怖にから れ 糸車から目が離せない 母には何も起こらず ふいと立ち上がって歩きまわり 他の作業をせっせ とこなして休むことがない 糸車はそれ自身では回 り続けない 代わりに母が動きまわる そういう仕 掛けになっている 母のための様々な作業部屋が円 く連なっている 部屋がいくつあるのか 私には明 かされない 両親はついにこんな家に越してきた 窓の外を眺めると 一面に水である 川か湖か内海 か判断がつかない 厚い床板に柵を巡らせただけの 乗り物が水の上を動いてきた 父を迎えにきたらし い セーフティ―ジャケットを着た若い男の人が二 人乗っている 父が階段を降りていった 水面を滑 るそのボート状のものに乗って 父が新しく通う先 はどんな所か どんな職に就いたのか いぶかしく 思うが 明かされない 乗り物が水を蹴立て 部屋 が揺れる 身体も揺れる ドーナツ型の家自体が揺 れる水に浮いているのだった 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。  

追憶のオランダ(17)漆との出会い

漆との出会い、これは私のオランダ生活の中で、また私の人生の中でも最も大きな出会いの一つでした。もちろん、子どもの頃から生活の中で漆器に触れる機会は多少なりともありましたが、それは年数回あるかなしかでした。その漆器は正月に使う重箱とか椀・盃の類で、日常使う椀や箸などは一見漆塗りのように見えても実際には漆塗りではなかったように思います。そのような日常生活ですから、40歳を過ぎてまさか自分が漆を使って器物を作る、そして自分でそれを日常に使うことなど想像することも出来ませんでした。しかし、それが日本国内ではなくオランダという外国に来て現実のものとなったのです。これまでこのことを友人たちに話すと、皆一様に「なぜオランダで漆なの?」と怪訝な顔をされました。今後も、多分そうでしょう。 しかし、そのきっかけは実にくだらないところに転がっていたのです。それは、当時使っていた餞別にと頂いた本物の漆塗りの箸の先をふとした拍子に噛んで少しですが折ってしまったのです。しまったと思ったが、後の祭り、しばらくの間は別の安物の箸を使っていましたが、どうもしっくりこず、かと言ってオランダですからすぐに代わりが手に入る訳もなし。そして、それから何か月かの後のこと、たまたま見ていた地域の日本人コミュニティー誌に、「漆塗り教えます。」という小さい広告が出ていたのを発見したのです。深く考えるより先に、「これだ。」と、躊躇わずすぐに申し込み、習い始めることにしました。そして、まず折れた箸の修理をしたいと先生に申し出ました。しかし、今まで漆そのものを見たことも触ったこともない素人ですから、そんなに簡単ではありません。我が家からは車で3-40分ほどかかるハウダ(Gouda)に近いところまで殆ど毎週土曜日、嵐の日もせっせと通い、基礎的な事を教わりつつ、念願の箸の修理もそのうちにできました。ほんとうに初歩の初歩から教わり、約1年半ののち私のオランダ勤務が終わり帰国する頃までには、何とか漆を自分で扱えるくらいまで仕込んで頂きました。先生は、オランダに移住された日本女性で、西出毬子さんという方です。その後も、先生には折に触れアドバイスをもらっていました。 ということで、もう20年以上漆との生活をしていることになります。その間、作ったものは箸・匙・大小さまざまな皿・椀などのシンプルな日常使いの雑器類が主ですが、知り合いに差し上げたりして大いに喜ばれています。私の作品は頑丈が売りですが、もし傷とか壊れるようなことがあった場合には、私が生きている間は無償で直しますという保証付き。ですが、幸いなことに差し上げた方々からは未だに直しを頼まれたことはありません。壊れていても面倒だから、または遠慮されて直しを頼まれないのかもしれませんが。もともとはこうした日用雑器を作ることに興味があったのですが、ここ10年くらい前からは、蒔絵・螺鈿などの加飾技法も加えたものも始め、また蒔絵による絵画作品も手掛けるようになっています。 オランダでの短い間に、幸運にも東京芸術大学で最近まで漆芸の教授をされていた三田村先生とその御子息ともお知り合いになり、さらに帰国後は同教室の面々とも知り合うことができ、私の漆の世界が一挙に広がることになりました。左の写真は、オランダ時代に三田村先生から頂いた色紙で、「漆三昧」と書かれています。そんなご縁から、毎年東京芸術大学の公開講座で漆の講座があるときは必ず受講するようになりました。そして、そこでも新しい同好の知り合いができ、漆を通した世界がさらに広がってきました。オランダでは土曜日は朝から夕方まで漆塗りの作業をして、それから飲み始め漆談議に花を咲かせながら皆深夜まで、そしてベロンベロンになるまで飲んだことも度々で、今も懐かしく思い出します。

シンゴ旅日記インド編(その40)寅さん 帝釈天案内の巻(1)

みなさん、柴又へよくいらっしゃって下さいました。 私(わたくし)が映画でおなじみの寅次郎でございます。 そして、この横につっ立っておりますのが私の銅像であります。 ここの商店街のみなさんに建てて戴きやした。 私が柴又帝釈天を全国的に有名にしてくれたってことのようです。 銅像を作る話が出た時にはね、私は、こっぱずかしいから止めておくんなさいって頼んだんですがね、おいちゃんやおばちゃん、そしてさくら夫婦までもが私に少しでも柴又に恩返しをしなさいよって言うもんですから、そいじゃ、よろしくってなことになりまして、こんなんが出来ちゃったというわけであります。これね、私がおいちゃんたちと喧嘩して柴又を出て行く時にさくらが私を見送ってくれるところを元にしたんでございますよ。それにしてもよく出来てますでしょ。 さて、まずはお初にお目に掛かります御一統様へのいつもの仁義を切らせていただきます。 お控えなさっておくんなさい。私、生まれも育ちも東京は葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。さて、本日は御前様から御一統様を題経寺にご案内せよとのお申しつけにより、青二才ではございますが、私の存じおります限りお話させて戴きやすので一つよろしくお願い申し上げます。 とまあ、こんな堅苦しい口上なんですがね、これはこれまでで止しましょうや。 ねっ。みなさんはオイラのことを『寅さん』とか『寅ちゃん』とか呼んでおくんなさいな。 実はね、三日前に御前様から『寅、今度の土曜日はヒマか?』って聞かれましてね、『何でやすか?』ってお聞きしましたらね、『名古屋にいる古い友人から頼まれてな、ちょっと6人ほどの団体にこの寺の案内をしてもらえんか。』って言われやしたんですよ。ええ、あの愛想の無いお顔でね。まあ、あっしもヒマと言やぁーヒマ、忙しいと言やぁー忙しい身でござんしてね、でも御前様のお願いだから断るわけにはいきやせんや。と言う訳で今日、みなさん方をご案内することになったんでございます。 本当はね、源公の野郎が皆様をご案内する予定だったんですよ、でもね、冬子お嬢様の嫁ぎ先での用事に出かける必要があるとかで野郎が居なくなったもんですからね、そのお鉢が私に回ってきたんですよ。 さて、みなさんが降りられました柴又駅からお寺に続く200mばかりのこの道を帝釈天参道と申します。私がご幼少の頃に育った古い家、そして今では、おいちゃん、おばちゃんが団子を作っております店が直ぐそこにございます。あっ、居た居た、おばちゃん、ご苦労さん。おいちゃんは、元気で、まだ生きてるのかい?エッ、さっきオイラと一緒に朝飯を食べていたんじゃないかって。おばちゃん、そんな野暮なことは言いっこ無しだい。オイラ、そんな昔のことは覚えてないんだよ。今日は名古屋からのお客さんを題経寺にご案内するんだ。あとでみなさんとダンゴ食べに寄るから気張って仕事しておくれよ。 私のおいちゃんはね、おいらのことをいつも『馬鹿だねぇ、全く馬鹿だねぇ』って言うんですよ。でもこれね、本当に馬鹿だって言うことじゃないんですよ。私は分かっているんですよ。ええ。 でも、これをね、関西弁で『アホやねぇ、ホンマにアホやねぇ』って言われると本物の馬鹿みたいでござんしょ。それに、みなさんの名古屋では馬鹿とかアホとは言わないんでしょ。『タワケだがね、どえりゃ、タワケだわ』って言うんでございましたっけ?オイラは名古屋に生まれなくて本当に良かったと思いますよ、はい。私が言う台詞の『それを言っちゃあ、おしまいだよ』ってのは大阪弁では『あんさん、そんなん言うたら、ワヤでんがな』ってでも言うんでしょうかね。名古屋弁や英語だったら何て言うんでございしょうね。きっと面白い言葉になるんでございましょうね。 でも、名古屋といえば尾張でございますね。『伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ』ってですかい。言葉はチト使い勝手が違いますが、いい土地柄でございますよね。よっ、えびす屋、しっかり稼げよ、相変わらず馬鹿かっ。へへ。 さて、みなさん、この参道の突き当たりが御前様のいらっしゃる柴又帝釈天でございます。 帝釈天と言いましてもご本尊は帝釈天ではござんせんよ。 このお寺の正式の名前は経栄山題経寺と言うんであります。 寛永6年と言えば1629年という古~い昔に建った日蓮宗のお寺なのでございます。 日蓮宗といえばこの世が終わるという末法思想が流行った鎌倉時代に他の宗教を『真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊』と激しく攻撃し、法華経だけが末法の世から人々を救える教えであり、他の宗教は人々をかえって苦しめるだけであるとする、きつーい教えでございました。 みなさんは、さしずめインテリの方々でござんすよね。日本の大学に立正大学ってえのがありますでしょ。その大学は日蓮さんの表した『立正安国論』から取った日蓮宗の昔から続く教育機関なんでございますよ。ええ。 また、日蓮宗の場合、お寺のご本尊は仏像でなく『南無妙法蓮華教』の七文字でございます。そして、その周りに多くの仏様の名前が書いてある大曼荼羅なのでございます。 この題経寺もご本尊はその七文字を書いた大曼荼羅なのでございますよ。 その日蓮宗の題経寺が、なぜ帝釈天で有名になったかと言うとですね。 これまた古~い言い伝えがあるのでございます。 ちょっとおじさん、さっきからオネエチャンばっかり見てるけど、私の話も聞いてくださいよ。 折角覚えて来たんだから最後まで聞いて下さいね。 さあ、始めますよ、帝釈天で有名になった訳を。 はいっ、この題経寺には日蓮さんが自分で刻んだと言う板本尊があるのでございます。 縦は二尺五寸、横一尺5寸、厚さは五分と言われます。アレッ、みなさん尺で言ったら分らないって顔をされてますね。今ふうで言うなら縦75cm、横45cmそして厚みが8mmくらいと言うのでしょうかね。その板には片面に南無妙法連華経と書かれ、もう片面には剣を持った帝釈天が描かれているんでございます。私にはただの真っ黒い板にしか見えませんがね。こんなことを言うと御前様にまた叱られちゃいますよね。 その板本尊が行方不明になっていたのでございます。1779年に日敬という住職が本堂を修理しておりましたところその板きれ、いや板本尊が棟木の上から見つかったのであります。そして4年後の1783年の天明の大飢饉の時に、その日敬が背中にその板本尊を担いで江戸を回ったところ、苦しむ人々にご利益があったとのことでございます。それで、この寺が帝釈天の寺として江戸中で有名になったんでございます。たいしたもんじゃございませんか? 田にしたもんだよカエルのションベン、見上げたもんだよ屋根屋のふんどしってね。 寅さん 帝釈天案内の巻(2)へ続く 丹羽慎吾

コッツウォルズ紀行㊷~置物

1999年に、自ら企画、実行したイギリス自由旅行記「コッツウォルズの歩き方」を掲載しましたが、実はこの旅行についてのいくつかのエピソードや感想があります。随分と昔の話で恐縮ですが、書きためたものをいくつか紹介しています。 ——————————- ストラットフォードのお土産ショップで素敵な「家の置物」を見つけた!以前、我が家近くの店で「Shakespeare’s Birrhplace」と銘打ったオルゴール付のものを買っていたのだが、それとはつくりが全く違う。 非常に精巧にできていてとても気に入った。しかも半額SALE(8000円→4000円)をやっていて割安で買うことができたので大満足!いまでも我が家の玄関先に飾ってある。(完) ———————————————— 42回目を迎えた「コッツウォルズの歩き方」は今回で終了となります。長い間拙文をお読みいただきありがとうございました。 思えば、20年前のこのコッツウォルズへの旅がきっかけとなって、私のホームページ制作活動が始まりました。この時始めていなければ、ハイムのひろばへの参加もみなさん方とのお付き合いもなかったかもしれません。今のこのご縁に感謝します。 ありがとうございました。 (八咫烏)

フランスあれこれ(13)パリのカタコンブ

カタコンブと言うと通常は地下の墓地ですが、パリのカタコンブは違います。ひと言でいうと地下の遺骨埋葬地です。わざわざ墓地から遺骨を移送再埋葬したものです。正確には市営納骨堂です。 私がこのカタコンブに行ったのは50年以上前のことです。何故カタコンブに入る事になったのか、当時の事情は全く思い出せませんが大変衝撃的な思い出だけが記憶に残っています。その頃はまだ人気の観光スポットでもなく、ひっそりとした遺跡の一つに過ぎなかったと思います。入り口で入場料を払ったかどうかも記憶がありません。当時は午後の一定時間のみの入場が可能で、その日は入り口にせいぜい20名程度の人が集まっていました。夫々番号札を受け取って入場します。出口で回収するので紛失しないように注意がありました。もう一つ必需品があります、それは懐中電灯かローソクです。私は準備不足で使い残しのローソクを頂きました。 いよいよ入場です。厳重な注意事項がありました。それは勝手な行動はしない!集団で移動することでした。暗くて細い道を少し進むと急な、そして狭い螺旋階段をひたすら下ります。あっという間に方角を失います。全くの闇夜になりました。そして細い道を一列で前進するのですが非常に長く感じました。やっと入り口に到着ドアを開けてもらいましたがそこは死者の世界。ミイラではなく白骨の街道です。2~3mほどの道幅の両側に人骨を壁のように積み上げ、壁の上に一列に整列した頭蓋骨が私たちを監視するように見つめています。手元はローソクか懐中電灯、光の届くのもごく近いところだけ、一歩前進すると頭蓋骨が一つ近寄ります。 やがて少しは目も暗闇に慣れかすかに前方を見ることが出来るようになり、道幅も広がり、交差点があり、心も落ち着いてくると何となく死者の街、パリの裏道を歩いているような気分になりました。やはりここは死者の街なのだ。学生風の若者が横道に入り次の交差点まで点検に向かいます。途端に大声で「そこからは曲がらないで帰って下さい!」、ガイドさんの話によると、それ以上進むと声が聞こえない、万一明かりが消えると全くの暗闇、人間の世界に帰れません!とのこと。時々迷子が出て大騒ぎになる由。そのために番号札を回収して全員帰ったことを確認するのだと言います。 若い人は慣れるのも早い、やがてこれは美人だとか、頭蓋骨に傷があるので事故か事件だとか。或いは両目に指を突っ込んだりするものまで出てくる始末、またもや案内員から厳重注意!私は子供の頃からのしつけのせいか全くそんな感情にはなりません。むしろ一人一人の人生を思い辛く悲しい感傷に沈んでいました。 交差点を曲がるごとに反対方向を眺めましたが同じような街道としか見えません、見えないだけに大変不気味な気分です。20分くらい歩いて出口に出ました。入り口と違って明るい世界に飛び出したという感じです。 パリのカタコンブについて少し調べてみました。日本人には今一つ人気が薄いようですが大変な人気の観光スポットになっているようです。来場者の多い日には2時間待ちだとも言います。ただ見学できるのは今も昔も同じ1.7㎞、しかし照明をはじめ完全整備されているようです。横道に入ることも閉鎖されたりして不安も心配もなくなっているようです。入り口の螺旋階段は130段、地下約20m、そして遺骨の配列も色々と遊びが入ってワインの樽だったり、ハートマークに頭蓋骨が配列されたりしています。遺骨の総数は500~600万体、総延長500kmにも及ぶ街道に配列されているとやら。 ではどうしてこんな納骨堂が出来たのか?それはパリの街の発展と共に教会隣接の墓地が満杯になり、更には異臭や腐敗で衛生上も耐えられなくなったため18世紀後半から現在地に移送したと言います。カタコンブの場所は当時パリの郊外、石切り場のあとだった由。 私は一つの疑問を持っています。何故フランス人は人骨を素直に触り、面白く悪戯をしたりできるのか?と言う事です。亡くなった人は既に神のもとにと言う事でしょうか。 (写真は最近のネット検索です)  

荻悦子詩集「樫の火」より~「ス―プ」

スープ 娘がスープを作ります それは丁寧に本格的に作る のです レンガの壁を背にして おごそかな口調で 翠さんが言った 大きな鍋には既に何かがたぎって いる 翠さんの娘はその中に刻んだベーコンを入れ た 厚みのあるベーコン さいの目に切られたベー コンに さっそく絡みつくものがある 解けたチー ズのように見える 左手で髪を後ろに払いながら 翠さんの娘は右手に持った木のへらで鍋の中をさっ と掻きまわした 鍋の中身は まるでチーズフォン デュではないか カウンター越しに やや離れた所 から 私は疑わしげな目でその様子を眺めた カウンターにはチューリップが生けてある 花びら はオレンジ色 端をクリーム色が縁取っている 花 びらの縁は細かく裂けており 鋸状に尖っている チューリップとしては異型の姿をしている 花びら は開ききり 今にも散りそうに緩んでいる 散り落 ちれば ぎざぎざの花びらの縁はすぐに縮むだろう 翠さんが私に訊いた 日頃どんなスープを作ります か 馬鈴薯で南瓜で玉蜀黍でポタージュスープ 野 菜のコンソメ 馬鈴薯のビシソワーズ 白菜で若布 で茸で中華スープ 卵のスープ 私はそう数え上げ ていく 床から数センチ 私の両足は浮いているよ うなのだ 浮いてはいるが スープのレシピを思い 浮かべると 日常をなんなくこなしていると思えて きて 恬とした気分が漲ってくる チューリップの花びらが一枚 ぱらっと落ちた 縁 を内側に縮ませて オレンジ色の花びらの窪み 人 の耳の形に似てくる 空調機から来る微風に震えな がら 人の声や物音を感じ取っている 窪みにはか すかな香りが留まり 見えない塵が舞い降りている 海辺に住む大伯母のことを思い出した 尖った声と 厳しい話し方 美しい昔の顔が浮かんでくる 百歳 になった大伯母はゼリー状の食物を摂っていると聞 いた 高慢だが私には優しかった人に 今こそスー プをと思う 大伯母はどんなスープが好きだったの か 百歳の人の 衰弱したひとの命を繋ぐこともで きるスープ 喉越しの優しいスープ いつの間にか翠さんの娘がいなくなった カウンタ ーの向こう 鍋の中のスープの正体はわからないま ま 自動スープ釜というのがあるようです 外見は 湯を沸かす電気ポットに似ています 野菜を刻んで 入れるだけ スープキューブを加えるだけ それを 買おうかと思うのです 虫に喰われたような穴があ る赤茶色の古いレンガの壁を背にして いつしか独 り言のように うっとりと私は話している 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。