荻悦子詩集「樫の火」より「祝福の木」

祝福の木 男に抱かれた黒い犬の目が私を射る 目が妙に光り 金色の環が生まれる 雑誌に載っている写真の中の 動かないはずの犬の目が光を放つ 犬は男の腕をす り抜ける ベランダの木の階段を降りてくる 顔を 上げ 光の矢を放ちながら下りてくる お皿は割れないわ プラスチックだから 誰かがそ う言っている レモングラスの匂いがする ミルテ の花の匂いかも知れない 娘はいないけれど 花嫁 の髪を飾る緑の葉の祝福の木 ミルテの木の苗を春 に植えた 木は白い花をたくさん咲かせ 柔らかく 撓う枝を気ままに広げた 地下室のジャズピアノも大人数のバーベキューも 僕らの好むものではなかったと 写真の中の男が話 しかけてくる 昔の隣人の声をしている 黒い犬が 木の階段を降りきった 写真の男が座っている籐の 椅子 その様式が私を過去に連れていった 昔の隣 家の屋根を越え 隣人ではなく 栗色の髪 灰色が かった目 ケネス あなたを探しに海峡を渡る 庭 のテーブルの端でこうして瓶の蓋を開けながら 温 かい声を思い出している 私に娘がいたとして 娘の髪の色はいずれ日本の黒 だったろう だとしても あなたに会うことがあれ ば 娘は話しかけるかもしれない あなたでしょう か 古い田舎の博物館で母の隣にいた人は ローマ 時代の小さなガラス瓶に見入った母に それらが埋 まっていた土のことを熱心に語ったのでしたね ガ ラス瓶の曇りをいとおしんで なかなかその場を離 れなかった 帰りの列車に乗り遅れたのでしたか 海峡がありトンネルがある 特急は間もなく対岸に 着くけれど ケネス あなたの今の髪の色を私は知 らない 四十歳の 五十歳の あなたの夏はどのよ うでしたか くすんだ古代の青いガラス瓶 そして あの透けるような紙の辞書 同じ辞書を少年の時に あなたも持っていた 私の辞書はやがて革の表紙が ぽろぽろ崩れ 私はひとりだと知ったのでした 夏 でした 娘のころにその辞書を手にできたことは幸 せだったとようやくわかりました 夏でした 黒い犬が庭のテーブルの足にぶつかってきた 光る 目で私を威嚇し 追想を裂く テーブルクロスの裾 を噛む 割れてもいいわ 私は犬をよけながらテー ブルに厚手のグラスを並べる 他の人は犬をまるで 気にしない 雑誌のページが風で捲れた 写真の男 が再び隣人の掠れ声を立てる 椎の木の葉音のよう にそれを背後に送って 私はひそかに湧いてくるあ なたの声に聞き入っている 黒い犬は 庭を嗅ぎま わり 思い出したように私を睨む 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。  

追憶のオランダ(20)骨董屋の話

正直言って、私は昔から骨董品というものにはあまり興味はありません。何百万円とかする茶碗や軸物などを有り金を叩いて買い求めることには、全く興味はないということです。ですから、日本でも骨董屋の前は殆ど素通りでした。オランダに住んでからも、最初の頃は同じでした。アンティークと書かれた店はただ眺めて通るだけでした。しかし、ある時その店先で足が止まってしまったことがありました。その店は、よく行っていたデルフトの広場の近く、市庁舎の脇を抜けた橋のたもとにある店です。左の写真、手前の茶色の建物が店で、その奥に見えるのがデルフト市庁舎。店の外に無造作に置いてあるかなり傷がある壁タイルに目がとまったのです。そこで、その一枚を買った時から、私と骨董屋の付き合いが始まったのでした。その店には何度足を運んだことか。右の写真、その店先で店主と。 また、同じようなタイルを扱っていそうな骨董屋もあちこち探し、デルフト以外の町にも足をのばし、骨董屋仲間に店も紹介してもらい訪ねて行ったり、業者仲間の市にも顔をだしたりと、急に熱心になりました。何人もの骨董屋の店主とも知り合いになりました。そのうちの一人とは、帰国後も新しい情報を送ってもらい、何度か彼から買ったことがあります。さらに、これは全くの偶然ですが、京都にある骨董屋にオランダのアンティークタイルがあることを知り、京都まで訪ねて行ったのですが、そこの御主人は私がたくさん買っていたデルフトの別のもう一軒の骨董屋の若主人と知り合いだったのです。世の中狭い。 ある時、アムステルダムの骨董屋に初めて行ったのですが、箱に詰められたアンティークのタイルを一つひとつ見ていると、後ろからいきなり「あたなが○○を探している日本人か?」と声をかけられました。こちらは、考えもしてなかったので、びっくりして「そうだが、でもなぜ?」と答えました。その後話を聞くと、店の主人曰く「同業仲間から、ある日本人が○○を探しているがなかなかいいのが見つからない、と言っているのを聞いたことがある。」と。あちこち探し回っていたので、知らぬ間にタイルを探し回っている日本人の噂が広まっていたのです。 結局、その店にもいいものはなくて、「いつ入荷するか分からないが、今度入荷したら連絡してやる。」ということで、電話番号を教えて帰ったことがありました。新しい(?)アンティークタイルというのは、古い邸宅を取り壊す時にしか出てこないので、なかなかチャンスはありません。改修すればそのままタイルはその家に残ってしまうことが殆どなので滅多に新しいものが骨董市場には出回らないということです。あるとすれば、昔取り壊した時に出たものでこれまで保管されていたものが売りに出されることくらいでしょうか。

シンゴ旅日記インド編(その43)マイソールの巻

インドは英国の植民地でした。しかし大英帝国と言えどもこの広大な国インドを100%直接統治することは出来ませんでした。藩王国と言うのがあります。藩王国とは内政権はあるが外交権を宗主国に委任している国家のことを言います。英国が直接統治しないで、王家が統治する型の国でした。インドが1947年に独立した時に藩王国は大小合わせて560カ国、面積にして3分の1、人口の四分の1を占めていました。その中の一つがマイソール王国です。 この王国は18世紀にはウォルディヤール家が支配していましたが騎兵隊長であったハイダル・アリーが王国の実権を握り、国土の拡張を図り、その息子ティブ・スルターンの2代で繁栄を築きました。それを恐れた英国は1767年から1799年までに4回にわたり戦争を行いました。ハイダル・アリー亡き後の第三次マイソール戦争(1790年)では英国が勝利しティブ・スルターンは領土の半分を英国に割譲し、賠償金支払いの保証に息子二人を人質として差し出しました。そして第四次マイソール戦争でティブは戦死しました。勝利した英国は首都をハイダル・アリー親子が築いた城塞都市シュリランガパトナムからマイソールに移し前の藩主であったウォルディヤール家に藩王国を復活させました。そしてマイソールはその後の藩王たちが積極的に英国の都市計画を実行し競馬場や多くの建築物を立てたのです。 インド独立後もマイソール州として独立していましたが、1973年に合併によりカルナータカ州の一都市となってしまいました。マイソールの名前の由来は水牛の頭を持った悪魔マヒンシャースラに由来します。そしてその悪魔をチャームンディ女神が退治したという神話があります。 その女神を祀るドラヴィダ様式の寺院が同じく女神の名前が付く丘の上にあります。 マイソールはバンガロールの南西140kmのところにあり、車で3時間程かかります。 その途中の街道沿いの町々には特産物の名前が付き町の入口に立て看板が立っています。 スタートのバンガロールは『ガーデン・シティ』、途中で『トイ・タウン』、『シルク・タウン』『シュガー・タウン』『ヒストリカル・タウン(シュリランガパトナム)』を通過して『ヘリテッジ・シティ』と呼ばれるマイソールに着きました。今回はマイソールに入る前にハイダル・アリー親子が築いたシュリランガパトナムのサマー・パレスと呼ばれる離宮をまず見学しました。博物館になっており、絵画や武器などが展示されていました。宮殿は壁画の変色防止のため外側が日よけで囲われ、宮殿内は撮影禁止でした。 サマー・パレス見学後は女神を祀る寺院があるチャームンディの丘に車で登りました。この丘の上は標高1,062mあります。お土産屋さんも沢山並んでいました。駐車場やお寺の広場には本物の牛がたむろし、寺院ではお猿さんが観光客に果物をねだっていました。女神を祀る寺院は長蛇の列となっていましたので中に入ることを止め、隣の小さなシヴァ神のお寺を見学しました。そしてお土産を買い、丘を途中まで降りてナンディン(シヴァ神の乗り物の水牛)の巨像を見て、マイソールの町に入りました。 マイソールの名物は香木です。高級な線香に使用するサンダル・ウッド(白檀)です。 今まで欲しいと思って捜していたリンガのミニチュアを買いました。買う時に中国系の先客がいて2個あるリンガの内小さい方を買おうとしていました。そのお客に値段を聞くと200ルピー(400円)だと言いました。私は残る少し大きなものの値段をお店の人に聞きました。大きいので250ルピー(500円)との返事です。『じゃあ、要らない』と言うと『230、220、OK,200』と結局サイズが違っても同じ値段になりました。小さいリンガを買った客とはその後も同じようなコースを辿ったため2回ほど出会い、都度挨拶を交わすこととなりました。ちょっと気まずかったです。 丘から降りてマイソールの町に入り遅い昼食を取りマーハーラジャ・パレスを見学しました。 この宮殿はイスラームとヒンドゥーの様式が融合したサラセン様式と呼ばれる代表的建築物です。1897年に建設され火災で一度消失しましたが、英国人設計者により再築されたとのことです。内部もしっかりメンテされており、とても100年前の建築物とは思えませんでした。庭園で写真を撮り、宮殿に入るためヒンドゥー寺院と同じく裸足になりました。靴は入り口の横に無造作に置いていくのですが、誰かに盗まれないかと心配でした。そして宮殿建物の入り口で手荷物検査がありました。私が腰からブラ下げていたカメラに目を付けられ入場ゲートまで戻りカメラを預けて来いと言われました。私は手荷物バックの中に入れて直ぐに引き返し、ごまかそうかとも思いましたが、面倒になるのを恐れて裸足で広場の熱い石畳の上をトコトコと歩いて行って、入場ゲートのカメラ預かり所で5ルピー(10円)を払ってカメラを預けました。宮殿に戻り、中に入るとカメラ付き携帯電話で写真を撮っている人が散見されました。カメラ見つかったときにとぼけて100ルピーでも渡せば持ち込みが出来たのしょうね。 宮殿の天井画にはヒンズーの神々と一緒に背中に羽根のある天使が描かれているものがありました。キリスト教の影響をも受けているのでしょうね。 木製品のお土産の答えとバンガロールでの写真です。 丹羽慎吾

新加坡回想録(2)多民族国家

私の記憶が正しければ、赴任当時のシンガポールの人口は約360万人、それに対して年間の外国人観光客数は約400万人でした。海外からの観光客数が人口より多いということを聞いたときは驚きました。現在の人口はというと約570万人(2017)で、外国人観光客数は約1,850万人(2018)ほどになっており人口の約3倍になっています。 シンガポールが日本と大きく違う点のひとつに多民族国家であるということがあります。当時たしか中国系が約75%、マレー系が約15%、インド系が約5%でしたが、この比率は現在でもあまり大きくは変わってないようです(中国系74%、マレー系13%、インド系9%、その他3%(2017年)。これらの民族がこの島へやってきて住みついた経緯については、前回の「シンガポールの歴史」のところで少しだけ書きました。 私が赴任した職場においても大体それくらいの比率で現地社員がいました。ただ、担当する仕事は大体決まっており、中国系の人が事務を、マレー系の人が社用車の運転手でした。ここで、日本人駐在員一人一人に社用車がつくなど、贅沢だと思うかもしれませんが、それには理由がありました。 日本人がシンガポールで働くためには、日本人一人に対して何人かの現地人を必ず採用しなければならないという規制がありました。我々が自分で運転してもよさそうなものですが、この決まりに従って現地人を雇う必要があったのです。私の部には、福建人の営業担当男子部員一人と秘書役の広東人女性、そして社用車の運転手としてマレー人の男性が付いてくれていました。大きな部になると日本人が3人もいるところもありましたが、原則として車は部ごとに1台でした。 もう一つの理由は、もし日本人が運転中に事故を起こした場合、罰則がどのようになるかわからないという恐れがあったからです。まだまだ発展途上国であったシンガポールでの法律によって、日本人が100%平等に裁きを受けられるかどうかわかりません。その意味では仕事中の運転は現地人に任せた方が無難であったのです。私についていてくれたマレー人の運転手との忘れられないエピソードがあるのですが、それはまた別の機会に書くことにします。 (西 敏)

荻悦子詩集「樫の火」より「春の来方」

春の来方 何人目かの来訪者がくれたのはくすんだピンク色の 缶だった ピンクの缶には絵や文字がなくて 中に カードが入っていた カードには花を咲かせた木が 描かれていた 枝ごとに花の形が異なり 何の花と もつかない花が鈴なりに垂れている それが店の紋 章らしかった 西洋菓子と呼ばれるらしい菓子が仕 切りのない四角い缶に詰まっていた 様々な形をし て それぞれに違う模様が焼き付けられていたが どれも同じような味 一様に固かった それでも幾 日か 私は西洋菓子を齧り続けた 明治時代の味の ままかもしれないなどと言いながら わざと前歯で 噛んで しかめ面をしたりした それほどに時間に 倦んでいた 谷の向こう側 こちらと同じような住 宅地の端にある低い丘を 沈んでいく夕陽がいっと き言い表し難い光で包んだ 正面に見える斜面の木 木が芽吹き始めていた ゴールド・オーカーやベー ジュが混じる優しい色をして 梢がふわっと空に浮 かんでいた あったような無かったような幸いを思 い出させ これから先の予兆のようにも見えた そ のおぼろな一群にラメが振り撒かれた それからまた何人目かの人が紙で出来た楕円形の箱 をくれた 細かく仕切られてクッキーが行儀よく並 んでいた みな柔らかくてサクサクしていた これ が現代のクッキーよね 独りでそう呟きながら ま た幾日か サクサク シュッシュ 色々な香りや味 がする菓子を食べ続けた 灰色を凌いで紺茶の色が 層状に伸び上がる夕暮れの空に 雲が微妙に色を変 えながら南の方から動いてきた むかし母にあげた グレーのスエードの手袋のことを思い出した 母は それを瓶から漏れたパイナップルの果汁で台無しに してしまったのだ おばあちゃんが瓶詰を持たせた から…… 手袋をその後どうしたのか 母はいっさ い話さなかった 妙だったとまた思った 黄色の空に 滑らかなクリーム状の白い雲が溶けか かり 淡い薔薇色に染まりながら広がった 薄くな って それでもなんとか繋がっていた 空を夜に返 す直前 陽の光は丘の上の塔屋があるマンションを 西欧の城のようにも見せた 樹の下の暗がりで水音 がした かすかに人の言葉が混じっていて この空 は遠い地の廃墟や仮の幕屋の上にも繋がっていると 囁くらしかった 丘が次第に低くなり緩やかに消え る東南の方向 空がより広く見え 白から墨色 黄 から赤 青から紫紺へ 色彩が入り乱れ 明るく暗 くすさまじく変転する くり返しくり返しこの世の 終わりが暗示される 暗い空の水位を私は目で越え た それから心で 身体で 明るい光は 嵩を増し てくる暗い波に覆われ 波の縁で鋭く輝いたあと 波の裏側に退いていった 妖しく変幻する空に身体 を掬われ 光の裏打ちを失くした雲の端の方 漂う 私は小さな魚の形をしたチョコレートを手にしてい た 何人目の人がくれたものか もう定かではなか った 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

追憶のオランダ(19)サッカー熱

今では日本もJ-1人気で、子供たちもそれまでの野球一辺倒だったのが、サッカー少年も随分ふえているようです。でも、ヨーロッパ(だけに限らず)のサッカーに対する熱の入れようはやはり日本の比ではないのも事実です。ワールドカップ・欧州チャンピオンリーグ等サッカーの国対抗の試合ともなると、皆驚くほど熱くなる。以前のこのシリーズでも書いたことがありますが、オランダ赴任直後にロッテルダムで大乱闘があった。これは喜びが爆発し過ぎて、大乱闘にまで発展したわけだが、何年か前の欧州チャンピオンリーグの試合が行なわれた時、たまたまバルセロナからの出張帰りに、飛行機から大勢のバルセロナサポーターがロッテルダムを目指しているのと乗り合わせ、スキポール空港からロッテルダムまでの列車の中でも大騒ぎ。また、地元オランダのサポーターも続々ロッテルダムに集合、徐々に異様な雰囲気が漂ってきました。 戻ってみると、その試合の日は、街なかの店は夕方早めに閉店してガラスのショー・ウィンドーは外からベニヤ板などで補強し、物々しい警戒態勢がとられていました。警官も普段より大勢出動して、これから一体どんな大変なことが始まるのかというピリピリした感じ。試合の結果は忘れましたが、その日も以前見たのと同じ大変な騒動になったことには変わりはありませんでした。試合そのものにも興奮するのでしょうが、一部のサポーターはその後の大乱闘にこそ生き甲斐を見つけているのでしょうか。写真は、フェイエノールトロッテルダムのスタジアム。 一方、こちらは乱闘こそしませんが、あちこち仲間内で試合の勝ち負けでささやかな賭け事に夢中になります。私の会社の連中も例外ではありませんでした。単なる勝ち負けだけの予想ではなく、両チームのスコアまで入れた予想になります。0-0から始まり予想されそうなスコアすべて。これは、なかなか当るようで当らない。でも当ると、最低でも配当5-6倍というのはよくあったようです。自分の国の勝ちを信じたいが、賭けで負けるのも癪だし、という複雑な思いで賭け、ビールを片手に、一喜一憂しながら試合の進行を熱く見守ります。それを横から醒めた目でながめているのも、また面白いものです。

シンゴ旅日記インド編(その42)寅さん 帝釈天案内の巻(3)

はい、そこのお店で売っておりますのが柴又名物の『はじき猿』という玩具であります。帝釈天の使いの猿が『難を去る、難をはじく』に掛けた江戸時代からある玩具でございます。良かったら一つお子さんか、お孫さんに買っていってやってくださいな。 ねえ、おばちゃん、名古屋にもあるんですかい、お猿のオモチャってのが? えっ、名古屋には有名な日本モンキー・センターってのが犬山にあるってですか?犬の山なのに猿がいるんでございますか?犬猿の仲ってのは兄弟のように仲が良い事を言うんでしょうかね。そのセンターの隣に京都大学の霊長類研究所があるんですってですか? 面白い土地でございますね、名古屋は。 さあ団子屋に着きましたよ。おいちゃ~ん、おばちゃ~ん、みなさんにお団子お願いね~。 みなさんはごゆっくり休んで団子を食べてって下さいな。 それで、この後どちらへ行かれるんですか?えっ、スカイ・ツリーを見てから名古屋に帰るってですか?それでもって今日は終わりで尾張へ帰るってわけですかい? そいじゃ、おわりってのはさみしくなるからよ。始まりについて一つ口上を申し上げてお開きにいたしやしょう。さぁ~て、モノの始まりが一なら、国の始まりは大和の国。島の始まりは淡路島。泥棒の始まりが石川五衛門。人殺しの始まりが熊坂長範。助べえの始まりは小平の義男、覗きの始まりは出っ歯で知られた池田の亀さん、出歯亀と来たよ。さあさ、兄さん、よってらっしゃい、見てらっしゃい。ってね。大変失礼いたしやした。でも、まだまだ、わたしゃ元気だね。 でも、『柴又帝釈天の案内はつらいよ』ですね。でも、みなさん、また、来て頂戴ね~。 寅さんの余談です。  帝釈天様はいつも梵天様とつるんでおられましてね、これも御前様の受け売りですがね、奈良のお寺にある二人は優し~い顔をしているのに、何故かそれ以降に作られた像は怖~い顔にされているようでございます。また、帝釈天、梵天のお二人はわが国の密教におきましては仏法を守る12天のメンバーなのでございます。十二天とは東西南北の四方、その対角線を合わせた八方に上下、昼夜の四つを足した12の神様のことでございます。 帝釈天様が東方を梵天様は上方を守っていらっしゃるのですよ。  庚申の日について、ちょいっとしゃべらせてもらいます。 十干というのは木火土金水(もくかどきんすい)の『き、ひ、つち、かね、みず』、それに『あに』『おとうと』の『え』と『と』をつけまして、『きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、みずのえ、みずのと、かのえ、かのと、つちのえ、つちのと』とで10干になるのであります。 これを漢字で『甲丙乙丁戊己壬癸庚辛戊己』と書くんであります。 十二支はご存知『子牛寅卯辰巳午未申酉戌亥』でございますよね。 その十干と十二支を『甲子、乙丑、丙寅、、、』と組み合わせていきますと60通りできます。 それで60日、あるいは60年に一回同じ干支(えと)が回ってくるのでございます。 本来の『えと』は兄弟のことで十干を言うのでありますが、今では干支と書くんであります。 みなさんは『男をつらいよ』をご覧になったことがあると思いますがね。 私がその映画の第一作で20年ぶりにこの柴又に帰って来て、題経寺の境内で宵庚申の纏奉納で纏を振りかざしている場面がございます。そして廊下に出てこられた御前様に長いご無沙汰をお詫びしているその時にウチワ太鼓を叩いてお参りしていた団体さんの中からおばちゃんが私を見つけて近寄って来る場面がございます。そのハッピの背中の真ん中に南無妙法蓮華経と書いてあったりするのがわかります。 また縁日でしたので庚申とか帝釈天と書いた赤い提灯がお店にぶら下がっているのが出て来たりもします。今度もう一度映画を観られる時にはそれを思い出していただければ本日お話しましたことがよ~く分っていただけると思います。 『男はつらいよ』で飄々とした御前様役の笠智衆さん(1904年~1993年)は熊本県の浄土真宗本願寺の生れでございます。道理で御前様の役が上手いはずですよね。地でやっておられたのではないでしょうかね。 なぜ私がその御前様の言うことをよく聞くのかってですか? それには深~い訳ありなのでございます。実は御前様は私の名付け親なのでございます。 私の死んだ親父というのは大変な道楽ものでございましてね。私はその親父と当時柴又で芸者をしておりました女との間に出来た子供なんでございますよ。その実のおふくろがですね、生まれたばかりの私を親父の家の前に置いてけぼりにして京都に身売りされて行ってしまったのであります。それでその次の日に、育ての母が、これがまたよく出来たお袋でしてね、御前様に乳飲み子の私を抱かえて相談に行きまして寅次郎と名前をつけて頂きましたんです。それは昭和11年の2月26日のことでございます。世の中は軍人さんが鉄砲を皇居に向けた日だったそうでございます。えっ、なぜ私の名前が寅次郎かってですか、さすがでございますね。私には竜一郎という名の優秀な兄がいたんでございますがね、若いときに釣りに出かけて時化に合い亡くなってしまいました。まあ、私の昔話はこれくらいにしましょう。 寅さん 帝釈天案内の巻 終わり 丹羽慎吾

新加坡回想録(1)シンガポールの歴史(下)

日本による占領と軍政 イギリスは、シンガポールを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していました。このため1941年に太平洋戦争が始まると、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による攻撃を受けました。この攻撃は1942年2月7日に開始され、同地を守るイギリス極東軍司令官のアーサー・パーシバル中将が無条件降伏した2月15日に終わりました(シンガポールの戦い)。 その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名されました。その後日本から多くの官民が送られ、過酷な軍政が敷かれることになりました。市内では憲兵隊が目を光らせ、ヨーロッパ系住民は収容され、インド系・マレー系住民の他、華僑も泰緬鉄道建設のために強制徴用されました。 また当時は日中戦争の最中でもあったため、中華系住民のゲリラや反乱を恐れた日本軍は、山下奉文司令官名の「布告」を発行し、抗日独立運動家やその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、氏名を英語で書いた者を「知識人」、「抗日」といった基準で選別し、対象者をトラックで海岸などに輸送し殺害したといわれています(シンガポール華僑粛清事件)。この事件は戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が発掘されたことにより、日本に血債の償い(血債は中国語で『人民を殺害した罪、血の負債』といった意味)を求める集会が数万人の市民を集めて開かれる事態に発展し、1967年には「血債の塔」が完成しました。 再びイギリスによる植民地支配へ 1945年8月に、日本の敗戦により第二次世界大戦が終結し日本軍が撤退したものの、日本と入れ替わり戻ってきたイギリスによる植民地支配は継続することとなり、長年の念願であった独立への道は再び閉ざされてしまうこととなりました。 しかし、長年マレー半島において搾取を行った宗主国イギリスに対する地元住民の反感は強く、その後も独立運動が続くことになりました。第二次世界大戦によって大きなダメージを受けたイギリスには、本国から遠く離れたマレー半島における独立運動を抑え込む余力はもう残っていない上、諸外国からの植民地支配に対する反感も強く、いよいよ植民地支配を放棄せざるを得ない状況に追い込まれていきます。 マレーシア連邦 1957年にマラヤ連邦(Persekutuan Tanah Melayu)が独立し、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが首相に就任します。その後1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領(State of Singapore)となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシア連邦(Malaysia)を結成しました。 しかし、マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党(PAP)の間で軋轢が激化していきました。1964年7月には憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突し、シンガポール人種暴動 (1964年)が発生し死傷者が出る事態となりました。 分離独立 1963年の選挙において、マレーシア政府与党の統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)の間で、相互の地盤を奪い合う選挙戦が展開されていたことにより関係が悪化します。ラーマン首相は両者の融和は不可能と判断し、ラーマンとPAPのリー・クアンユー(李光耀)の両首脳の合意の上、1965年8月9日にマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立しました。独立を国民に伝えるテレビ演説でリー・クアンユーは涙を流しました。 (西 敏)

荻悦子詩集「樫の火」~より「球花」

球花 松の花 初めから微小な球形をした粒の集まり 粟 の穂に似た黄色の穂 それが現われるのはいつだっ たか 裸木ばかりの冬の林に 高い松の木が傾いて 一本だけ立っていた 丘の上を歩きながらその木を 探して目が彷徨う 松毬 落ちていない 林ごとも うないのだから 粟の穂のような松の花 球花から 球果へ 裸子植物の雌花 花穂が出るのはやはり春 だったろうか さようなら ひそかに告げる別れば かりが重なり さようなら 私はまだ冬の中にいる 金粉をまぶした小さな松毬 クリスマスリースに飾 ったひとつ それさえ捨てられなくて 棚の上 猿 捕茨の赤い実のそばに置いてある 高い松の木が傾 いて 行く手にひょいと現れるかもしれない 無く なった林に いつだったか松の木が黄色い穂を出し ていて 野鳥が集まっていた 花喰い鳥 その名が 口をついて出て 直前まで考えていたことを忘れて しまった 家の窓から松の木を遠目に眺めた あの 鳥は花を食う鳥にちがいない 鳥の羽根が光を帯び て見えた その時に思わなかったことを 今は先に考える 木 には虫がいる 葉に幹に樹液に それぞれ違う虫が 寄る 油虫 貝殻虫 木蜂 髪切虫 蛾の幼虫 虫 のあるものは他の虫を食べる 蟻が虫を食べる 野 鳥が寄ってくる 花の色に惑わされ 枝葉の緑に魅 せられて かもしれない しれないが 葉や花をつ つきながら 胃に入れるのはたぶん虫やその卵 ま たは花の密 さようならばかりする 鳥と木や草や 花 人と人 また春が巡ってきたらしい 松毬がひ とつ 猿捕茨 茨の蔓 蔓に残り乾いていく実 私 はまだ二月の名残りの中にいる くすんだ匂いを纏 っている 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

追憶のオランダ(18)歩け歩け!

もう40年近く前になると思いますが、テレビのニュース番組か何かで面白い話を紹介していました。世界中から現役の軍人、アスリート、さらに民間の健脚自慢の人たちが集まって何日も長い距離を歩き通すというユニークな大会があり、日本からも毎年自衛隊員なども参加するのだと。この時は場所がヨーロッパということだけでどこの国なのかまでは覚えておりませんでした。しかし、オランダに住むようになって、それがオランダで毎年開かれる正式名称 De 4 Daagse(単に「4日間」という意味のオランダ語です。英語では、Internatinal four days marches Nijmegenといいます)という有名な国際大会であることが分かりました。オランダ東部、ドイツ国境に近いナイメーヘン(Nijmegen)という町で毎年7月第3火曜日から4日間開催されるウオ―キング大会でした。世界中から歩くことに自信のある人たちが集まり、30km・40km・50kmという距離にクラス分けされ、各々が4日間毎日その同じ距離を歩き通すという単純と言えばこれほど単純なことはないというくらいのユニークな大会です。参加者は自分に合った距離を選び、4日間合計120・160・200kmというとてつもない距離を踏破することになる訳です。 これは、いわば本式のレースではありますが、この時期オランダ各地で大人から子供に至るまで、地区単位や、会社仲間や、あるいは学校行事としてなど、いろいろなグループで近隣を3km・5km・10kmと体力に見合った距離を設定して夕方から一斉に歩きまわる光景が見られます。オランダのこの時期は日が長いので、夕方から数時間かけてこのユニークなイベントを4日間楽しみます。その距離を踏破するとメダルがもらえます。5年かけて5個目のメダルをもらうと、今度はさらに立派な大きなメダルをもらえます。 7月に入ると、同じ日にたくさんのグループがそれぞれ設定したコースで歩き出すと、お互いのコースが錯綜していたりすることはよくあります。また、大きなグループになると先頭から最後尾まで随分と距離が空いてしまうことがしばしばです。当然信号待ちもあるので、交差点では四方に長い行列ができることになり、そんなときなど、自分たちの進む方向をしっかり覚えておくか、地図でその都度よく確認しないと大変なことになります。全員がすべて知り合いという訳でもないですから、間違って他のグループについて行ってしまい迷子になる子供(大人も)も出来てきます。私は子供が通っていた関係もあり、ロッテルダム日本人学校のグループの引率役として他の父兄たちと一緒に毎年歩きましたが、大人も含め何人かは必ずコースを外れて大回りしたり迷子になったり、皆がゴールしてもなかなか帰ってこないというハプニングも何度か経験しました。出発地点が日本人学校付近ですから、たとえ迷ったとしても住所さえ言えれば親切なオランダ人が帰り道は教えてくれます。 この地域コミュニティーごとの小さな大会の呼び名は、Avond 4 Daagse (4日間の夕べ、という意味)、あるいは日本人社会では「歩け歩け大会」と呼んで楽しんでいます。