フランスあれこれ(4)ワインで乾杯!

昔むかしの話。「うちの孫はワインを飲みたくないという、困ったものだよ。昔は子供も少し水で割ったワインを飲んだものだ。孫はコカが良いと言うんだ。」「お年は?」「7才だけど」(コカとはコカコーラのこと)かくしてフランスでは子供の時からワインの味を覚えるのだと思った次第です。 パリに赴任した直後、郊外のマンション3階に住んだのですが、すぐ近くを確かシトローエンという自動車メーカの鉄道輸送用の側線が通っていました。一日2~3便程度長い貨物列車が車を積んで通行しました。私が目にしたのだから多分日曜日、線路工夫が保守点検をしていましたが、線路の脇にワインボトルが見えました。 事務所には車で通勤していましたが、一年に何度かパリの出口で一斉検問があります。パリ市内で重大事件が発生した時などの対応策です。結構渋滞して窓越に身分証明を要求され、時にはトランクを開けろと言われます。当時は飲酒運転でしたが、この点は全く問題になりません。第一、検問しているポリスが足元にワインボトルを置いていたくらいです。 私の古い友人でルイさんというポリテク卒業生がいます。エコール・ポリテクニックというナポレオン創設と言われる秀才を集めた技術系の大学です。この学校を卒業すると末は大臣、高級官吏、或いは大会社の社長と言われています。(話題の日産ルノーのゴーンさんも同校卒業生) この学校では一年に一度パリの中心にあるオペラ座を借り切ってダンスパーティーが開催されるそうです。卒業生やその家族、そして現役学生も加わって大変盛況だそうです。卒業生は優秀な後輩を知るため、学生は将来の就職のため先輩と知り合いになりたいなどそれぞれに思惑があるようですが、何よりも重要なのは娘の伴侶を見つける、そして男どもはそんな彼女を見つけるためと言われています。そこで学生は懸命にある勉強をすると言います。勉強のテーマは「ワイン」です。ワインの話で家庭が判るということでしょう。 数年前その友人ルイさんが日本にやって来た時の話。最近日本酒「獺祭」がパリで大変人気を呼んでいると聞きました。私は耳にしたことのないブランドだったので、彼の発音では「ダッサイ」それとも「ザッサイ」?どちらの発音か不明でした。しばらくして品川で飲み会があり、安いチェーンの飲み屋でまさかと思いながらこの発音のお酒があるかどうか聞いてみました。それがあったのです!店に残る最後の一本、350ccのボトルでした。とにかく安い酒だったという事でしょう。 友人の話によるとまずアメリカで流行したらしいが最近パリの高級サラリーマンがランチの折、従来のグラスワインに代えてこの日本酒を好んで注文するようです。正直、世の中も変わったものだという思いでした。アメリカの酒類はすべて海外から、そして何もかも色々ブレンドしてカクテルにしたり、ソーダや水で割って飲むのが普通だったからです。 本来アルコールドリンクはそのまま頂くのが本来の味を楽しむことではないかと思っていたので、昨今と言わず戦後長く日本もアメリカの影響を受けて水割りやソーダ割を飲んでいたはずです。昨今は逆に日本のお酒がアメリカ経由でヨーロッパに行くなんて文化逆流の時代だという思いです。 さてここからは私の理屈です。結論を申し上げれば人がワインを選ぶのではなく、ワインが人を選ぶということです。私はレストランでワインを選ぶとき一度あのワインを飲みたいとか今度はこちらにしてみようとか余り考えたことはありません。素直にソムリエさんにおすすめを聞くことにします。 ソムリエさんというのはレストランのドリンク専門、そして私の注文をちゃんと知っていてそれに適したワインを勧めてくれます。ランチタイムのカフェレストランではハウスワインを頂くことにします。その日のランチに一番適したワインを今日のハウスワインとして提供しています。要は安くて料理にぴったりという理屈です。 レストランでワインを注文するとソムリエさんが注文主のグラスにほんの少しのワインを入れて味見を依頼します。デギュスタシオンと言いますが、味の確認とコルク屑をゲストのグラスに入れない配慮、更にもう一つ毒味の意味があると聞いています。 日本では乾杯!と言ってグラスをチーンと当てあってスタートしますが、向こうでは軽くグラスを挙げるだけです。テーブルはそんなに狭くないとかグラスに入っているワインの量が多いからこぼれる、或いは高級グラスに傷をつけたくないとか、まあそれが習慣ということです。 ボトルが空に近づいたとき、ボトルの最後の一滴を相手のグラスに「あなたに幸せを!」と言って注ぎます。最後の一滴を貰うと幸運が来るとか、年内に彼女が出来るとか適当な理屈で、要は「これでお終い!」と宣言する訳です。 私のワインボトルも底に近づきました。この残りをあなたのグラスに、そして「良いお年を!」と申し上げます。

新加坡回想録(62)「ピ!ポ!パ!」

40年ほど前、まもなく30歳になろうかというくらいの時の話。後に駐在することになるシンガポールに初めて行くことになった。商社で澱粉の輸入を担当していた私は、東マレーシアのボルネオ島で生産されるサゴ澱粉(サゴ椰子の幹から抽出される澱粉)の仕入れ契約のために出張した。 現物の商品はボルネオから北上して直接日本に輸入されるが、取引は当時のシンガポール支店(現在は現地法人)経由でなされていたため、行き帰りは必ずシンガポールに立ち寄っていた。時には販売先である大手薬品会社の担当者を案内することもあり、その意味では、当時から観光地として人気のあったシンガポールに立ち寄ることがいい接待にもなった。 今や、世界でも先進国の仲間入りをしたと言っても過言ではないシンガポールだが、土地が狭い(淡路島くらいの面積)ことを逆手にとった政府の政策が功を奏し、当時でもロンドン、ニューヨークに次いで、世界の”3大金融都市”のひとつと言われるまでになっていた。 日本と大きく違うのは多民族国家であることで、国民の約70%が中国系、約15%がマレー系、約9%がインド系とさまざまな人種で構成されていた。開発途上国の中では成長率が著しく良かったので、そこに欧米をはじめ多くの国が進出していった。日本も負けじと多くの会社が事務所を置いていたので、世界でも珍しいほど日本人学校も充実しており、医療事情などと併せて日本人にとって住みやすい都市国家であった。 教育面でも、小学校3年生で生徒の最初の能力選別が始まるとういう徹底した英才教育で知られていた。多民族国家であるから、もちろん家庭ではそれぞれの出身の国の言葉を話すが、国語として指定されたのはマレー語と英語である。国民として英語を話す必要に迫られたが、年配の人やあまり教育を受けていない人たちの英語はよく言われる「シングリッシュ」で発音がよくなかった。 ある日のこと、多くの人々で賑わう旧ニュートンサーカスの屋台で食事を楽しんでいた。昔から屋台は有名だが観光化し過ぎた最近の屋台とは少し事情が違いまだ素朴さがたくさん残っていた。ガヤガヤと騒がしい中で隣のテーブルからひときわ大きい声が聞こえてきた。 「ピ、ポ、パ!」と叫ぶ声が聴こえる。「うん?、ピ、ポ、パ!」って何のこと?プッシュホンでもあるまいし。 耳をすましてよく聞いてみると、話しているのは紛れもなく中国系の人たちだが、言葉は中国語ではなくどうも英語らしい。悪いとは思いつつも、もう少し聞き耳をたててみた。 よく聞いてみてようやく意味がわかった。それは、「ピープルズパーク(People’s Park)」のことだった! 現地の人の英語の特徴のひとつで短く切るように話すのでそう聞こえたのだった。いわゆる「シングリッシュ」だ。シングリッシュをしゃべる彼らは、もっぱら中国系が多いように思う。それも中国南部地域特に福建省出身の人たちが多かった。しかし、この「シングリッシュ」を軽蔑することはできない。 発音がどうであろうと、日本人である私の目から(耳から)見ると、少なくとも彼らは、母国語以外の外国語を話している訳で、外国語を受けつけようとしない多くの日本人とは違う。それに、「ピ、ポ、パ!」に関しては、イントネーションを強調しているわけだから、案外日本人の平坦な発音よりは英語に近いとも言えなくもない。 多民族国家であることで、必要に迫られて毎日生活するために使っている英語。決してきれいな発音ではないが意思疎通には問題がない。帰国してこのことを同僚に話すと、笑い話のようにとられることが多かったが、40年経った今でも、本質は別のところにあると思っている。 世界中の誰もが母国語のように英語をしゃべることが重要ではない。それよりも母国語でしか話せないような”内容”をいかに世界で通用する言葉で伝えることができるかが重要ではないか。日本語で言えば、「寿司」や「津波」などよりも「わび」「さび」が英語で伝えられるようになることのほうが大事なのではないかと思う。歴史や文化の違いを乗り越えて国民感情の奥底にある機微を理解しあえれば無用な諍いがなくなるような気がしてならない。 西  敏

コッツウォルズ紀行⑯アーリントン・ロー

バイブリーとアーリントンという2つの村の間にはコルン川が流れている。そこに架かる橋とまわりを取り囲む草花、川に浮かぶ白鳥や鴨たちが、著名な芸術家ウイリアム・モリスも住んだこの村に、静かな美しさを与えている。この村を代表する景色のひとつで訪れる観光客が後を絶たないのがここアーリントンローだ。14世紀建造の羊小屋を17世紀になって織物職人が住む住宅に改造された長屋風の建物である。グレーのライムストーンで造られた家々の端正なたたずまいは、300年の時の流れを思う人々の心を本当になごませてくれる。 アーリントンミュージアムを見学すると、そろそろランチタイムだ。ガイドブックにあったレストランは残念なことにたまたま閉店だった。 仕方がない。車を走らせながら適当なところを捜すことにする。やがて車はバーフォードの村に入った。最初に目に付いたレストランでイギリス最初のランチを取ることにする。イングリッシュブレッドに紅茶と、ありきたりのメニューしかない。 このあと、中世の村の様子を忠実に再現したモデルヴィレッジがあるというボートンオンザウオーターに行く手もあったが、モデルではない「本物」の村々を見た後ではモデルヴィレッジは興ざめだ。そこで今回の旅のテーマのひとつである「アンティーク」の村として有名なストウ・オン・ザ・ウォルドに向かうことにする。 ~つづく~

シンゴ旅日記インド編15 インドで医者への巻 後編

総務担当のお母さんのお母さんのホームドクターのところへ車で向う。いつもと違う道を走る。体はしんどいがカメラをカバンから出して窓の外の景色を窺う。金物商というかスクラップ屋さんが多い通りである。 人の背丈もあるテンピンが見えた。シャッターが間に合わなかった。頭に白い帽子を被った人が多い。 『あれってイスラムの人?』 『違います。ガンジー・トピーと言います』 『ガンジス地方の人が被る帽子なの?』 『違います。ガンジー・ハットです。』 『ガンジーってあのガンジーさん?』 『そうです。』 インドネシアのスカルノ・ハットは知っていましたが、ガンジー・ハットは初耳でした。トピ-って帽子のことですよ。インドネシア語でもと思う。 古いアパート群に入って行く。車止まる。ここ?普通のアパートでは無いの?でも外に看板出ている。まあこんなものか? 写真撮って中へ入る。お医者さん一名だけ?奥様も医者で二人で営業しているとのこと。 先客一名あり、その人が出ていって、総務担当と私診察室に入る。       町の病院       待合室 お医者さんの質問に総務担当が一人で答えてくれます。ゆで卵食べたこと話しているのかな?土曜日にもお腹壊したこと話しているのかな。 お医者さんから指示があり、横になって血圧計り、お腹押して調べてもらう。 『何か薬飲みましたか?他に薬飲んでいますか?』 『日本からの食あたりの薬を今朝飲みました。高血圧の薬を日本から持ってきています。しかし、あと4日分しかないので最近は飲んでいません』 これは前任者から高血圧の薬がインドでは日本に比べて異常に安いと聞いていたので、あわよくば調合してもらおうとする私の戦略。 会社で飲もうと持ってきたワカ末を見せる。でも箱から取り出しシート状で持ってきたし、英文の成分表示がないので何も分らない。 お医者さんが薬を調合してくれる。 『夕方に調子悪ければまた来なさい、そうでなければ明日の朝来なさい。』 薬を小さな茶色い袋に入れてくれる。昔、お菓子屋さんで包んでもらったような色の袋です。 お医者さんが総務担当に飲み方を教えています。袋にいつ何を何個飲むのか書いてくれています。 頃合を見て私はお医者さんに写真取らせてくださいと頼む。 『何で?』 とお医者さん、びっくりして聞き返します。 私が趣味で写真日記をつけているからと説明し承諾してもらいました。総務担当も一緒にハイッ、ポーズ。(写真 お母さんのお母さんのホームドクター) お断りしますが、今までの会話は全て総務担当の通訳付きです。 そして、その総務担当は手のひらに薬を並べて指で何回も個数を数えています。 やめて!!薬は飲むものです。触らないでと心の中で思う。 薬は一日3回分でした。代金は何とRS.50.-(50ルピー=約100円)です。 さすがジェネリック大国。そして医薬分業じゃないのね。 事務所に戻る途中で総務担当が私のためにココナツを買ってくれました。 来る時に大きな秤のあるスクラップ屋さんの前を通り秤が見えたので急いでシャッターを切る。 間に合わなかった。前の席から総務担当が言います。 『丹羽さん、なんでこんな汚いところを撮るのですか?』 総務担当は汚い場所の写真撮ってほしくないのですね。ここが日本であれば私もそう思うでしょうね。 『古い、大きな秤があったのですよ。』 私は言い訳がましく答えました。 10時。事務所に戻る。その手前の商店で総務担当はまた栄養剤を2本買ってくれました。 事務所でパソコン開くも集中できません。 いつもは営業マンに案件ごとに細かく注意する私です。しかし、今日は違います。 『昨日の残りの業務はなんですか?今日する予定の業務は何ですか?リストにしなさい。メールに入っている情報をお客様は本社に転送する前に自分で理解しなさい』などと優しく言うだけが精一杯です。 アパートで休むことにしました。総務担当に伝えます。 『私今日はアパートで休みます。Rest for tomorrow.』 『ちょっと待ってください、丹羽さん。小切手を切り直しますので、サインをください。税率変わったのです。』 『サイン済ました前の小切手はどうしたの、税率がいくらからいくらに変わったの?』 なんや、かんやで、結局。 12時。 カバン提げて出る。事務所の前に駐車してその中で寝ている運転手を起こす。 出発しようとしてキーを回すもエンジンが掛からない。運転手車から降りてボンネット開けて何かいじっている。 戻ってきた、ギアが入っているような音、でもなんと掛かった。 駐車スペースから出ようとするが、なんと彼が寝ている間にその前後にオートバイが数台駐車してしまったみたい。切り替えしを何回もしてもう少しででれるようであったが右のドアが苗木に当たっている。 この事務所棟を管轄する警備のおじいさんが出てきてその苗木を倒して車が出られるようにしてくれました。この警備のおじいさんいつもは椅子に腰掛けて寝ているだけなのに、今日はすごい。 車はアパートに向います。 また市内料金所で料金を私が払いました。良く見るとこの運転手さんシートベルトの先を助手席の方の金具に通していました。 そしてアパートについてそのままベッドに入り休みました。 2時。携帯がなる。 『元気か?』うちのコンサルタント、先週バンガロールで一緒だった人、家族付き合いしてる人、事務所で私が早引きしたと聞いて電話してきてくれた。 『大丈夫と』と私は返事しました。 また携帯なりました。 『メールアドレス教えてほしい。こちらは、、、、、』 良く聞き取れない。前任者の名前叫んでいる。 お客様と思い後でスタッフから電話させると電話切り、その旨事務所の営業マンに電話する。 また寝入る。そして。 5時過ぎ。 総務担当から様子を伺う電話がありました。ありがたい。気が利く。 それにしてもあの営業マンからは先程の電話内容が何であったかの報告がない。明日事務所に行ったらイエローカードだと思う。するとしばらくして 『丹羽さん、気分どうですか?先程の電話は展示会の案内を送るからアドレス教えて欲しいというものでした。』 営業マン、遅れたけど報告できるようになったから進歩か。彼を指導力アップの外部研修に参加させる予定です。 明日からまた疲れそう。パタキさんに買ってもらった栄養剤飲んで寝るとするか。           栄養剤(マンゴ味)    これがガンジー・ハット                   薬(良く効きました。)   インドで医者への巻 おわり   丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編14 インドで医者への巻 前編

副題は『インドで一番長い半日』です。古い映画の題名の盗作ですが。許して下さい。 火曜日の朝の5時に目覚めました。まだカーテンの外は暗いのです。 出勤の8時まで時間があります。また目を閉じて、そして再度目覚めると5時半でした。 いつも起きる6時までにまだ30分あります。でもトイレへ行くと、ちょっと体が重いのです。 土曜日に食あたりで半ドンの会社を休み静養しました。日曜、月曜と元気だったのです。月曜は総務の担当者が気を使い、昼食は野菜チャーハン、野菜スープのベジでした。しかし、また、腹を壊したみたいです。 キッチンに行って冷蔵庫からペットボトルに口をつけて飲みました。 ベットに向かう予定がトイレへ変更です。ここから先は省略します。アジアに住んだことのある方は経験ありますよね。ベッドとトイレのわずか3、4メートルの距離が30、40メートルに感じられることが。ベッドに戻ること許されずそのままトイレの上で朝を迎えたことも。 とかしているうちに。6時になりました。カーテン越しに外が明るいのが分ります。 でも、まだ時間があります。薬飲んで寝ておこう。前回はワカ末だったので、今回はアジアの名薬、香港製のPo Chai Pillにしよう。 小さな箱から1センチφx4センチの筒を取り出して頭のセンを苦労して抜きます。粒粒が一杯入っているので開けた瞬間2,3個飛び出して床に落ち、バウンドしています。拾うのがしんどいので、今度の休みに掃除しようと考えます。 粒粒を水で流し込みます。ベッドいやトイレへ戻ります。吐き気がします。水の飲みすぎとPo Chai Pilllを胃が受け付けなかったのでしょうか。香港の薬が渦を巻いてインドの水に流れてきます。 やはり日本の薬がいいのかと今度はワカ末を2錠飲みました。今度は大丈夫。でも食欲がでません。シャワーをかぶりたくありません。 ベッドとトイレの往復の中で食あたりの原因は何かと考えます。 思い当たるのは昨夜食べたゆで卵です。日曜日に冷蔵庫にあった3個の卵をゆでて2個食べました。その時は何ともありませんでした。昨夜残った一個を食べました。きっとそれだ。でも日曜日はなんとも無かったのに。皮むくときに手を洗わなかったか? 5分とベッドに寝ていることできません。病気になるといつも昔を思い出します。 インドネシアに駐在していた時のことです。出張先のスラウェシのメナドで金縛りにあいました。疲れてホテルで寝ていると3人くらいの人影が枕元に来ました。目を開こうとしても、手を動かそうとしても動きません。怖かったです、その人影たちはベッドの周りをぐるぐる回り、そして出て行きました。 さらに出張先のイリアンジャヤのビアックでもお腹を壊し、現地の青い色した水薬飲んで汚いベッドで寝たこともあります。 タイに駐在していた時はアパートで、などを考えていたら。7時。 会社を休みたい。しかし車は8時に来るはず。7時半に起きて支度すれば間に合う。でもしんどい、やっぱり休もうか。否、日本人は熱が出ても出勤して働くところを見せるのだ。内心は土曜に休んでいるので、また休むのがちょっと後ろめたい。 でも体調管理が大事だから休もう、と支離滅裂な思考回路状態。 7時半。 なんとか起床し、なんとか着替える。最近シャツに手を通すとき肩が痛い。五十肩? いつもは8時にアパート出ます。そうすると私が一番早く事務所に着きシャッター開けねばならない。 うちの事務所、商店街のようなシャッターで戸締りをしています。鍵は私と総務担当だけが持っています。 少し遅く行こう。 8時5分頃アパート出よう。 総務担当、ごめんなさいと心の中で謝っていると。 8時丁度。 携帯がなりました。運転手が『#$%&‘$%&』と話しかけてくる。意味わかりません。でも時間通りに来たみたい。 カバン持って降りる。 会社の運転手は結婚式のためまだチェンナイにいます。その間はレンタル会社の日替わりの運転手です。 日差しはもう強いのです。玄関から駐車場まで20mくらいを私がカバンを重そうに提げ、ゆっくり歩きます。が、今日の運転手、気にしていません。カバンを受け取りにも来ません。逆に空のペットボトル持って水飲み場へ歩いて行って水入れています。車はタタのIndigoです。Vitzと同じくらいです? 車に近づき、ドアを開けカバンを先に入れ、頭がドア上部に当たらない用にゆっくりと入り、腰を掛けます。 お尻は会社まで持ってくれるかな。 発車。 途中営業車が市内へ入るために15ルピーを払う検問所に近づく。この検問所、運転手により止まる時と素通りする時がある。今日の運転手は止まって支払うみたい。 止まった。でも運転手が私の方を向いて右手の親指と人さじ指を摺るしぐさする。あれーいつも支払いする時は運転手がしていたのに。なぜ今日は私が払うの? 仕方なく10ルピー札2枚渡す。 係員が車に寄って来る。運転手に小銭はないかと言っているみたい。運転手はないと答えているみたい。 係りの人は検問所へ戻り小銭かき集め戻ってくる。 その時に時計見る。8時10分過ぎ。 きっと今日は総務担当がシャッター開けることになると思う。 検問所出て揺れながら車は走る。事務所への角を曲がる2つ前の角で白いロバが3匹反対車線をこちらに向かって走って来るのが見える。昨日の朝に写真を撮ろうとして間に合わなかった風景だ。 今日は逃さないぞ。 総務担当の顔が頭をよぎる、少し考えて運転手にUターンしてと頼む。Uターンした。 さっき見た場所に居ない。さらに走って行ったみたい。車を先へと走らせる。見つける。 野良ロバかと思ったが頭に紐ついている。3匹の後ろを自転車に乗った人がついている。この人がロバ使いか?車を先行させてロバが来るのを待つ。ロバが車の側を通りすぎる。 近すぎる。もっと先へ行ってと運転手に言う。意味通じたみたい。 先で待っているとロバは道から外れて草むらに入っていく。ロバ使い自転車降りてロバを追っかけている。写真取れた。 じゃあ、今度は事務所にUターン。 8時25分過ぎて事務所の前に着く。やっぱり総務担当が一枚目のシャッターを上げている途中だった。ごめんなさい、遅くなって。 わが社は私と3人のスタッフと休暇中の運転手だけです。スタッフの一人のメンテマンは日本からの技術屋さんと出張中で不在。私と総務担当さんと営業マンだけ。私のお腹の調子が悪いことを二人に伝える。 総務担当が医者に行かなくていいですかと聞く。私、午前中は様子を見ると伝える。 そして先日、本社から送ってきた海外旅行保険のハンドブックを引き出しから出してインドのどの病院が適用されるのか読む。アジアの項を見る、タイ、インドネシアはある。 インドが無い!? うそー、じゃあどうするの。使えないの、この海外旅行保険?心配になる。 総務担当が言いました。 『前任者も見てもらったお医者さんがあります。私のお母さんのお母さんのホームドクターです。』 『前任者は何の病気だったの?』 『風邪と咳です。』 『何時から始まるの?』 『聞いてみます。』 電話で様子聞いて、『丹羽さん8時半からやっています。』 『じゃあ、行くか、遠いの?』 『車で15分です』 私は机の上でメールに目を落としていましたが、パソコン開いたままにして総務担当と事務所を出ました。午前中は様子見るはずだったのに。 (後編に続く) 丹羽慎吾

コッツウォルズ紀行⑮バーンズリーハウスガーデン

カッスルクームでゆっくりと時間をとって個人旅行の自由さを満喫したあと、A429を北上しバイブリーに向かう。一級国道は比較的カーブも少なく非常に走りやすい。ドライブ途中でもところどころに中世から変わらないたたずまいを残すライムストーンの家々が現れる。車は快調に走り小一時間ほどしてサイレンセスターに入った。 サイレンセスター(Cirencester)は2000年前にローマ人によって築かれた街でノルマン朝時代にはイギリスで二番目の規模を誇ったそうだ。そこからB4425をバイブリー方面にしばらく行くと第二の目的地バーンズリーハウスガーデンに着いた。イギリスの観光スポットはどこも派手に宣伝していない。ぼんやりしていると危うく見のがしそうになる。 バーンズリーハウスガーデンは、ガーデン・ライターとして著名なローズマリー・ヴェアリー夫人のプライベート・ガーデンで、その美しさはイギリス屈指とされるらしい。書物で調べてみると、「イングリッシュ・ガーデンは6~7月にピークを迎えるが、彼女の庭の素晴らしさは綿密な植栽により一年を通して庭を堪能できることにある。夏の盛りのハーベイシャス・ボーダーをイングリッシュ・ガーデンの典型のようにとらえがちだが、夫人の庭は多彩な表情を持ち、イギリスの四季をリアルタイムで感じ取れる。」とある。 このハウスは300年の歴史をもつものだが、ヴェアリー夫妻がここに移り住み、庭造りを始めたのは1951年のこと。子育てに追われる時期でもあったが、1960年にようやくその庭造りは一区切りついた。その後の彼女の活躍はめざましく、18冊もの園芸書を出版し、チャールズ皇太子の園芸の指南役もこなす。最も関心が持たれるのはオーナメント・キッチン・ガーデンである。フォーマル・ガーデンのような端正な美しさが印象的で、野菜の持つ美しさに開眼させられるとの評判である。 冬は赤みが狩ったキャベツや紫のビオラが縁取りになり、その中にネギやサラダ菜が植えられる。夏はベリー類やトマトが目を楽しませてくれる。主婦として、そして生活者としての視点が親しみやすい空間を生み出している。 それぞれの花壇は非常によく手入れされており、個人でこれだけの大庭園を管理するのはさぞかし大変であろうと思う。 こういう素晴らしい先人の財産を中世から代々守り続けている人々に敬意を表したい。ほんとうに草木は人の心を慰めてくれる。 ~つづく~

詩~鳥

 鳥   鳥が 身体を垂直に 尾を下にしたまま 枝から落ちるように すとんと下がり そのままの姿勢で 元の位置へ昇ろうとする 胸の位置に 両足をたたみ 羽根は ほとんど広げず 身体を震わせ 三十センチほどの 垂直の上昇 窓の外 私の目の前に 動いている鳥の 白く膨らんだ胸が 露にあった 折り曲げた足は 魚の胸の 一瞬に了解する 空の 海との近さ 水面をめがけて すいと昇る魚 水槽の透明な壁ごしに 目に親しい魚の上昇 だが 野鳥のうごめく胸 垂直の上昇を 真正面から見てしまった時 いけないことをしたように 私の心臓は波打った 鳥は 糸に手繰られ ぐぐっと昇るように見え 抗っているようにも見え 翔ぶというより 震えていた 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

オランダ点描(15)城塞都市

幕末最後の戦いが行われたのは箱館(函館)、五稜郭。正五角形の均整のとれた城塞、その故郷はなんとオランダにあり。江戸時代の日本は長崎出島でわずかにつながっていたオランダからそのアイデアだけを受け容れ、現実にその形を再現してしまっていたのです。オランダの北部ドイツ国境に近いBourtangeという町にある城塞(写真)の姿が、五稜郭の原型のようで、集落の周りを城壁で囲み、外側に何重にも深い水濠をめぐらし、死角を少なくするように三角あるいは星形の張り出しを作り、砲台を設け外敵に備えようという構えです。集落の中心には尖塔のある教会と広場をもち、中心から始まる5つの放射状の道(実際は10本の道)の両側に整然と並んだ民家、城壁の土塁の高さは民家の屋根程あり、ぐるりと取り囲んでいます。その先に星形の出城となる部分が水濠に向かって突き出しています。そして、大砲が外に向かって照準を合わせる形です。 しかし、実際のその防御能力については、弓矢・投石が数少ない長距離攻撃の武器であった時代には頼もしいものであったことが想像できますが、大砲等の火力が充実してきた近代においては大いに疑問が残ります。しかし、皮肉なことに大砲の威力が増す時代になってからの方がこれらの城塞が美的にもより洗練されてきています。 私も城塞遺構の現存する何カ所もの町を訪ね歩きましたが、その町の全体が表現している造形美は、地面に近い視点からはあまりにも大きすぎ、自分の目で鑑賞することはついにできませんでした。Bourtangeなどは非常に小さい方なので分かるのですが、Heusden・Naardenなどは上空から俯瞰しない限り町の全景がどうなっているのか全く分かりません。オランダの主な都市の城塞化されていた痕跡を見るなら、やはり空から見るのが一番のようです。 この町は昔、一体どんな形をしていたのか?それを知るにはいいものがあります。17・18世紀に印刷されたエッチングの古地図です。一軒ごとの家並みまで描きこまれており、当時の面影がよく表されています。主要な都市のものを収集するというもう一つの楽しみになっています。さらに、現在の地図と比較する面白さ。出来れば、その両方をもって天気のいい日に空から遊覧飛行が出来ればもっと楽しいと思っていますが、未だ実現はしておりません。楽しみはもう少しとっておこうと思いつつ・・・。 注)ついに、帰国までに遊覧飛行は実現できませんでした。 ただ、それに代わる楽しみができました。私の帰国後、急速にインターネット等の情報が発達し便利なものが出来ています。その一つ、GoogleEarthです。上空から近づけて、遊覧飛行に近い(写真ではありますが)上空からの景色を楽しめます。またストリートビューを使えば、昔歩き回った道をたどることもできます。  

シンゴ旅日記インド編13 日本の映画DVDの題名の巻

インド、プネ、単身赴任。休日。娯楽なし。 ゴルフは肘痛、膝痛で止めました。というより、何年やっても100を切れないプレーヤーでした。悟りました。ゴルフは頭でやるものと。 日本の映画、TVドラマが無性に見たくなります。バンコクやジャカルタで買ったものを持ってこればよかったのにと反省しています。 で、私は日本映画のDVDをインドのプネで探しました。街で一番大きそうな本屋を見つけました。 書籍、DVD、CDが一杯です。ほとんどが欧米とインドのDVDばかりです。 日本のDVDあるかな。ありました。ありました。 でもAKIRA KUROSAWAが七本、KIHACHI OKAMOTOが二本、YASUJIRO OZU、HIROSHI INAGAKI、MIKIO NARUSEが各1本づつそしてゴジラです。なんかNHKの図書館みたいです。 その英文題名から原題が分りますか? 原題そのもの:YOUJINBO(61年)、MADADAYA(93年)監督名を言わなくても分りますよね。 直訳のものは次の3本です。 DRUNKEN ANGEL―『酔いどれ天使』(48年)この映画はある場面でインドネシアの影絵ワヤンクリットが出てきますよ。 志村喬っていい役者ですね。 香港映画で『DRUNKEN MONKEY』(酔拳)ありましたね、 THE QUIET DUEL―『静かなる決闘』(49年)映画が始まると『社会式株映大』って右側読みのタイトルが出ます。 FLOATING CLOUDS―『浮雲』(成瀬巳喜男監督。55年)面白いです。一見の価値あります。 林芙美子原作です。 戦争中に農林省の妻ある役人とタイピストがベトナムで恋に落ちます。役人は先に帰国して役所を辞め貧乏暮らし、姑あり、夫婦仲悪し。タイピストは戦後に引き上げ彼の元に、、、、 森雅之と高峰秀子。熱演です。 紆余曲折あって最後は。 上映時間2時間は飽きませんでした。ベトナムの森林も出てきます。岡田茉莉子(当時22歳)も出ています。ロイ・ジェームス、山形勲も。 買う時は英語の説明を良く読まなかったので二葉亭四迷の作品かと思っていました。 ここからが難問奇問です。 THRONE OF BLOOD →『蜘蛛巣城』(黒澤明監督。57年)、まだ最後まで見ていません。 三船敏郎と加東大介主演。 HIGH AND LOW →『天国と地獄』(黒澤明監督。63年)有名ですよね。 三船敏郎の情けある実業家の息子が誘拐されて、、、。 黒澤作品は他に『羅生門』(Rashomon, 51年)『赤ひげ』(Red Beard, 65年)『乱』(Ran, 85年)などがありました。 THE END OF SUMMER →『小早川家の秋』(小津安二郎監督。61年)です。 夏の終わりは秋ですね、納得? 宝塚映画作品でカラーです。あの永遠の〇〇、原節子出演、名優たちがチョイ役で出ています。 主演は中村鴈治郎になるのでしょうか? 森繁久弥、加東大介、小林桂樹、新珠三千代、司葉子など。笠置衆さんもエンディングで出ていますよ。川で手ぬぐい洗う農夫役で。その頃から老けています。 折角ですから写真集を添付します。 SAMURAI →『宮本武蔵』(稲垣浩監督。54年)表紙は若い三船敏郎がちょん髷結って、釣竿持って笑ってる写真です。まだ武蔵が岡山にいるころの沢庵和尚とお通との交流を描いています。お通と別れるところで終わっている作品です。 『釣り馬鹿日誌』のスーさんが相棒役で出ています。この人も昔から出ているのですね。もう56年前ですよ。 THE SWORD OF DOOM →『大菩薩峠』(岡本喜八監督。66年)です。東宝と宝塚の共同作品。訳はこれでいいのでしょうか?仲代達也がニヒルな剣士役で、最後自己破滅します。三船敏郎も出ています。正義の道場主で。 KILL →『斬る』(岡本喜八監督。68年)驚愕の一言。名訳?迷訳? 仲代達也の昔武士、今ヤクザの物語。 なお、三船敏郎が出演時に何歳だったかを知りたい人は製作年から20を引いてください。 1920年生まれですので。原節子も20、笠智衆は04、志村喬は05、仲代達也は32でお願いします。誰ですか、自分の生まれ年引いている人は。 でも、皆さんは何本ご覧になりましたか? しかし、インド人は日本人はまだちょん髷結って、刀を刺して歩いていると思っているのではないでしょうか。彼らに日本の映画には、もっともっといいものがあるよって教えてあげたいですね。 さて私のコレクションの内カラーは3本だけです。 どれとどれか分りますか?