コッツウォルズ紀行㊲インターネット

1999年に、自ら企画、実行したイギリス自由旅行記「コッツウォルズの歩き方」を掲載しましたが、実はこの旅行についてのいくつかのエピソードや感想があります。随分と昔の話で恐縮ですが、書きためたものをいくつか紹介しています。 ———————— 今回のコッツウオルズの旅は、初めてパックツアーの向こうを張って、スケジュールの企画からチケット、ホテル、レンタカーなど一切の手配を自分でやり、実践した旅であった。今まで旅行社におんぶに抱っこで任せていたことをすべて自分でやるわけだから、相当の労力と時間が必要と思われる人がいるかも知れない。しかし、実際には思ったより簡単でしかも短期間の間に出来たのである。 その理由の一番に挙げられるのは、やはりインターネットを利用したことである。まず、格安チケットを得ることが出来たのはインターネットによる情報であったし、ホテルやB&Bの予約はインターネットで行った。レンタカーは初めてだったので事務所に出かけていって予約はしたが、事前に情報を収集したのはやはりインターネットだ。その他、旅行社が提供しているHPによる現地情報はもちろん、これまでに同じ目的地に行った人のホームページも参考になった。 いままでも旅行者から旅のパーツのみを買い、企画や行動予定はすべて個人でやられた人もいるであろう。その場合の殆どはあまたある旅行書や旅行雑誌を参考にされたはずである。ホテルの予約も旅行社に頼むケースが多かったに違いない。これがインターネットの普及によって、自宅に居ながらにして膨大な情報を、しかも時間をかけずに得ることが出来るようになったのである。 インターネットが普及すると生活が一変すると言われているが、今回の旅の手配で実際に体験しその事実の一部が確認出来たような気がする。こんな便利なものを放っておく手はないというのが私の正直な感想である。少しパソコンに投資してこの便利な武器を大いに活用されることをお薦めする次第である。(ちなみに私はパソコンメーカーやインターネット事業の会社とは一切関係ありません!?) P.S. この記事を書いた1999年から、もはや18年が経過した。その間ネット環境は様変わりで、上記に書いた内容は既に陳腐になっている。インターネットの普及は様変わりの状況で、いまや、携帯電話はひとり一台、それもスマホが主体に切り替わっている。スマホなら、ネットで上記のような情報収集や予約ができるのである。時代錯誤の記事になりかねないが、当時の様子と自分の感じていたことの備忘録として敢えて掲載した。

フランスあれこれ(10)下宿の叔母さん(トゥールのお母さん)への手紙(III)

2度のフランス駐在も終わり、20年ほど前に日本に帰国しました。叔母さんに最初にお目に掛かり大変お世話になって以来約40年位たっていました。突然柴田さんが私の前に現れたのです。場所は軽井沢です。 私の親友で同じ高校同級生、今も地元に住んでいる友人J.U君ですが、私の帰国以来10年、毎年夏の終わり頃に彼の会社(大阪朝日放送)の軽井沢寮で落ち合って数日を一緒に過ごしていました。今から10年ほど前の軽井沢でのことです。その友人から「今日は社長が来ることになっている」と聞きました。その社長さんの名前が柴田さんと聞いて一瞬ビックリ!まさかと思いましたが、元朝日新聞、パリ支局の経験もあるとの話。高い確率でありうる話、ぜひ食事もご一緒したいとJ.U君にお願いしました。 確かめるまでもなく下宿の先輩でした。暖炉の上にあったあの写真のご本人。フランス語学校のあと一年程トウールの大学に籍を置いていた様子。早速ワインを抜いて、思い出すまま色々とお話をしましたが、私の記憶違いが多くどんどん修正される始末、滞在期間の長さだけではなさそうでした。台所の手伝い、庭の草刈りや掃除、その他色々お手伝いしたことも伺いました。そうした平素の行いから叔母さんが柴田さんを我が子のように慈しまれたのではないかと想像しますが如何なものでしょうか。 結論を申し上げると、私がフランス語学校の事務所で下宿を紹介された折、一番のお勧めとして叔母さんを勧められたこと、これは日本人が来るというので僅か3か月という短期間の滞在にもかかわらず私を迎え入れてくれたこと、そして家庭教師をして頂いたこと、三度の食事で料理の話、チーズの事、ワインの知識など色々教えて頂いたこと、最後にワインのボトリングまで経験させて頂いたこと、すべては柴田さんの品行に魅せられた結果だとその時になって気づいた次第です。改めてお二人に心から感謝申し上げる次第です。「気が付くのが遅すぎる!」とお叱りを受けそうですね。 その後柴田さんについて少しばかり調べましたのでご報告させて頂きます。私より4年先輩、京都大学のあと朝日新聞、当初は社会部で警察廻りを、そしてフランス留学のあとサイゴン(ベトナム戦争時代)、パリ、ロンドン、やがてヨーロッパ総局長、本社の編集局長と栄進、私が二度目のパリに出向く頃は朝日放送役員、お目に掛かったときは社長をされていました。若い頃からフランスやヨーロッパに限らず世界のニュースや人々の暮らし、ものの見方などを紹介、週刊朝日にも連載で掲載したとのこと、更には多数の出版もされています。2013年6月最後の出版「地球の味わいⅢ」を大阪の友人J.U君経由でお送り頂きました。 私の知る範囲でフランス人を魅了した最初の日本人だったと思います。 (柴田さんの写真はインターネットで見つけたものです) 追記=友人のJ.U君から柴田さんに関する追加の情報が寄せられましたのでご紹介します。多分朝日新聞入社後間もない頃かと思います。1970年代から断続的に頻発した大阪釜ヶ崎騒乱の折、柴田さんがドヤ街に潜入して住民と寝食を共にして記事を書いたとのこと、その折の布団の嫌な臭いが忘れられないと言っていた由です。 私の持論ですが光の裏に影がある。日本の高度成長を支えた陰の力の貢献も忘れてはいけないと思います。

荻悦子詩集「樫の火」より~「白桃」

白桃   水蜜桃 そう呼んでいた 桃を入れた竹の籠が 縁台の傍に置かれていた 好きな時に食べなさい 祖母は言ったが 繊毛のある白い肌 手に余る大きさ 柔らかさ 大人の誰かが どうにかしてくれないことには 澄んだ水が 岸壁の裾をゆっくりと過ぎる 桃は甘く匂ったが 私はほかのことを思っていた 狭い流れの向こう 岩山が水の中から聳え立ち 頂上に松の木 はっきりと見えるその木の下に 母が子供のころに見たように 鹿が現れないかと 鹿は高く一度だけ鳴いた カンヨー 遥か下の水面に身を投げた 鹿は気絶したかのようだった いっとき浮いて流され それを見た人たちが舟を出した その後のことを母は決して話さない 私もことの終わりを思わない 川の水は澄みわたり 泳いで戻ると 甘い水蜜桃 きれいに上手に食べなさい 一日にひとつ 果肉の白いところ うっすらと桃色の部分 ほとんど水のように消え 細かい繊維がわずかに残る どこかはばかるところがあって 黙りがちになる 藍色の薩摩硝子の鉢に 白桃を盛った そうして一日眺めている 陽ざしに合わせて 白桃は匂い 母の悲しいひと声 鹿が断崖を跳ぶ 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

追憶のオランダ(11)ホワイトアスパラガス

今から30年近くも前の話になりますが、何度目かにオランダに出張で行った時のことです。時期は5月末頃。午前中に訪問先での仕事を終えて帰ろうとしたら、先方の人から昼食に誘われ、とあるレストランへ。そこで食べたのが初めてのホワイトアスパラガス料理でした。それまで、日本で瓶詰になった細いフニャフニャしたアスパラガスしか食べたことがありませんでしたし、それは何かの付け合わせといった感じのものでした。しかし、レストランで出されたものは形こそ瓶詰のものとよく似てはいますが、存在感が全く違い、太く立派なものが大皿に確か4-5本、その上にゆで卵を微塵に刻んで何かマヨネーズ風のソースがかかっているものでした。立派なメイン料理と言えるものでした。 聞くと、ホワイトアスパラガスはこのあたりでは5-6月頃に旬を迎える食べ物(野菜)で、その時期に味わうのが一番という、いわば日本の筍のような感じです。 その時期になると、街の市場・スーパーなど至る所で新鮮な朝採れのアスパラガスが店先で見られるようになります。見ると直径2センチ以上の太い20センチ以上のものが何本も束にされて並んでいます。 家族とともにオランダで生活を始めてからは、毎年この時期を楽しみにしていました。最初は料理の仕方がよく分からず、皮をむいて茹でるということしかわかっておらず、茹でたもののすじが強くて歯に挟またり口に筋が残って食べにくいのです。昔レストランで食べたものを思い出して、どうもどこか違う・・・。何度か試行錯誤をして分かったことは、まずできるだけ太いものを買って、厚めに大胆に皮をむくこと、内側に籠が付いた縦長のアスパラ専用の鍋を使うこと、茹でる時には剥いた皮も一緒にゆでること(皮を一緒に茹でることでアスパラガスの持つ旨味が失われない)。ソースはそれぞれの好みがあろうし、茹で加減にも各人の好みがあります。私自身は、あまり茹ですぎずに、熱々に生醤油を滴々たらして、フーフー言いながら食べるのが好きです。 日本に帰国してからというもの、5-6月になると家族みんなで「ホワイトアスパラ食べたいな」という会話をしていましたが、何年か経ってある日、それまではお目にかかったことのないホワイトアスパラですが、時々スーパーなどでも生で3-4本束にしたものを売っているのを見かけるようになりました。ちょっと細くて、しかも値段が割と高くて大いに不満はありましたが、3束ほど買ってきて昔を思い出しながら食べたことが何度かあります。 最近は、その頻度が増えてきたように思っています。日本でもファンが増えたのかなとも思っていますが、どうでしょうか?

シンゴ旅日記インド編(その36-1)大阪のオッサンが並ぶの巻(上)

まずは、ちょっと前にスーパーで買い物してレジで並んで待ってた時の話ですわ。 レジの手前には日本と同じようにチョコレートとかお菓子が置いてまんのや。 そこに若い女性が二人ばかし、お菓子を選んでおったんで、ワテはこの子らはレジに並んでるのや無いと思って横を通り過ぎてレジの列に並んだんですわ。 そしたらその子らがお菓子を持ってレジに行くやないですか、何でやと思ったら、前でレジを打ってもらっている人のグループやったんですわ。 その子らはすでにレジを打っているのにワテが見てるだけでも3回もお菓子を取りに行ったり来たりしたまんのやで。 買うモンを全部決めてからレジに行けと言いたかったんですわ。でも言えませんでしたわ。 ワテの一つ前のお客さんな、レジを打ち終わって袋に詰めてくれた商品を、袋を逆さまにしてレジ台の上にぶち開けてレジの人に商品の数え直しをさせとるんですわ。 それも二袋もでっせ。何でやねんと思いましたわ。 そして買った商品の中から一個を外したんですわ。 買わんでもエエもんを入れとったんかいな。 レジに行く前に買うモンだけにしとかんかいと言いたかったんですわ。でも言えませんでしたわ。 そんでワテの番になってカゴをレジの上に置いたら、後ろから来たオッサンがワテのカゴの横に商品を置くんですわ。 商品が少しだから先に計算せいちゅうような感じでしたわ。 ワテが静かに『列に並んでね』って言おうとする前にレジの人が後ろに行きなさいと目で合図をしたんで、オッサンは後ろに行って並びましたがな。 私の番になりましたわ。レジもレジですな。同じモンを複数買うても一個一個確認して一個一個レジ打つんですがな。 レジの機械に複数買った時にまとめて掛け算するボタンが無いのかいなと言いたかったんですわ。でも言えませんでしたわ。 先日、一泊二日の国内出張に出かけましたんや。 朝6時半の飛行機に乗らないけませんのや。 そやよってに、4時に起きて、5時に空港に着きましたがな。 まだ真っ暗でんがな。いつものように空港の建物の外で一回、中に10歩入って一回と本人確認とチケットの検査を済ませてチェック・インですわ。 そしてボディ・チェックに向かったんですわ。アレッ、何じゃこれはと思いました。 その朝はロビーにSの字が3回できるくらいに人が並んでまんのや。 初めてのぎょうさんの人込みですわ。 どこが尻尾か分からんくらいでしたけど、やっと見つけて並びましたんや。 少しずつ進んでいきましたわ。 するとオバサン二人連れがS字のまがり角のとこに平気な顔で割り込んで並んだんですわ。 誰も文句を言いませんのや。私も言いませんでした。いや言えませんでした。 そんで徐々にボディ・チェックに近づいて行くんやけど、出発時間が迫っている客を優先して先にやり過ごさすんでんな。その人らが当然の顔して、始めから並んで来た私らの横をスースー抜かして行くんですわ。ちゃんと出発時間に余裕を持って来なアカンがな、ワテかて1時間半前に来たんやと言いたかったんですわ。でも言えませんでしたわ。 そしてボディ・チェックが終わって二階に上がって搭乗ゲートの前ですわ。 出発時間の30分前でした。ワテが行くと一人しかお客さんがおらんかったんやけど、直ぐに私の後ろにどんどん人が並び始めましたわ。 そうするとアナウンスがあって女性が先に行くことになったんですわ。 どんどん女の人が先にゲートを通り過ぎて行くんですわ。 何でか分かりませんわ。初めてのことでしたわ。 そしてやっとワテら並んでいる男性たちの番となりましたがな。 そんでゲートの入り口でいつものように警察官にチケット見せて、手荷物のタグ見せて通路に入りましたわ。アチャ、なんや通路にX線検査とボディ・チェックがあるやないですか。 そりゃ、その日の一週間前にベナレスで小さなテロ事件があったからチェックは厳重にせなアカンけど搭乗口を過ぎてまで検査するんかって言いたかったんですわ。でも言えませんでした。 歩いて飛行機の側に行ってタラップを登って飛行機に乗りますわな。これがまたすんなりいきませんのや。通路一本で両側に3人づつ乗る中距離飛行機でんがな。入り口から中に進まへんのですわ。何でかというと、座席間隔が狭いさかいに通路側に座った人は窓側に座る人にたいしていちいち通路に出て中に入れて上げないかんのですわ。それにみなさんは荷物をようけ持って載ってくるさかいに自分の席の上のコンパートメントばかりでなくよその席のとこにも荷物をいれはるんですわ。後から来た人は手荷物を入れるとこがないんで突っ立ってCAが助けてくれるのをまってまんのや。手荷物は一個にせいって言いたかったんですわ。でもいえませんでしたわ。私も手荷物としてビジネスカバンと着替えの入ったリュックと、ちっちゃいセカンドバックの3個持って乗ってましたんや。 (本編 下につづく) 丹羽慎吾    

コッツウォルズ紀行㊱カムデン・パッセージ

1999年に、自ら企画、実行したイギリス自由旅行記「コッツウォルズの歩き方」を掲載しましたが、実はこの旅行についてのいくつかのエピソードや感想があります。随分と昔の話で恐縮ですが、書きためたものをいくつか紹介しています。 ———————— 地下鉄エンジェル駅のすぐ近くにある、ロンドンで最大級のアンティーク専門マーケット。道路沿いはもちろん、6つのアーケードにショップがひしめきあっている。約250のアンティーク・ショップが狭い道沿いと、小さなアーケードで営業。個々のアーケードは商品によって専門化されてるが、なかでもジョージアン・ビレッジと呼ばれるアーケードの個性が際立っているとの評判。素晴らしいアール・ヌーヴォーのアンティークに出会えるらしい。 ストラットフォードの巨大なアンテイークショップで充分すぎるほど時間をとった我々だったが、ロンドンに入ればまたロンドンで何か掘り出し物はないものかと興味津々出かけていった。当日はどんよりと曇った日で雨も心配される空模様だったため、道沿いのショップは多分少なかっただろうと思う。 朝一番に行ったので、ようやく到着してこれから店開きをしようという人たちが多かった。シルバー・ウェアなどを売る店を冷やかしながら歩いてゆくうちにある画廊に入った。 その画廊はまさにアンティーク、100年以上も前に描かれた絵画のみを扱う店であった。風景画、動物画、植物画といろいろあったが、そのうち植物画を何点か買い求めた。 家の居間に飾る絵が欲しいとずっと思っていたので丁度いいものが見つかった、と喜んだ。こういうものは日本ではなかなか見つからないので、こういうチャンスに買うしかないだろうと思う。税金の還付について聞くと、アンテイークはもともと税金がかかっておらず、従って還付もないとのことであった。

フランスあれこれ(9)下宿の叔母さん(トゥールのお母さん)への手紙(II)

こんな写真が出てきました。5月21日(1964年)とメモされていました。叔母さんの隣には私が座っていました。ご主人が私のカメラで撮影したと思います。そう、叔母さんは私の家庭教師でした。ご記憶でしょうね。週末ごとに学校から作文の宿題が出されました。私が苦心惨憺しているのを見て私の作文を添削してもらった事があります。それを私の字で書き直して学校に提出しました。先生が皆の宿題を手にいつもと違ってげらげら笑いながら教室に現れました。教室の皆も訳も分からず貰い笑いをしたものです。私は何か不吉な雰囲気を感じていましたが、案の定先生が黒板に私の作文を書きだしました。先生曰く「私より先に作文を添削した先生が居られました。」文章はともかく単語が随分間違っているというか、多くのフランス人(特に老人)が間違って書いているものだと言うのです。私はちょっと苦笑いをしていたのでしょうか、多くの人が私の作文と理解したようで私を見つめる人が多かったと思います。でもお蔭で私は多くの人から声をかけて貰えることになり、良い意味で友人を得たという事です。 叔母さんには直接の勉強だけでなく日常の生活でも色々ご配慮いただいたことを知っています。食事の折、料理の名前や材料などを教えて頂きました。例えばチーズなどは毎日違ったものを買って出してくれたと承知しています。 一度セイロンから来たという友人に誘われ彼の下宿に行きました。古い2CV(Citroenの安い車)でしたが、下宿は歴史のありそうな豪華な農家でした。台所に続く大きな酒蔵があって樽からワインをグラスに直接取り出し、しかも次々の樽の味見をしたものです。「公認されているので盗み酒ではありません!」と言う風情でした。何れにせよ立派なワインカーヴでした。このセイロンからの学生、奥さんも子供もいて何となくセイロンの大金持ちか、或いは優雅な外交官だったかもしれません。 週末色々な企画であちらこちらの古城巡りをしました。言うまでもなく、フランスの中でも指折りの観光地、そしてトウールはその中心地ですよね。都度ガイド兼先生の解説付きなのですが私はまだ言葉も良く分からず残念至極。しかも当時は日本語の解説書を持ち合わせませんでした。 ある日叔母さんから今度の週末の昼頃は外出禁止、家にいるように言われました。先生の命令です。当日お昼前叔母さんの親戚の方らしい人やご主人の知人が数名集合。私も呼ばれて裏庭から半地下に入ったのですが、そこがワインの貯蔵庫。10個くらいのワイン樽がありました。先日の農家の樽に比べてはるかに小型でしたが、何種類かのワインの貯蔵庫だったのです。今日はその一部を瓶詰にするとのこと。作業のあと庭にテーブルを出して賑やかに味見のパーティーをしましたね。これも私の滞在期間中の一つの経験として企画してくれたことは間違いありませんね。そして今考えるとこれが多分私の研修終了でパリに旅立つ前の送別会だったのかもと推測します。 丁度この頃気が付いたのですが居間の暖炉の上に一枚の写真が額入りで置いてありました。日本人らしい、しかも私と似た年恰好、無論私ではありません。私はどなたですかと伺ったところ、「前に下宿していた日本人でムッシュー・シバタ」と聞きました。話はこれまででしたが柴田さんと言う名前はずっと私の耳に残っていました。やがて判明しますが、それは数十年後の事でした。その話は次回にさせて頂きます。 東 孝昭

荻悦子詩集「樫の火」より~「水位」

水位 鉱山の跡で採って来た石を 幼い子が放り投げた 庭石に当たってカーンと音がした 午後三時五十九分 川に近い小屋に繋がれた猟犬が いっせいに声を上げた 獲物を追い立てる声ではない 餌をねだる声でもない ふっと漏らしたため息に 細い声が乗ってうねる 辺りの犬という犬がそれに合わせ 高く尾を引いて人のように鳴く 子供たちははっと顔を見合わせ 鉱石をつつくのをやめた 二人の足元で 鉱石は乾いた墨汁のように照っている 犬が河原に飛び出してきた 水際までワイヤーが一本張られている 犬は五匹 鎖の長さだけ互いに離れ 吠えながら ワイヤーの左右を疾走する 鎖の先を留めた金属の輪が シャーシャーと滑る 犬の鼓動 根の悲しみが 禍々しい金属音となって 冬の山峡に響く 川の水は日を追って減り 向こう岸の岩壁に まだ濡れて 昨日の水位が印されている 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

追憶のオランダ(10)ロッテルダム日本人学校

当時(1990年代)、オランダはあのように狭い国(と言っても、面積は九州くらいです)なのに、日本人学校がわずか75kmしか離れていないところに2校もありました。アムステルダムとロッテルダムです。当初ロッテルダム近辺から南の地域の子供たちは、毎日バスで1時間以上かかってアムステルダムまで通うか、現地校かアメリカンスクールに通いながら補習校で勉強していたわけです。そこでロッテルダム在住日本企業の人々がなんとかせねばと尽力し、さらに大阪府、ロッテルダム市の絶大なる支援を得てオランダで2校目の日本人学校がロッテルダムに実現したのでした。両校にはそれぞれ文科省から先生を派遣してもらい、日本の公立の小中学校と同じ質の授業が受けられるという恵まれた環境ですが、学校としてはあくまでも私立学校なのです(公立学校ではありません)。したがって、日本からの先生派遣のこと以外の学校運営にかかわるすべてのことは私立学校として理事会による運営になるのです。これは、世界どの国にある日本人学校でも同様です。私も他の日本企業の方々と一緒に、微力ながら3年間理事としてお手伝いをさせていただきました。 学校の土地と校舎についてはロッテルダム市から「年1ギルダー」の契約で借り受けていました。それとロッテルダム日本人学校がユニークだったのは、同じ敷地に、しかも建物も一体になった校舎で半分はアメリカンスクール、半分が日本人学校というものでした。共通の設備を使用することもあるし、時々、授業でも交流もしていました。International Education Center of Rotterdamというのが正式名称です。日蘭交流400年を祝う学校での記念行事には、現アレキサンダー国王(当時は皇太子)が来賓で見えられたこともありました。この写真は、Google earthから借用した最近の様子です、正面玄関が写ってないのは残念ですが。 しかし、学校運営の費用というのはそれなりにかかり、小学校から中学校までの9学年がありますがロッテルダムくらいの規模の生徒数(当時80-100人弱)ではどうしても授業料収入だけでは経済的な面で運営が厳しくならざるを得ませんでした。隣の国のデュッセルドルフのような日本人が多く住んでいるところは別としても、その他のヨーロッパの都市の日本人学校は運営に頭を痛めていたようです。私も、他のヨーロッパの事務所の同僚からその地の日本人学校の様子を聞いたりして参考にしていました。生徒の親たちの中には、日本人学校なのにどうして授業料を払うのか、というクレームもでてきます。そもそも日本の公立学校と同じだと思っているところから誤解をされているわけで、これは何度も説明して理解してもらいました。また、厳しい学校運営から、授業料の値上げの話をした時には、もうこれ以上の値上げは受けられないと抵抗される親御さんもおられました。皆さん、海外での子女教育に関心がなかった方は(以前の私も似たようなものでしたが)公立の小中学校はタダという感覚があって、それには一人一人懇切丁寧に説明し、それでも納得されない時は、「それでは、隣のアメリカンスクールはいかがですか?ところで、彼らの授業料はいくらかご存知ですか?一桁お高いですよ。」ということにしていました。日本人学校は、子供が通っているといないにかかわらず、ここに住んでいる人たちの善意で運営されているので、特にお子さんが通っている家庭の皆さんは学校行事とかにも是非積極的に参加しご協力ください、とお願いもしていました。 最後の写真は、理事を退任し帰国するにあたり同校より頂いた記念のデルフト焼き絵皿です。校舎正面と校章(チューリップと桜がモチーフです)が描かれています。